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2023-08-29

そのスキルは単体で身につくのか問題

最近2、3の席上で同じ話をもちだしたのだけど、それが「そのスキルは単体では身につかないと思うんだ」という話。芦田宏直先生が「シラバス論」の中で、簡潔にこう表している。

「関心・意欲・態度」「思考力」「判断力」などは結果の能力であって、目的にするほどの固有性はない

以前ここを読んだときの「我が意を得たり」感といったらなかった。結果の能力、目的にするほどの固有性はない、こんなふうに言い表すことができるのかと脱帽。

何か具体的な事柄に対して、興味をもつ、意欲がわく、思考力が働く、判断力がつく。その結果として、別の事柄にも興味をもちやすくなる、いろんな方面にも応用がきいて高い思考判断が働きやすくなることはあろうが、最初から全方位的に関心高く思考判断を高める強化プログラムを採用するのは、ちょっと普通の人間のつくりに照らして無理があるんじゃないかと、普通のつくりの私は、この弁に首肯するのである。

この本は大学教育を念頭において書かれたものだが、組織の人材育成にも同じことが言える。というか、こう切り込みたくなる場面に遭遇することが、けっこうある。

人事部門が企画する社員研修、研修会社が提供する汎用的な(全業種対応の)公開講座、前に高校生にお題を出して発表してもらったときに「結局はコミュニケーション能力だ」と言われたときにも面くらったが。

ロジカルシンキングだ、コミュニケーション能力だ、意思決定力、主体性、モチベーションだ、それで何かを特定できているかのように思えてしまうのが言葉のマジックで、しかして、ほとんど何も特定してはいない。

言葉を与えた以上、まったく何も特定できていないということはないわけだが、「求める能力を備えるための解決の道筋をつけるのに十分な特定ができているのか」という物差しをあててみれば、要件定義としてはほとんど意味をもたない言葉にとどまっている。

だけど、よそからもってきた言葉で一言これと言い表してしまうと、何かを特定できた、言い得たような気分になってしまって、そこに安住してしまうことが、ままある。無意識にこれにはまると思考停止に陥る。

高校生との場では、あるグループでは「幼稚園の先生」の職能として、別のグループからは「システムエンジニア」の職能として、「結局はコミュニケーション能力だ」との発表があったので、幼稚園の先生なら幼児や保護者へのコミュニケーションだし、システムエンジニアなら顧客企業のシステム管理部門の人相手に交渉したり、システム環境や要件を聞き出したり。一口に「コミュニケーション能力が大事」といっても、対する相手も内容も、かなり別ものですよねって話して、これからの時代は「抽象的に」、ある種「雑に」くくらないで、解体して、自分なりにばらしてみて具体的にとらえていくことがすごく大事になってくると思うんだという話を返した。

SNSなどでは、プライベートなこと・社外秘のことを書き控え、具体的な内容・文脈を与えぬまま抽象的な概念ワードを交わし合うのが一般的だ。それが意味をもつこともあり、それが抽象と具体をつなぐ言葉の強力さでもあるわけだけど、そればかりに慣れすぎて、具体に落とし込んで考える、次ステップに展開させるための道筋をつけるまで言葉を落とし込む、落とし込んだ言葉で実地検証するプロセスをおろそかにしてしまうと、どんどん思考が薄っぺらくなっていってしまう。

閑話休題。意欲的な人間を育む、何ごとにも関心をもつ人間を育てる、結果的にそうなることはありえても、そこ単体を取り出して「全方位的に関心・意欲が高い人を育てよう」とする施策は、他者に向けたものであれ、自分に向けたものであれ、ちょっと人間の構造を単純にとらえすぎている感を覚える。もちろん、そこを難なく突破できる超人もいるとは思うけれど、それはそれだ。

私は、あくまでオーソドックスなアプローチ、普通の人のために効力をもつプログラムは何かと考える。それをこそ自分の仕事としてやりたい。

それでいくと、やはり「結果の能力」「目的にするほどの固有性はない」ものに対して、単純にそれを冠した講座をやって、施策を講じました、あとは本人次第ですというのは悪手に感じる。この人が、この人の現場で、その能力を発揮して、役立てて、ドライブがかかって、いい仕事をして、組織や社会貢献につながっていくための具体的文脈をとらえていくこと、そこを丁寧に汲み取って考え抜いていくことを大事にしたい。

*芦田宏直「シラバス論:大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について」(晶文社)

2023-08-28

よたよた補助輪の不安定な効用

小さい子どもが、補助輪つきの自転車をよたよたしながら乗っていた。補助輪に目をやり、はっとした。左がつくと右が浮き、右がつくと左が浮く。あれ、もしかして幼児用の自転車の後輪についている補助輪て、あえてがっちり両輪が地面に接地しないように付けてあるのか?と。

気になって調べてみたら、やはりそのようだ。ブリヂストンサイクルのQ&Aによれば、自転車の安全基準BAAおよびJIS基準に準拠し、「後輪と左右補助車輪との高低差が25mm以下になるように基本設計されている」ということだ。

私は最初、補助輪で安定をとれすぎちゃったら一向に幼児が自力でバランスとれるように成長しないから、あえて補助輪を多少バランス悪くしているのかと思っちゃったが(職業病か…)、普通に「あんまりがっちり地面に接地させたら使い勝手が悪いでしょ」という話だった。そら、そうか。

カーブをスムーズに回ったり、後輪の空気圧がなくなっても補助輪が突っ張らない、段差などで片方の車輪だけに加わる衝撃を逃がす等の働きをしています。

その子と、つきそう親御さんと一緒に横断歩道を渡り、私は地下鉄の駅にくだる。電車に揺られていると、今年から始めた習慣に思いあたった。

今年に入って私は、地元に帰って父と映画館に行くのを毎週末の習慣とした。昨年は2、3本観たかどうかというくらいだったのが、今年はすでに27本の映画を観ている。

それが、父の走らせる自転車につく補助輪と思われなくもなく、脳裏に浮かんだようだ。そんながっちり頼りになるでもないし、心許なさはぬぐえない程度の働きしかしないが、だからこそ父は自分の車輪で、自分の筋力で、自分の自転車をこぎ続けているようにも思う。

年始にケガをして、快復するまでに気持ちの面でもけっこう大変だった時期があるが、今はずいぶんと元気な顔を見せてくれ、健康に歩き、気概をもって自分の人生を自分の足で歩んでいるように感じられる。

私は週に一度、映画の前のランチで、あるいは映画の後の買い物の最中に、細々とした気がかりなど聞く。虫さされが続いているんだよという話を聞くと、近所の皮膚科をネットで調べて、ここのクリニックに行ってみなよと案内する。大きな病院じゃ待たされるから、近くの駅ビルのここに行ったら早いよとか(待つのが大嫌いなのだ)。ひっそりとGoogleのレビューにも目をやって、問題なさそうなことを確認して案内する。たぶん塗り薬を処方してもらえるから、それを塗ったらいいよと、簡単に済むだろうことをそれとなく示唆しながら勧める。そうすると「あぁ、あそこの何階に皮膚科が入ってるのか。じゃあそこ行ってみるか」と足を運ぶ気にもなる。

その程度のことを重ねている。それが、先ほど見た補助輪のよたよたっとした支えと、重なって見えた。

向き合ってランチを一緒にとっていると、いろんな「ちょっとしたこと」が話題に出てくる。そのうち困っていそうなことについて、全部「ちょっとしたことだよ」という感じで、こうしたらどうか、ああしたらいいんじゃないかと応じていくと、父も「あぁ、ちょっとしたことだな」という感じになって、そうしてみようかなと着地する。そういう按配を、今は大事にしている。

不安定さというものに、私は価値を認める。安定が優位であり、不安定さが劣位という単一の価値基準というものが、私は好きじゃない。どういう按配がいいかは、その都度、自分の頭を使い、自分の心をくだいて、何がいいか考えなさいよと思う。按配を大事にして、極端と極端の間にオリジナルの活動を作り出せることが、人の営みの愛おしく、おもしろく、尊いところじゃないか。

昨日観た映画は、世界一深いマリアナ海溝を舞台にしたお話で、映画を観る前のランチどき、マリアナ海溝についてあれこれおしゃべりした。どの辺にあるんだっけ?というのでGoogleマップを開いては、日本とオーストラリアの間くらいだねぇなどと話し。Wikipediaを開いては、海面を基準にエベレストをひっくり返しても山頂が底につかない深さなんだってさーと話し。1960年代に海底まで降下した人がいて、エビとヒラメを見たんだってさーと言えば、エビはわかるがヒラメがそこにいるのは信じられんというのを、なんでやねんと返し、海老天をやるというので、海老天をもらった。

映画を見終われば、近くのスーパーに寄って食料品売り場へ行く。さしみ醤油、こっちの棚にあったよーとか、はまちが安いね、これ値引きしてるよなどと声をかけあい、買い物につきあう。私は私で、なかなかな新しい習慣を楽しんでいる。補助輪としてちょうどいい按配が穏やかに、にこにこ続くといいなと強く願っている。

2023-08-21

私、紙とペン持ってるよ

私、紙とペン持ってるよ。そう言って得意げにカバンから取り出すことが、最近立て続けにあった。カフェで、居酒屋で、バスの中で。別に得意げにするようなことじゃ全くないのだが、最近はちょっとしたメモならスマホで事足りることも多く、わざわざ紙とペンを持ち歩かない人も多い。

時と場合によるという人も、ようは時と場合を選んで持ち歩いたり、持ち歩かなかったりしていて、ちょっと使いたいときに持っていないことがままある。そもそも、持ち歩かなくなると「ちょっと使いたい」とも思わなくなるのだろうが、紙とペンを差し出すと、書いて使って説明してくれたりする。質問もはずむ。会話もはずむ。

人がペンをもって、目の前で何かを紙に書いたり描いたりしてくれるのをみるのは、なんとなく愉しい。ルンルンという気分になる。なんでだろう。

今ここで時間と空間をともにしている感覚を、存分に味わうからだろうか。デジタルに変更を加えられることなく、そのままその人の中のものが純度高く出力されている感じがするからだろうか。ぶかっこうな文字も絵も図も、その人の個性と愛嬌がにじみ出ていて、とても贅沢な感じがする。受け取る自身の解釈や発想にも自由と広がりを覚える。

私が紙とペンを持ち歩き続けている遠因は、おそらく私がオシャレじゃないことにある。私は外出時に持ち歩くカバンを変えない。A4サイズのノートがすっぽりおさまるリュックを、どこにだって持っていく。今日は小さいバッグがいいわ!とかいうことを思わないから、紙とペンがあると邪魔だわ!とも思うに至らない。

私が紙とペンを持ち歩き続けている根本の理由は、当たり前だが、あると何かと重宝するからだ。紙とペンから出力されるものは、パソコンやスマホに出力されるものと、いくらか異なる感がある。

出元が「私」で変わらずとも、出力先が変わると、私から何が出力されるかは、いくらか様相を変えてくる。少なくとも、その可能性を秘めている。というので、なんとなく「今は何がいいか?」と自問して、スマホにメモるか、パソコンに打ち込むか、紙にペンで書くかを使い分けている。ペンはシャープペン、3色ボールペン、サインペンを持ち歩いている。これが私の贅沢だ。

そんな偏屈なこだわりをもつ一方、自身の好みに対して、どうも大雑把な把握しかできていないのがもどかしい。

世間に目を向ければ「OKB48総選挙」も第12回まで回を重ね、自分のお気に入りボールペンを、これと見つけている。好きなブランドがあり、持ち心地や書き心地、好きな太さ細さを見出し、文房具店で握手会をし(握って書き心地を確かめる)、マイベストを選んでいる。

というのに私は相変わらず、自分の好みはコレというものを把握できていない。大型の文房具屋に足を運んで、世界堂や伊東屋のボールペン売り場に立ち、スタジアムの観客席に満員立ち並ぶかのごとく縦に横にぎゅうぎゅう押し合うボールペンらを前に、いくつか選んで試し書きしてみても、どれも悪くないと思うだけで、どれが自分の好みなのかピンとこない。

どうやってみんな、自分の好みはこれだ!という神経回路を働かせているのか。これを探るべく、最近は人に紙とペンを差し出す折、「太いのと細いの、どっちがいいですか?」と訊いてみている。きょとんとした顔をされて、そんなこと気にしていないという反応をもらうと、ちょっとほっとする。

それでも実際問題「0.38、0.5、0.7、どの辺使ってます?」と相手がふだん使っているものを尋ねてみたりするのだが、どうだろうなぁと言って、特別意識して使っていない人もあるようだ。

さらに深く話し込んでみると、やはり0.5の標準を選んでいる人が多い気がする。今、私の手元にあるのは0.38の極細ボールペンなのだが、これを使ってみてもらうと、「細!」という反応が多い。そうだよな、これはやはり細すぎる感がある。狭いところにも書きやすく、細いは太いを兼ねるかと思ったが、そんなことはなく、兼ねない。私のような、自分の好みにピンとこないタイプは、0.5を選んでおけということなのかもしれない。

しかし、ボールペンはそうそう壊れるものじゃない。替え芯の購入を重ねながら、なんとなくずっと0.38を使い続けて早何年か、一向に壊れる気配はない。いずれバネがダメになったら替え時ということになろうか。

自分の好みを把握できたところで、新調できる文具は限られているのかもしれない。中学時代から使っているシャープペンや定規も手元にあり続けている。ほにゃほにゃ中学校運動会とか名入れしてあるから、外には持ち出せないのだが、家で使う分には何ら問題ない。

それでいうと、これぞ消耗品といえるのが紙のノートだ。こればかりは自分の好みを知って次買うものに反映させたいところだが、こちらも何十年と自分の好みを特定できていない。

地の色はオフホワイトがいいのか、リーガルパッドの黄色がいいのか。ノートとパッド、どっちがいいか。紙のサイズは、どのサイズが最適なのか、大小を用意して使い分けるべきなのか。方眼紙と無地では、どちらのほうがはかどるのか。方眼紙だとして、線の色とか太さは何か私に影響を及ぼしているのだろうか。

今のところ、A4サイズのレポートパッドで、罫線ではなく方眼紙、地の色はオフホワイトに着地してみているが、まだ自分の好みの把握ぐあいが心許ない。もしかしたら、もっと好みの、もっとはかどるノートがあるのかもしれないと、もんもんとした思いを抱えながら今日までやってきた。

この先も、人に「私、紙とペン持ってるよ」と差し出すのに乗じて、いろんな人の好みと、その根拠づけを聞き出していけたらいい。この間教えてもらったのは、ある程度ペンに太さがあったほうが、自分の字がうまく見える気がするというもの。なるほど。あと、罫線に沿って文字を書くので罫線つきノートを好んで使っているという話も、なるほどだった。私ははなから罫線に沿って文字を書く気がないので、罫線より方眼紙が好みなのでは、と知るところとなった。

人の理屈、人が何かを好んで選ぶ理由を教えてもらうのって、すごく愉しいんだよな。自分を発見することにもなって、とても好きなおしゃべりの時間だ。何の話だと言われても困るのだが、そういう話。

2023-08-14

読んだことがない者だけが楽しめる遊びフォーマット

最近お気楽(になりたい時)に読んでいるのが、「『罪と罰』を読まない」だ。電車で移動中とか、仕事の合間とか、寝る前とか。

世界的名作として知られるドストエフスキーの『罪と罰』を読んでいない4人が、読まずしてその内容を推しはかる会話録みたいな本なのだが、とにかく三浦しをんの物語展開力がエンタメ感たっぷりに楽しませてくれ、江戸っ子4人の軽妙なやりとりも楽しい。

とある宴席の片隅で、ドストエフスキーの『罪と罰』を読んだことがあるか?という話になり、みんな「ない」と、居合わせた4人が4人とも首を横に振ったことに端を発して作られた本らしい。最初は同人誌で作ろうとしていたが、文藝春秋が刊行役を買って出た。

この「遊びのフォーマット」がおもしろく、他の作品に差し替えたり、自分たちでメンバーを集めてやっても楽しめそう。小説にかぎらず、実は観ていない映画の名作とか、長編マンガとかでも良いかもしれない。

「どの作品でやるか」は、まず誰もがいくらかの聞きかじり情報をもつ有名作だと話に花が咲く。長編の名作だといろんな人の妄想を飲み込めるだけの懐の深さがあって良い。

そして、実は読んでみたかった、観てみたいとずっと思ってはきたのだが、長くて難解そうで、今日まで結局手に取らずじまいで来てしまったという名作が良さそうだ。この会を開いたら、重たい腰あげて読み始められそう、観る気になりそうだという作品だと一挙両得な気がしている。自分たちの推理と答え合わせしたい欲が、ぐいっと自分の重たい腰を押し上げてくれそうだ。

そして「どんなメンバーでやるか」が、この遊びを面白くするかどうかの成否を分けそうなのだが、こればかりはなかなか難しい。話にのる人同士でやってみるしかないかもしれない。

そうやって考えると、偶発的とはいえ『罪と罰』という作品選びは実に見事だし、三浦しをんを筆頭に、この本の構成メンバーはさすが、外野から観戦しているだけでおもしろい。

三浦しをん的存在が集まれば集まっただけいいという話でもなく(たぶんカオスになる)、作家、翻訳家、装丁家が入り混じり三者三様に会話に彩りを与えているのが好ましい。いずれも小説にたずさわる仕事をしてきた文学に造詣深い面々で、文藝春秋が乗り出してくるわけだなという盤石の基礎を築いている。

簡単な遊びの手順・ルールとしては、まず皆で一所に集まって、最初の1ページと最後の1ページだけ読んでみる。これすらないと、さすがに話が進まない。『罪と罰』は上下巻トータルで千ページ近く6部構成の長編小説なのだが、そのうちの最初と最後2ページだけを読んで、まずは「どんな物語なのか、話の筋を推測して、作者の意図や登場人物の思いを探り当てる」会話を始める。

これって連載だったらしいよという情報が投げ込まれれば、連載中は『革命戦士ラスコの冒険』みたいなタイトルだったかもしれないよね、みたいな話に転がり。確かなの不確かなの、いろんな聞きかじり情報が投げ込まれては、わいわいやる。

「しをんさんが、これくらいの長編小説で二人殺される話を書くとしたら、いきなり第一部で殺りますか?」と、書き手としての三浦しをんを呼び出して「いや、殺りませんね」「どのくらいで殺る?」「ドストエフスキーの霊を降ろして考えるとーそうだなぁ」と頭をひねったりとか。

自分が書き手だったらという作家視点、自分がドストエフスキーだったらというドスト視点、それもドストがこの作品で何を描こうとしているか、主人公ラスコーリニコフをどう描くか、ドストエフスキーが作品を書いた時代背景も読みながら縦横無尽にいろんな視点を取り入れて展開する。それを読まずしてやっているので会話の小気味良さがある。

「彼は敵。いけないわ」――第二部はこのようにハーレクイン的に攻めて、第三部で神の残酷さを本格的に問う宗教論争になだれこむ。

みたいにして、各部をどういうふうに位置づけて物語を展開していこうとするか、小説作品の玄人がわいわい話しているのをみるのは、何か一つの舞台を鑑賞しているようなおもしろさがある。

最初と最後の1ページを読んだ後、ひとしきり話したなというところで、6部構成のうち、各部3回まで、ページを指定して、1ページ分だけ文春の人に朗読してもらえるというルールを作る。追いページで味変するのだ。遊び道具ほとんどなしに遊ぶのも、やりながら遊びのルールを自分たちで作っていくのも、実に人間の原初的な営みが感じられて素敵だ。

そうして、とある1ページを読んでもらうと、知らぬ名前が出てきて新たな登場人物が加わり、こいつは「重要人物なのか、捨てキャラか」という位置づけも模索していくことになる。「ラズミーヒンて、誰?響きからして馬?」とか、人名もなじみがない上、同じ人でも全然別の呼び名で出てきたりするから、この名とこの名とは同一人物か?というところも危うく、文脈からの手探りだ。この文脈の手探りが楽しい、これぞ遊びなのだ。もちろん私も『罪と罰』を読まずして、これを読んでいる。

*岸本 佐知子、三浦 しをん、吉田 篤弘、吉田 浩美「『罪と罰』を読まない」(文藝春秋)

2023-08-10

選択の自由を与えた側が、手放しているもの

芦田宏直先生の「シラバス論」を読んで、企業の人材開発に携わってきた立場からも実務的に役だつポイントは多分にあったし、メインで語られているところの大学教育にも多少関わりをもっているので、そこでも早速紹介させてもらったのだが、それはそれとして。こうした直接的な枠組みをはずしても尚、読みごたえ、噛みごたえある本だった。それを昨日、X(Twitter)に一言で書いてみた読書感想文が、これだった。

多様性に傾倒すると、標準性を軽んじる。弾力性にばかり気を取られると、構造性を失う。多様性と標準性、弾力性と構造性、文脈に応じて両方をうまく調和させられるのが、デザインの仕事だよなって思った。

大学教育を例に挙げるならば、昔は大学進学率って15%に満たず、大学はエリートが進む道だった。それが15%を超えるマス段階を経て、50%超のユニバーサル・アクセス段階へと変遷した(米国の社会学者、教育政策学者マーチン・トロウ)。

そうなると入学を受け入れる大学生も多様化し、それに応じた大学カリキュラムも移り変わる。分かりやすいところでいえば、選択科目の数が増えてバラエティ豊かになり、必修科目を減らして選択科目で取れる単位数が増えるとか。

けれど、その弾力性(融通がきく)と引き換えに手放しているものにも目配せが必要だ。それがカリキュラムの構造性であり、その大学が確保する教育の標準性と言えるのかなと。

4年間で124単位以上を履修することとされ、1科目に2単位とかが割り当てられる中、必修科目で40科目、80単位(必修割当比率64.5%)枠を押さえてあるカリキュラム構造であれば、この大学では確実にここの基礎固めをした人材を社会に輩出したいんだなという意向もつかめる。

が、多様性とか自由とか、各人の自立性を育むといったスローガンを掲げて、各々自由に学びたいものを学んだらよろしいという選択科目に偏ったカリキュラムとなると、弾力性は認めるが、構造性を欠き、多様性は認めるが、標準性を確保できない仕組みに堕する。

著者は、「標準性」について「最低限の共通性」と表している。

必修科目で何を教えるか、何は必修科目としないのか。ここには大いに、大学側の方針が現れるもの、現れるべきものだなと思う。

構造というのは、体系性とか網羅性とか順次性とか、そういうものを内包している。この辺りを学ぶにおいては、あれとこれとそれを学ぶ必要があるという要素を網羅的に挙げて、それをどこまで学べば必要十分か、それをどの順で学んでいったら基礎、応用、高度なレベルへと歩を進められるのか、そういう構造を立てられるのは、教える側がもつ能力であって、学び手にはそれが叶わない。だからこそ、弾力性を欠いても不自由な構造をしいて教えることが価値をもつのだ。

それを言及主義(知るべきことは話したから、あとは本人次第)に陥らず、それをどうしたら本人が会得できるのかも、会得している側しか組み立てられない、創意工夫の施しようがない知恵の領域が多分にあって、それら一切を学ぶ側の自律的なセルフマネジメントにゆだねるのは、ちょっと無理難題じゃないかなぁと思う。

「シラバス論」で書かれているのは、もっと骨太で肉厚な内容なのだが、そこを噛み砕いてここに記せる力量もない。個人的メモとして、ここに残すのは、多様化だ自由だ自律性だと説かれる時代に、反対側に何を対置させてバランスをとることが、デザインの仕事だろうかと考えるに際し、大局的にとらえるためのキーワードを与えてもらえたなと思う。ものごとを捉えていく上で、多様性と標準性、弾力性と構造性を示してくれたこの本のありがたみは大きい。

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