書いていないことを特定しにかかる想像力と闘う
痛恨。私が以前ブログに書き残した目の手術の体験記には、その病気を患った人からの質問が寄せられる。そういうときは「これぞインターネット!」と思うので、自分の体験はあくまで一例と示しつつ、質問への回答や情報共有、励ましメッセージを返すのだけど、今回あったのは親御さんからの質問で、一度つけた自分のコメントにドン引きして後から、ある単語を書き直した。
もし、今すごく時間のあるとか、よし見てやろうという方は、リンク先(チョコランドさんからのコメント)を、私と同じブログ主の視点で、まず一読してみていただければ。
私が何を誤ったかというと、
その親御さんのコメントには、自分が「北関東の者」であること、「息子が翼状片を患っている」こととしか書いていないのに、私は最初「お母さま」の心中をお察しすると、母親と決めつけてコメントしてしまっていたのだ。
後から、なんという失礼を!と思って「親御さん」と書き換えた。30分以内くらいには書き換えられたと思うが、自分の小さな想像力に凹んだ。
どうしてこんなことをしでかしたのかと振り返ってみたのだが、チョコランドさんの柔和な文章表現、息子さんとの細やかな関わり具合、息子さんの怖がる気持ちを包容しつつも手術を促したい両面性に、無意識的に母性・母親像を脳内再生させていたという感じか。しかし、母性と母親を同一視するのは早計だ。
無意識に、その早とちりで脳内イメージを完結してしまい、無自覚に「お母さま」と書いてしまった自分がこわい。自力で気づけたのは不幸中の幸いか。しかし、正式に投稿する前に気づけなかった自分の詰めの甘さに、そういうとこだぞ!と思う。
アンラーンだ、アップデートだ、リスキリングだと、言うは易し、行うは難し。そうだ、そうだと賛同し、薄く分かるまではすぐ至れるが、奥深くできるまでは遠い道のり、落とし穴に落ちては這い上がり、落ちては這い上がり、反省して進んでいかねばならぬ。
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