3ヶ月、今ここの役割を作り出す創造力をキャリアデザインとみる
自分が深く聞き込みたいなぁと思う話を聞かせてくれ、深く考えたいなぁと思うお題を与えてくれ、調べたこと考えたこと思ったこと見出したことなど伝えると喜んでくれ、その過程で一人こもって編集してまとめる中でも、それを持ち込んであれこれお話しする中でも、私自身いろんな発見に出会えるし、いろんな感情の高まりがある。いろんな形で快いキャッチボールが続いて、仕事っておもしろいなぁっていう日々が重なっていって、あっという間に3ヶ月が過ぎた。独立して3ヶ月だ。
最初の1年というのは、いろんなご縁にも恵まれやすいのだろう。来年の今頃は何をしていることやらと先々のことは皆目見当がつかない。けれど、いま与えられた役目を果たして充実感を得ていることほどかけがえのないことはない。一つひとつの機会を大事にしてやっていると、自分の畑の土も耕されていく感覚が強くあり、土の肥沃化とともに各社に届けられるものも豊かになっていく。実際的に言えば、あっちの案件で培ったことが、こっちの案件でも直接的に活きてくる体験に、3ヶ月で何度も遭遇した。
1年先が不透明な状態に身を置いていても、自分の現在地を「今」「ここ」という時間・空間の座標軸できちんと認められていると、けっこう安定感をもって生きていけるものなのかもなぁという実感をもって、ここのところ暮らしている。
裏返して言えば、今という時間にしか生きられないこと、ここという空間以外に自分が点在し得ないことを前提において、今、ここで、どういう文脈の中に自分がいるかを見立てて、その文脈の中で活きる役割を自分に与えることができれば、案件ごとのベストポジションに自分を配置できれば、わりとマイペースに足場が安定した心持ちでやっていけるものなのかもなぁと、そんなことを最近思っている。
自分が身を置く文脈を構造的にとらえて、自分の活力がわいてくる役割を見出すところに、自身のセンス、洞察力や創造力が試されるわけだが、それが一般に「キャリアデザイン」と呼ばれているコンセプトの本質かもしれないなぁと。
そんなことをつらつら思ったのは、先日もここで引いた「心理療法の基本」*という本の一節にある、今ここの座標軸の話から。
下の引用文に入る前にあるのは、「生活のなかで幼いときから培われてくるべきはずの思考力とか、感受性だとか、人や物とどういうふうにかかわるかという、そういう経験の裏打ちによって育つ」自我というものが「非常に観念のほうに偏って、体験の裏打ちがない」ために「人格の中核のところが中空」のようになって「結果の重大さを想像しないで行動に及んでしまう」人が相対的に増えている気がするというような話である。
自分のなかに時間の感覚をしっかり持って、そういう自分が周りの人や置かれた状況とどんな位置づけにいるかというのがおぼつかないからこそ、自分の中から突き上げる衝動とか、外からのちょっとしたきっかけの誘いにパッと乗りやすいのだと思います。歯止めになるための時間軸と空間軸の交わるところにある私という、そういう私をとらえる座標軸がおぼつかない人が増えていると思うのです
歯止めというと「守り」が強調されるけれど、これって裏を返せば「攻め」にも使えるんじゃないだろうか。「自分のなかに時間の感覚をしっかり持って、そういう自分が周りの人や置かれた状況とどんな位置づけにいるか」がおぼつく、つまり割りとはっきりつかめている感覚を自分の中に持てれば、先々不透明でもけっこう安定感をもって立っていられるってことかもなぁ、自分はそういうことを考えているのかなって思️った。
まぁ、まだ3ヶ月しかやっていないぺーぺーが、なに達観したようなこと言ってるんだと笑われてしまうのがオチなのだけれど、こういう認識も都度アップデートしていけば人生の味わいも増すというものよの。
そもそも先々は不透明なもの、そこに確かさを覚え出したら、それこそまやかしにとらわれている状態なのかも。とすれば今のほうが正常に感覚器を働かせてやっていけているということか。この先の人類がどうアップデートするかはわからないけれど、とりあえず昭和育ちな私は、このオーソドックスな人間の造りで今ここに座標軸をもってやっていくつもり。
* 村瀬嘉代子、青木省三「心理療法の基本」(金剛出版)
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