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2023-05-29

普通と凡庸はちがう

夜、眠る前に「心理療法の基本」という本を読んでいる。1日の終わり、自分の心が基本に在るかどうかを確かめるようにして読む。湯船につかるような心持ちだ。

実に当たり前のことが書いてある。臨床心理士と精神科医の対談の記録だが、語り手の村瀬喜代子さんも、当たり前のこと、普通のことというふうに少し気後れする様子で話をしている。ごく普通のことが記述されている文章が希少だから尊いと思うのかもしれない。当たり前だなぁ、実に普通のことだなぁと思いながら読む。そう私が思うということは、私は今日も1日、普通の人で生きられたということかもなぁと安堵するように読む。

先日、とある会食の場で「凡庸と普通はちがう。まりこさんは普通だが凡庸ではない」という神のお告げのような言葉をもらって、なるほどなぁと聞いたのだが、普通というのは確かに、自分にとって良い足場を指す言葉かもしれない。

時おり私のことを「変わっている」という人がいるが、それを聞くと私は「非凡な人からみると、凡庸な私が変わっていると見えるのだ」と解釈していた。しかし、そうだな、私は普通であるというくらいが、ちょうどいい自己解釈かもしれない。そうして「質のいい普通」を育みながら生きていけたら本望だ。

私が「質のいい普通」と思うことが、先の本には書かれている。新宿の紀伊国屋書店で、別の本がずらり平積みされているところに、誰かが心変わりして置き去っていったのか、一冊だけポンと置いてあるのを手にとって、なんとなく巡り合わせを感じて買って帰ってきたというものだが、そういう経緯でなければ我が家にやってくることもなかっただろう本だ。

例えば、精神科医の青木省三さんが「これは僕自身の体験ではないのですが、あるうつ病の方のお話を伺いました」と、別の先生が経験した患者さんの話をする。

うつ病には励ましてはいけないということが教科書に書いてあります。啓蒙活動の効果もあってそれがいろいろな人に行き渡っていて、そのうつ病の方が勤めておられたのはしっかりとした会社だったものですから、もう皆さん、それに習熟されていまして、誰も励まさないんだそうです。病院にいっても励まされない、家族にも励まされない、職場にいっても励まされない、どこにいっても励まされない、本人が最後に病院にきて、「誰も励ましてくれないのは、辛い!」というふうに言われたらしいのですね。負けたらいけないとか、頑張らないといけないという言葉が日常生活の中で出てくる時に、励ましてはいけないという言葉は、非常に新鮮で治療的であると思うんです。でもそれが行き過ぎて、それこそみんなが励ましてはいけないということが均一になったときに、それはあまり治療的なものではなくなってしまうのではないか。

そして、こう続ける。

それよりもそれぞれがそれぞれの場で、あんまり自分に無理せずに、自分なりの言葉で相手をいたわるようにする方が、言葉が少しずつ違うくらいの方が大事なのではないかと思うのです。

そういう、ごく普通のことが書いてある。「それぞれ」の一人が為すことは、変わっている人が成せる特別なことではない。しかし、均一化された教科書どおりのことにもならない。自分なりの思案を重ね、自分が関わる人のことを大事にして、自分が直面する事柄に向き合って、持ち場の課題にあたること。そうすると、際立って何か素晴らしいことが成せるわけでもないが、かといってまったく他の人と均一のことを為すことにもならないのが人の普通というやつだろう。私は、そういう普通をいきたい。

教科書をアップデートするのは大事だ。でも、それに一切を預けて自分のふるまいを教科書どおり均一化するのも違う。普通のことだろう。自分が日常で遭遇すること、着眼すること、感じとることは人といくらかの差異があり、それをどうするかという結論の導き方にもいくらかの差異が生まれ、それを何年、何十年とやっていく中で、人は個性化していく。そうやって自分の主として自分を育てていくのが、質のいい普通というやつだ。

もう一つ、この本の中で青木さんが話していることを取り出してみよう。若い心理臨床家や精神科医が陥る、危険な曲がり角の話だ。

「最初のしばらくは、患者さんの心の中でどんなことが起こっているんだろうと、自分の今まで生きてきた二十何年間の経験とそれから育まれたものを活かして何とか理解しようと一所懸命に努力される」のだが、「ある時期から、その言葉が普通の言葉から専門用語にフッと変わっていく方がある」という。「それまで何とか自分なりに想像してわかろうとしていた時よりも、そういう専門用語を使いだした時のほうが、概して治療力は落ちる」と。

専門分野を修練していく過程で、そういう行きつ戻りつはやってしまうのが人の常でもある。ではあるものの、そういう自分のことを冷静に省みて改めることが欠かせない。流行りのアンラーンだとか言って、自分の全部を捨ててしまってもいけない。何を捨てて、何を活かして、何を統合して、どう自分の中のものを総動員して課題に取り組み続けるかは、人の思案しどころで各者各様。なかなか教科書にしようがない。それを各々、試行錯誤して自分のものにしていく。人の学習って、人が生きる普通って、そういうことだ。そんなことをもぐもぐ思いながら、1日の終わりに、この本を行きつ戻りつ読んでいる。

* 村瀬嘉代子、青木省三「心理療法の基本」(金剛出版)

2023-05-17

プロジェクトを任せたい順、引き受けたい順の反転

最近、数冊のプロジェクトマネジメント本を読み比べているのだけど、そのうちの1冊*にこんな話があった。プロジェクトで人をアサインするときは「信用も、信頼もできる」人が一番いいよね、次点は「信用はないが、信頼できる」ポジションの人だよね、という話。

下の図のとおり、「信頼」を縦軸に、「信用」を横軸において、それぞれ高い・低いを両端にもつと4象限の図ができる(図をクリックかタップすると拡大)。

Projectassign

ここでいう信頼とは「未来」に照準を合わせて「これからに期待していること」を示し、信用とは「過去」に照準を合わせて「これまでの実績から得られるもの」を示しているという。

例えば、「今までの実績は十分だが、現時点のモチベーションや態度からあまり任せたくない」人は、右下の「信用は高いが、信頼は低い」ポジションとなる。とすると、アサインする順位としては三番手になるという、そういう話だ。

これは、著者の方が親しくしている経営者の考え方を紹介したもので、別になんちゃらセオリーとか根拠とかを迫られても困るので、見方の一つとして活用したい人は活用したらいいという按配で捉えてほしいのだけど。

私がこれを読みながら、ふと思ったことというのが、ここでは本論となる。それというのは、この本では「アサインする側」の視点に立って「任せたい順」について書いてあるけれど、

Projectassignside

これ「アサインされる側」の視点に立って「引き受けたい順」をつけると、今の私は1位と2位の順位が入れ替わるなぁってことだった。

Projectassignedside

今やらせてもらっている案件は、「私、そのたぐいって直接的な実務経験とか実績とかないんですけど、いいんですかね?」っていうものがほとんどを占めていて、つまり左上を中心にやっているのだ。「過去の実績はないが、これから期待したい」枠をやれているのだ。それって相手も自分も「未来」に期待して、やってみなはれ、やってみます!という合意で、やってみたい仕事をやらせてもらえているということだ。

そのことに、この本を読みながら改めて、ありがたいことだなぁと感じ入ってしまったという話だ。わざわざ図までこしらえている割りに、拍子抜けするほど、ただ、ふと思ったことに過ぎないのだが、こういう読書の寄り道って楽しいじゃないか。

*前田和哉「プロジェクトマネジメントの基本がこれ1冊でしっかり身につく本」P77(技術評論社)

2023-05-10

目標設定「SMARTの法則」って何の頭文字か問題

目標を設定する際は「SMARTの法則」を心がけよう。という教えは、仕事しているとどこかしらで見聞きする話だが、そのSMARTを何の頭文字として教わるか、何として認識しているかは人によって結構違うのかもしれない。

私は「SMARTな目標設定」っていうと、下の表でいうところの一番左Aタイプで覚えたのだけど、紹介する本によって説明が違うので、あれ、あれって別の本にあたっていったら、どんどん解釈が散らばっていって収拾がつかなくなり、5冊目(Eタイプ)で匙を投げた。

手にした本はどれも、ここ2年以内に出版された本なのだが、こうも分かれるものか。こういうときは「いろんな人がいて、いろんなことを言うよー」というキリンジの歌(Drifter)が脳内に流れる。名曲だ。

Smartgoals

少し時間をおいて気を取り直し、ネット上でも情報収集にあたってみると、一番右のFタイプにも遭遇した。Attainableも、ネット上ではなかなかのメジャー感があってちょいちょい遭遇する。

最近AchievableからAttainableへの置き換えが進行しているのだろうか。ただ日本では中学英語で学ぶAchievableのほうが「達成可能」をぱっとイメージしやすいかもしれない。さらにはAgreedやらAgreeableも出てくるわ、Time-basedやらTime-limitedにも遭遇した。

全部書き出してやれ!という勢いで紹介していたのがMindToolsというサイトにある記事で、少しページをくだっていくと、それぞれ列挙されていた。


Specific (simple, sensible, significant)
Measurable (meaningful, motivating)
Achievable (agreed, attainable)
Relevant (reasonable, realistic and resourced, results-based)
Time bound (time-based, time limited, time/cost limited, timely, time-sensitive)


やれやれ、好き放題だ。とりわけMとRの無秩序感がすごい。RealisticがRの頭文字で「現実的か」って領分に押し入っちゃうと、Achievable「達成可能か」の存在意義が危うくなり、そうするとAの頭文字は別の意味を求め出し、Aが変わるとMも変更を迫られて、SとTはその戦いを遠目でのんびり眺めているみたいな構図なのか。方々に飛び火して、メンバーがいちから自身の役どころを取り合うカオスにならないことを願うばかり。

ともかく、この広い世界で、これに決着をつけて皆の認識を合わせるのは生半可なことではない。これを使う側の実務者としては粛々と、各項目の1番目に書かれているものがデファクトスタンダートと割り切って使うか、自分が最初に覚えたタイプに漏れなくダブりないなら、それを使って自分の案件に有効活用するのが賢明だろう。

幸いにして私が最初に学んだAタイプは、上で一番最初に書かれている項目と合致するので混乱なくいけそうである。

自分なりに、5項目を参照しながら、べたべたの日本語ゼリフで5項目書き出してみるのもいいかもしれない。


1. 具体的にゴール設定できてる?読んだ人次第でゴールの解釈が変わったりしない?
2. 達成したかどうか数字で測定できる?どうやってゴールに到達したとか、していないとか言える?
3. 本当に達成できる?無茶なゴール設定してない?
4. 目的からずれてない?目的とゴールの整合性とれてる?
5. 期限までに達成できる?本当に間に合う?


いちど目標設定してみた後に1から5までツッコミ入れる習慣を持ち、足りなかったりずれているなと思うことがあったら加筆修正してブラッシュアップする。実務者がやるべきは、その目標設定を洗練させ、みんなで目標を認識合わせして、設定した目標を達成することにある。そこに時間と労力と意識を費やさなきゃ仕方ないのだ。

2023-05-04

せっかくだから税務署へ行く

3月末、freeeというクラウドサービスを使って開業届を出した。税務署へ行かずに開業届を出せるという触れこみで、ネットで手続き完了!しているはず…だったが、4月半ばを過ぎても税務署からこれといって連絡は入らないし、ダウンロードしたPDFファイルは手元にあれども、ハンコも直筆サインも入っていないモノクロの書面には、そこはかとない心許なさを覚える。もそもそと落ち着かない。

それで先月下旬に入った頃、ちょうどいい小一時間が見つかったので「私の開業届、本当に提出できているのかしら」疑惑をあらった。直接、税務署を訪ねてみたのだ。管轄の税務署は近所にあり、その日はぽかぽかの散歩日和だった。

道すがら、これはあれだな、初めてインターネットで電子メールを送ったとき、それが本当に相手に届いているか心配で、「ねぇ、私のメールちゃんと届いてる?」って電話かけちゃうやつだな、と思った。昭和生まれの末路だ。

freeeを疑っていたわけではない。freeeがユーザーに期待する手続きを、自分が全うできているかに不安があった。せっかく税務署も歩いていける距離にあるんだし、せっかく想定外に開業なんぞ経験しているのだから、社会科見学も兼ねて直接訪ねてみよう、そう思ったわけだ。最近「せっかくだから」という発想で活動方針を決めることが多い。

せっかくだから、オンラインではなく直接会いに行く。せっかくだから、電車に乗らずに歩いていく。会えるのだから会いましょう。青空だから歩きましょう。選べるのだから選びましょう。そうやって4月は多くの人に会い、多くの青空の下を、てくてく歩いた。そうなさい、それがいいわと、私の死生観2.0が促す。

大通りを横道に入って静かな小道を行くと、税務署らしい構えの税務署がある。中に入ると、銀行や役所の窓口のように機器からペロリと番号札が出ている。引くと、すぐに自分の番号が呼ばれた。閑散期なのか来客は他に2、3人しか見当たらなかった。受付で用件を説明すると、それ用の申請書を提示され、こことここに必要事項を書くようにと促された。

年貢の取り立て屋みたいな人が出てくる可能性も想定内に入れて訪ねたが、受付の対応は丁寧だった。そこで待つように言われたまま、20分だか30分だか経過した。いったい全体どこまで確認に行っているのだろうと、閉められた扉の向こう側の混沌を想像しながら静かに待った。

背後では、英語話者の来客に、税務署の人、間をとりもつ通訳者の3人が、あれこれ話していた。3人とも大変だ。目の前のモニタには、インボイス制度の説明動画が流れていた。

受付とは別の方から声がかかって振り向くと、おどおどした様子で女性が立っていた。「出てないですね」「えぇ!?」という、やりとりをした。どこで手続きが止まっているのか手がかりを得ようと2、3質問を投げてみたが、あちらで答えられる仮説や助言はなさそうだった。見逃し三振、バットを振る気がなさそうだ。次の予定も時間が迫っていたので、「じゃあ家に帰って自分で今一度調べてみますね」と行って立ち去ろうとした。

すると先方が「電話のサポートがあるので、電話番号をお教えしましょうか?」と言う。せっかくなのでお願いした。次の予定まで時間がかなり迫っていたが、迫りすぎて、もはや電車移動をあきらめていた。タクシー移動と割り切れば、多少時間が余るだろうという見込みで、彼女を扉へ送り出した。さすがに電話番号をメモって戻ってくるくらいなら1〜2分だろうと見積もっていた。

しかし「じゃあ念のためお願いします」と頼んでから、また10分くらい戻ってこなかった。あの扉の先はジャングルと化しているのだろうか、ツルに手足を取られて茨の道を行く彼女を想像しながら待った。

帰ってきた彼女は「すみません、やっぱり出ていました」と言った。二度目の「えぇ!?」を返した。3月末に提出された届けは、まだ税務署内の2階で処理が途中だが、とにかく2階にはあるということのようだ。

とにかく、こちらの手続きには問題なく、届け自体は出ているというので安心した。署内の処理はまだ途中だから連絡が入らなかったということか。「届いていることが確認できれば良かったです、安心しました、あとはお任せします」と言って、今度こそ立ち去ろうとした。次の予定まで時間がない、大通りですぐタクシーはつかまるだろうか。

しかし「では、もう少々お待ちください」と彼女が言う。いや、ここで待っても仕方がないではないか?「直接訪ねてきたんだから今すぐ、他より先にやってくれよ」と奇襲攻撃をかけに来た人とか思われているのだろうか。いや、別にそんな野蛮なことを望んでやってきたわけではない、誤解だ、提出順にやってくれたらいい。「いや、次の予定も迫っているので、あとはお任せします。自分の手続きに問題なく、きちんと提出できているかを確認したかっただけですから、それが確認できて良かったです」と落ち着いたトーンで答えた。私は善良な市民だ、危害を加える気はないと伝えたかった。「え、そうですか?」と意外さを示す彼女、一層落ち着いた声で「えぇ」と応じる私。

これで立ち去るのも今ひとつ、コミュニケーションとしての不足感を覚え、せっかくだから「あ、ちなみに」と質問を加えてみた。ものの本によると個人事業主になるにあたって、地域税事務所に個人事業開始申告書を提出せよとあった。「それは、こことは別のところですよね?」と尋ねたら、「あ、そうですね。それは別のところです」と言って、ぷいっとされてしまった。「税務署は国税、都税は別管轄」ということのようだ。

低層階がいかに縦割りでも、おなじ税仲間なんだから上層階のユーザーインターフェイスとして一般市民への受付対応は、もう少し仲良しをよそおって案内してくれてもいいじゃないかと思わないではなかったが。まぁいいや、私が断ち切った感じではなく、向こうが断ち切った感じでコミュニケーションが着地したので、なんとなく気持ちも落ち着いて、その場を後にした。なんだろうな、この安堵感の覚えは。

つまりfreeeのオンライン完結は本当、税務署には行かなくて大丈夫だよという話だ。全然畑違いの人が働く職場を見学できたのも良かったし、「せっかくだから」は人の営みを豊かにするなぁという話だ。もう税務署に直接行くことはないかなぁと思うけれど「せっかくだから」は大事にしよう。にしても、なんだろうな、この不足感と安堵感の覚えは。

2023-05-01

書いていないことを特定しにかかる想像力と闘う

痛恨。私が以前ブログに書き残した目の手術の体験記には、その病気を患った人からの質問が寄せられる。そういうときは「これぞインターネット!」と思うので、自分の体験はあくまで一例と示しつつ、質問への回答や情報共有、励ましメッセージを返すのだけど、今回あったのは親御さんからの質問で、一度つけた自分のコメントにドン引きして後から、ある単語を書き直した。

もし、今すごく時間のあるとか、よし見てやろうという方は、リンク先(チョコランドさんからのコメント)を、私と同じブログ主の視点で、まず一読してみていただければ。

私が何を誤ったかというと、

その親御さんのコメントには、自分が「北関東の者」であること、「息子が翼状片を患っている」こととしか書いていないのに、私は最初「お母さま」の心中をお察しすると、母親と決めつけてコメントしてしまっていたのだ。

後から、なんという失礼を!と思って「親御さん」と書き換えた。30分以内くらいには書き換えられたと思うが、自分の小さな想像力に凹んだ。

どうしてこんなことをしでかしたのかと振り返ってみたのだが、チョコランドさんの柔和な文章表現、息子さんとの細やかな関わり具合、息子さんの怖がる気持ちを包容しつつも手術を促したい両面性に、無意識的に母性・母親像を脳内再生させていたという感じか。しかし、母性と母親を同一視するのは早計だ。

無意識に、その早とちりで脳内イメージを完結してしまい、無自覚に「お母さま」と書いてしまった自分がこわい。自力で気づけたのは不幸中の幸いか。しかし、正式に投稿する前に気づけなかった自分の詰めの甘さに、そういうとこだぞ!と思う。

アンラーンだ、アップデートだ、リスキリングだと、言うは易し、行うは難し。そうだ、そうだと賛同し、薄く分かるまではすぐ至れるが、奥深くできるまでは遠い道のり、落とし穴に落ちては這い上がり、落ちては這い上がり、反省して進んでいかねばならぬ。

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