父の思い出探訪、京都編
おととし秋の長良川旅行に続き、今回は京都へ、父の思い出探訪に出かけた。梅雨どきだったので、天気は当日になってみないと…という賭けだったが、前日の荒天から一転、旅行の間は天気にも恵まれて、むしろカンカン照りの中、熱中症にならぬよう気を払いながら汗をかきかき観光地のはずれをあちこち探索した。
今回は「彼らなしには、この旅行の充実感は得られなかった」という強力な助っ人が急きょ現れて、私たち親子を全面サポート、至れり尽くせりの旅だった。
父方の親戚の多くはこちらに居を構えており、父の甥っこ(私のいとこ)が車で京都駅まで迎えに来て、旅につきあってくれることになったのだ。父が通った小学校や中学校、当時住んでいた家など、あっちゃこっちゃ縦横無尽に車でほいほいと運んでは、方々の住宅地で父が民家を突撃取材するのに「すげぇな、おっちゃん」と笑いながらつきあってくれた。なんてありがたいことだ。
甥っこくんは昔から父のことを慕ってくれていて、旅行を決めた時点で私は父に、甥っこくんには連絡を入れておいたら?と言ったのだが、父はわざわざそのために彼が予定を空けてしまったら申し訳ないから当日新幹線の中から連絡を入れよう、そこで都合がついたら会うのが良いというのだった。それで事前の連絡を控えていた。
しかし、なんの導きか、ちょうど旅行の前日に、その甥っこくんから父のところへお中元が届いたのだ。それで父がお礼の電話をかけることとなり、そうなれば、そこで言わない手もない、じつは明日京都へ行くんだよと、甥っこくんに電話で伝えた。
ところが甥っこくんはちょうど翌日、つまり旅行初日に京都から東京へ向かう予定を組んでいるという。あぁすれ違いかぁ、残念だねぇと父娘で話していた。が、その数分後に前言撤回、甥っこくんが日曜のうちに東京移動するのを取りやめて、京都駅で出迎えてくれるという。仕事のための前入り予定だったから月曜移動に切り替えても大丈夫なんだと、ちゃちゃっと都合をつけてくれた。父はそれを聞くや否や、再び私に連絡をよこして「いやぁ俺の人徳かなぁ、うっしっし」と笑った。めでたい。
叔母(甥っこのお母さん、父の弟の奥さん)も都合をつけてご一緒くださると言う。ありがたみがすごい。叔父は他界してしまったが、私はこの一家が大好きで、ふたりに再会できるのがとても嬉しい。
翌日、新幹線に乗って旅の始まり。京都駅に降り立つと、夏の蒸した空気が私たち親子を出迎えた。駅の中央口で、満面の笑顔で出迎える甥っこくんと再会を果たし、後をついていくと車の中で伯母が待っていた。あぁ、良かった。笑顔で再会できて良かった。
涼しい車に乗り込んで、京都の街並みを窓ごしに楽しむ。贅沢。鴨川を渡り、祇園四条近くの白川沿いで車をおりて、巽橋を渡ってランチをごちそうになり、いよいよ探訪に繰り出す。
気温も湿度も満ちみちた空気の中、父の思い出の地を巡っていると、これはもう車移動以外の手段では不可能だった旅程よ、と思い知る。もし彼らの助けがなかったら、父と私はいくつかの行き先をあきらめ、はしょってしまっていただろう。これは身がもたない、仕方ないねと。それを丸々、父が行きたいところぜーんぶ、気前よく叶えてくれた。なんだかそのことに感謝で胸がいっぱいになって、いま思い出しても目頭が熱くなってしまう。本当に懐の深い、温かい人たちだ。
探訪の先に着くと、小学校の前でぱしゃり、中学校の前でぱしゃりと記念撮影し、近辺をうろうろ、きょろきょろ、当時の面影を探った。ありがたいことに、学校そのものはけっこう残っているのだが、当時の面影はあったりなかったり。住んでいた家も、50年以上前とあって建物はだいたい建て替わっているが、通りは残しているので、この角か、もう一つ先の角かしらと道を行ったり来たり。それだけでも汗だくである。
しかし、父はそれで満足などしないのだ。持ち前の突破力で、民家でも果敢にインターホンを鳴らしてピンポーンと突撃取材を試みる。私はなんとなく背景に映り込んで「決して怪しい者ではございません」感をにおわす脇役に精を出す。父は、松の門かぶりもなんのその。見るからに立派なお宅でもひるむことなくピンポーンする様には、私も「すげぇな、おっちゃん」と脱帽する。よい収穫があるよう願いつつ、私はきわめて常識的な人間を装って、父の背後で行儀良くして、ほがらかに微笑み、家の中の人らに頭を下げるのだった。思いのほか皆、穏やかに情報をくれたり対応してくれて、世の中捨てたものじゃないなと思う。
ひととおり巡りたいところを巡らせてもらって京都市内のドライブを終えると、甥っこくんが夕食のお店も手配してくれているというので、おもてなしに預かる。昨日の今日だというのに、秀吉の時代からの由緒ある食事処を手配してくれている、生粋の京都人おそるべし。晩は甥っこくんの奥さん、二人のお子さんも合流して、にぎやかに食事をいただいた。
2日目の月曜は、9時ごろ旅館をチェックアウトし、父と私ふたりで出かける。てくてく歩いて向かう先は、旅館から目と鼻の先にある「本家」だ。
今回手配した宿は四条駅近くの老舗旅館で、父が長く本籍をおいていた「本家」の近所。本家は300年以上の歴史があり、ずっとそこに居を構えている。父は今も番地まで、そらで言えるが、そこに住んだことはないし、うちは分家の分家で、京都から離れてしまって久しいので、本家とのつきあいはない。印字だけの年賀状のやりとりは続いているが、そこで特別に寄せる言葉も関係ももたなかった。
しかし門の前に立ってぱしゃりと記念撮影くらいしてもバチは当たらんだろうと思い、旅館から散策がてら歩いていったのだが、これが思いもよらず、旅を終えた今ではクライマックス級の思い出となった。
ここでも父の突破力が炸裂し、本家の敷居をまたぐに至った。その家のあたりに接近し、お父さん、ここっぽいよ!ほら!と表札をさして案内すると、父は、おぉ!と言って、ピーンポーンとやってのけたのだ。さすがだよ。
月曜の朝っぱらに訪ねてきた謎の親子を、本家はあたたかく迎え入れてくれ、その門をまたぐことが叶った。奥さんが麦茶を出してくれ、数十分ながら談笑。親戚の固有名詞が出まくりで、なになにちゃんがどうの、どこそこさんがどうのと頭の中に家系図を書いて、たがいの関係をたぐりよせた。つまるところ今、本家を継いでいるその人物は、父のいとこの息子さんということになるらしかった、たぶん。
飼い猫を病院に連れて行く予定だったらしく、訪ねるのが数十分ちがっていたら、おそらくお留守だったろうから、なんともありがたいことだった。
数十分の後、お暇した後は、タクシー、電車、バスなど使って、ちょっとした観光。銀閣寺を訪ねた以外はほとんど思い出探訪に費やしたが、この上なく豊かな旅を満喫した。四条通も少しばかり歩いたが、祇園祭を2週間後にひかえて街は活気づき、祇園囃子が聞こえていた。街並みはずいぶん変わってしまったものの、父は懐かしい思い出とともに散策を味わえたようだった。
なんとなく反省したのは、もうちょっと長い滞在にしたらよかったなということ。帰りの新幹線での父の様子をうかがうに、これが最後の京都だと心して帰途についた気がして、それを思うと胸が苦しくなる。あれは予行演習だったと言わんばかり、そう遠くないうちに再び京都を訪ねて、少しゆっくり滞在できたらなと思う。私がもう少し個人事業主慣れして度胸がすわれば、東京を離れて旅先から仕事することもできると思うのだけども。また、いろいろ企てよう。
写真は、朝食のときの敷紙で、旅館の女将さんの書だという。丸竹夷二押御池 姉三六角蛸錦(まるたけえびすにおしおいけ あねさんろっかくたこにしき)。京都御所の南側を東西に渡す何本もの通りを順に並べた唄で、丸太町通から錦小路通まで、この後にも続きがあるそう。京都の人なら誰でもそらで唄えるのだそうで、父も懐かしいなぁと言いながら調子をつけて口にしていた。
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