普通と凡庸はちがう
夜、眠る前に「心理療法の基本」という本を読んでいる。1日の終わり、自分の心が基本に在るかどうかを確かめるようにして読む。湯船につかるような心持ちだ。
実に当たり前のことが書いてある。臨床心理士と精神科医の対談の記録だが、語り手の村瀬喜代子さんも、当たり前のこと、普通のことというふうに少し気後れする様子で話をしている。ごく普通のことが記述されている文章が希少だから尊いと思うのかもしれない。当たり前だなぁ、実に普通のことだなぁと思いながら読む。そう私が思うということは、私は今日も1日、普通の人で生きられたということかもなぁと安堵するように読む。
先日、とある会食の場で「凡庸と普通はちがう。まりこさんは普通だが凡庸ではない」という神のお告げのような言葉をもらって、なるほどなぁと聞いたのだが、普通というのは確かに、自分にとって良い足場を指す言葉かもしれない。
時おり私のことを「変わっている」という人がいるが、それを聞くと私は「非凡な人からみると、凡庸な私が変わっていると見えるのだ」と解釈していた。しかし、そうだな、私は普通であるというくらいが、ちょうどいい自己解釈かもしれない。そうして「質のいい普通」を育みながら生きていけたら本望だ。
私が「質のいい普通」と思うことが、先の本には書かれている。新宿の紀伊国屋書店で、別の本がずらり平積みされているところに、誰かが心変わりして置き去っていったのか、一冊だけポンと置いてあるのを手にとって、なんとなく巡り合わせを感じて買って帰ってきたというものだが、そういう経緯でなければ我が家にやってくることもなかっただろう本だ。
例えば、精神科医の青木省三さんが「これは僕自身の体験ではないのですが、あるうつ病の方のお話を伺いました」と、別の先生が経験した患者さんの話をする。
もう一つ、この本の中で青木さんが話していることを取り出してみよう。若い心理臨床家や精神科医が陥る、危険な曲がり角の話だ。
「最初のしばらくは、患者さんの心の中でどんなことが起こっているんだろうと、自分の今まで生きてきた二十何年間の経験とそれから育まれたものを活かして何とか理解しようと一所懸命に努力される」のだが、「ある時期から、その言葉が普通の言葉から専門用語にフッと変わっていく方がある」という。「それまで何とか自分なりに想像してわかろうとしていた時よりも、そういう専門用語を使いだした時のほうが、概して治療力は落ちる」と。
専門分野を修練していく過程で、そういう行きつ戻りつはやってしまうのが人の常でもある。ではあるものの、そういう自分のことを冷静に省みて改めることが欠かせない。流行りのアンラーンだとか言って、自分の全部を捨ててしまってもいけない。何を捨てて、何を活かして、何を統合して、どう自分の中のものを総動員して課題に取り組み続けるかは、人の思案しどころで各者各様。なかなか教科書にしようがない。それを各々、試行錯誤して自分のものにしていく。人の学習って、人が生きる普通って、そういうことだ。そんなことをもぐもぐ思いながら、1日の終わりに、この本を行きつ戻りつ読んでいる。
* 村瀬嘉代子、青木省三「心理療法の基本」(金剛出版)
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