旅のあと、そのことの周りで遊ぶ
先日、京都旅行に行った話を書いたが、戻ってきてから写真アルバムを作り、昨日父にプレゼントした。このところ家族旅行に出ると毎度フォトブックにして父に贈っているのだが、今回が6冊目になるか。仕上がりはこんな感じ(Instagram)。
なんとなく始めた旅行アルバム作りだが、6冊目ともなると定番化する。今回は帰りの新幹線の中だったかで、父が「おまえ、あれ、また作るんだろ」と期待を寄せた。自分のスマホにおさめた写真も、旅の途中から私のスマホに送ってきて、今回は素材提供にも協力的だった気がする。
フォトアルバムは、旅から戻った翌日に作って注文しても、こちらの手元に届くまで1週間はかかってしまうので、旅に出たその週末にあげることは叶わなかったのだが、その翌週末にもっていって「はい、プレゼント!」と紙封筒を手渡すと、父は「おぉ、これこれ。クニマリの、京都旅行とかいうやつだろ」と、取り出す前からアルバムのタイトルまで見当をつけて、ごそごそ紙封筒の中に手を入れた。
私は写真を撮るのもアルバムにまとめるのも決してうまい人間じゃないのだが、富士フイルムの力を借りて映りの良い写真をハードカバーで仕上げると、なかなか立派なたたずまいとなるのが、ありがたい。
旅の間、そんな意識して写真におさめているわけでもないので、あそこで過ごした時間が一枚も撮れていない、あの人らを撮り忘れた…なんてこともあるわけだが、そこはご愛嬌、コメント力でカバーだ。
各ページの下方に一行テキストが入れられるようになっているので、写真がないところも「どこそこから、どこそこへ向かい」というふうに記して、行った先の地名や交流した人など固有名詞を入れこんでページをつなぐ。旅中にどこで何があったかを後から思い出せるようにしている。
父も、私が写真に添えるコメントを楽しんでくれているようで、「これは、おまえが全部考えて書いてるんだろ」と言うので、「そう」と平静に応えながらも、おぉそこに着眼してくれますかー!と胸のうちで思う。
そうそう、先日ここに書いた手紙も、宛先に届いて実を結んだ。京都旅行で突撃訪問した本家に、お礼状(と突然訪ねた詫び状)を送ったのだが、それを受け取った本家から、なんと私のスマホに電話がかかってきた。親戚をたどって連絡先を調べ、電話をくれたのだそうだ。ものすごく嬉しかった。
出した手紙が、電話の声に転じて帰ってきた。おとぎ話のようだ。私は「人の声」にけっこうな思い入れがある人間で、耳に届く言葉をありがたく聴いた。本家は、この縁を大切にしたいと気持ちを寄せてくださった。あっちゃこっちゃしながら汗をかきかき手紙をしたためたのが、このような縁をつないでくれるなんて。自分の編んだ時間に、物語を感じた。
旅に出て、いろんな体験をすることももちろん尊いのだが、私のようなのは旅に長く、あるいは頻繁に出かけるよりも、こうして短い旅程でも時々でも、その一つを自分なりに味わい深める活動が性に合うのかもしれない。出不精の言い訳かもしらんが。
こうやって丁寧に、一つのことを他のところへ織りこむように、編みこむようにして手仕事する時間をこそ、尊く感じるのだ。体と、心と、頭が一つになって、全部を使って、何かに向かい、誰かに向かい、その人と交流する時間が好きなのだった。
本一冊を読むのでも、そうなのだよな。私の頭では、どうにも早く本を読むことはできない。でも、早く本を読めること、たくさんの本を読めることに頓着せずに、一冊を丁寧に読んで、自分の仕事に活かしたり、読まなかった自分には思いつかなかったことに洞察を深めたり、読まないではやらなかったことをやってみたりできれば、それでいいやと思う。それが、誰かの、何かに役立てば嬉しい。なかなか、こうやって暮れていく風情は好ましい。
« 手紙を書く道具立てと勝手のちがい | トップページ | やりがいは、やりながら発見する »
コメント