大事にできる時間は今しかないのだった
3月は、たいそう忙しく過ぎていった。飛び回っていたというほどではないが、私にしては物理的にもあちこち訪ね歩くことが多く、また日ごと週ごとにやることが違って、アップデートが続き、国語算数理科社会な時間割だった。気づけば、もう月末だ。
自分が身をおく環境条件を変えると、自分の活動ってこんなに変わるんだな。というか、自分の環境条件をどう観るかという自分の認識が変わると、自分が考えること、起こすアクション、生まれる機会って、こんなに変わるんだなって思うのだった。2月と3月、昨年の今と今年の今では、同じ自分なのに全然違う生き物みたいだ。まぁ中身はそのままなのだが。
家では、じっくり考えて何か作ったり調べている間に数時間経過という過ごし方が増え、この合間にラジオとポッドキャスト番組が暮らしに彩りをそえている。以前はもっぱらTBSラジオとNHKラジオだったのが、今は文化放送とTOKYO FMが加わり、ラジオ世界の中で広がりを帯びている。これに馴染みのポッドキャスト番組が加わるのだが、なんにしても耳で聴くコンテンツに偏狭な自覚はある。
視聴コンテンツということでいうと、最近できた習慣に「週末、父と映画館に行く」というのがある。これは、なかなか豊かな習慣だ。実家方面と行き来するのに、すいた電車に揺られる小一時間があるので、そこで読書などもできるし、映画館というのは私にとって遊園地のような場所、親と過ごす時間が習慣の中にあるというのも、この歳になると豊かなものである。
それでいうと昨日ちょっと一息つこうという時間があって、喫茶店で久しぶりに仕事と関係ない本を手にして過ごしたのだけど、やっぱり吉本ばななは巨人だなと思った。最近の彼女のエッセイ*に、こんな話が出てくる。
92歳になるおじいちゃんの話を聞く(おじいちゃんというのは、つまり吉本隆明氏のお父さんなわけだが)。もう40回、50回くらい聞いた話を、彼女は聞く。コーヒー専門店のソファーに座って、おじいちゃんの話を聞く。
特別いい景色でもないし、いつもの話だし、でもおじいちゃんは生きてる。今ここに生きてる。嬉しいなあと思いながら。昔の私だったら、「もうすぐ一緒にいられなくなるかもだから、聞いておかなくちゃ」と思っただろう。でも、親を亡くしてからそういうふうに思わなくなった。そんなことを考える余地がなくなったのだ。ただいられるときに後先考えずに一緒にいたという事実以外に何も人を救うものはない。
これに、尽きるのだった。私が歳をとったから共感するのか。母親を亡くしたから、そう思うのか。ここ10数年の間で、人をいろんなかたちで失ったから、そう思うのか。
「ただいられるときに後先考えずに一緒にいたという事実以外に何も人を救うものはない」、これには、ただただ目をとめ、指で文字をなぞり、やっぱり吉本ばななは巨人だなぁと思うほかないのだった。
後先考えず、今を生きるようになる。あと何年この世界にとどまれるかは、ほとんど私のコントロール下にないし、今ほど尊い時間はないし、人が大事にできる時間は結局、今しかないのだった。
*吉本ばなな「気づきの先へ どくだみちゃんとふしばな7」(幻冬舎)
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