手紙を書く道具立てと勝手のちがい
ものすごく久しぶりに手紙を書いて封書で送る。所作の一つひとつが心許なく、一つひとつ調べながら歩を進めた。
まず、むかし読んだマナーやら作法やらの本を数冊めくって「手紙の書き方」の章をざざっとおさらい。いろいろと覚えていない。頭語、時候の挨拶、安否や感謝の挨拶から入って、主文、末文、後付、ここで字下げして、ここで改行してと、手元で一通りの枠組みを下書きして確認する。
その枠組みに沿いながら、続いて手紙の中身をしたためる。パソコンで書くようにコピペしての順番入れ替えが後からはきかないから、あたまから順に文字を書いていくわけだが、こういう前提に立つと、脳内でまず中身を構想して構成立てる処理を行うよう、おのずと促されるのやもしれぬ。あるいは、脳内処理をあきらめて、なんでもない紙にいったん、伝えたいメッセージを順不同で書き出してみる、というのをやってもいいわけだが。
いずれにせよ、何かと道具立ての前提が異なると、やることなすこと勝手がちがってくるものだよなぁというのを体感しながら、手紙の準備をする。
私はとりあえず清書ではなく下書き用の便箋に、一通りの文面を書き起こしてみる。下書きと割り切っているので、さらさらと書き進めるのだが、文字の書き間違いが起こったり、やっぱりこっちの言葉のほうがいいなと思ったりして、訂正したいのを線ひいて消して、横っちょに改めたい文字を添えて、清書にそなえる。
こうして、2枚にちょうど良くおさまる分量で、適宜改行を入れながら後付けまで到達するのを確認し、よし、清書して送るぞ!という自身の気の高まりを確認する。
ここまでの下準備をした上で、買い物に出かけた。清書用の便箋と、封筒と、ペンを購入するのだ。
目上の方への改まった手紙では、便箋は罫線のないもの(無罫)が好ましく、紙面に華美な装飾の入っていないものが良い。装飾があるとしても、季節はずれのものは避けたし(夏なのに桜もようなどはダメという話)。それを念頭に、あれこれ物色し、これと決める。封筒は、便箋とセットのものにすれば間違いなかろう。
ペンは、万年筆といきたいところだが、分不相応に手を出すのもどうかなぁというので、代替になるとかならないとかいう噂ばなしを聞きつけてゲルインクボールペンの青色を採用(自信はない)。
家に帰って、清書する。想定どおり書き損じるも、あるあると割り切って二度目の挑戦、書き直して清書を仕上げる。一息おいて、読んでみる。文字が汚い。日ペンの美子ちゃんを思い出す。致し方ない。一朝一夕でどうにかなるものでもない。感謝の気持ちは届くはずだ。
わりきって、封書作業に移る。宛名や裏書きを記すのも一苦労。和封筒の作法として、どの位置に、どの大きさで書くのが適切か、念入りに確認しながらしたためる。
便箋を三つ折りにして封書に差し入れる向きは、ちょうど受け取り手が封をあけたときに、手紙の書き出しが最初に目に入るように入れるという話で、「作法」というのは今でいう「合理的配慮」に通ずるところがあろうな、と思ったりする。
こうして何時間もかけて一つの手紙を用意したわけで、人によってはコスパだタイパだSDGsだといって眉間にしわを寄せる向きもあろうが、たった数枚の紙でこれだけ味わい深く時間を過ごせる人の営みも捨てたもんじゃなかろう。そう自分を励まして郵便局へ足を運ぶのだった。感謝の気持ちだけは余すことなく届きますように。
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