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2023-06-14

「専門的かどうか」は二の次

「そこ専門ではやってきていないんですが」と言いながら、独立して2、3ヶ月の間に引き受けている案件が、人事評価制度まわりの案件に寄っているのが興味深い。全部が全部それというわけじゃないのだが、全然関係ない会社からなのに3件4件と案件テーマが重なりを帯びていくさまを興味ぶかく受け止めている。

案件テーマが重なる中、各社各様の期待する役どころに応えて並行で動いていると、私時間としては日々、上流から下流まで行ったり来たりしてあちこちを泳ぐことになる。制度設計まわりの基礎的なことを改めてインプットするのはもちろん、その概論を分かりやすく説明する役どころも担えば、具体的にその会社の内部理解を深めて等級構造のたたき台を作って、要件スキルの定義文章を一つひとつ書き起こしていく役どころも担うこととなり、経営、人事、現場責任者いろんな立場の人たちと関わりながら、インプットして揉んでアウトプットして揉んで、という活動時間をもつ。

なにか、見えざる手が私の人事評価制度まわりの仕事の集中強化月間をセッティングしているかのようである。これも自然の摂理の成せるわざなのか、私が小さい頭で勝手に関連づけ、意味づけをしているだけということなのか。ともかく、自身の血肉にもなれば、各社に展開できることも膨らんでいくところがあって有り難く取り組んでいる。

だけど結局、そこ足場にやり出して、ちょいヶ月しか経っていない身の上なので、「そこ専門ではやってきていない」は変わらない。ずっとジタバタしながらやっている。これで役に立てるだろうかと、自分の働きに常に懐疑の目を向けながらやっている。それくらいがちょうどいいのだ、がんばれ自分と思って健全な心持ちでやっている。

人事制度設計の専門家じゃないが、自分が個として、それぞれの案件でできるかぎり役立てるだろうことをやる。それが専門家のそれだろうが、そうでなかろうが、やったことに意味があったと思ってもらえる活動であるかを大事にして励む。

「それが専門的かどうか」なんて、二の次、三の次である。仕事って、そういうもんだろうと思っている。少なくとも「私にとっての仕事」とはそういうものであり、私にとって「質のいい普通」を果たすとは、そういうことだ。

この間友人と話していたとき、あなたのいう「普通」というのは、マジョリティのことを言っているわけじゃないんでしょう?と問われたが、確かにそうだ。私は別にマジョリティのことを普通と言っているわけじゃないし、そもそもマジョリティはこうだと言えるほど精通している専門分野をもっていない、世間知らずとも言えるが...。

ただ最近とみに思うのは、普通のところにある、普通にやる働きこそ、いろんな現場現場で頭数(あたまかず)が必要で、私は、その頭数のひとつとしてコツコツ丁寧に働きたいのだ。普通というのは結局「自分にとっての普通」なので、ものすごく共通言語化するのが難しいのだが。

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