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2023-03-18

「人間は、よりクリエイティブな仕事を」すぐにはできない罠

AIと言わず、IT化や機械化を標榜してきた時代においても、これによって「人間は、よりクリエイティブな仕事を」できるようになるというポジティブな語り口は、もう何十年と繰り返されて、よく耳にしてきた。「それは、そうだな」と素朴に思わせる背景には、有識者がそう言っているんだからという有識者パワーもあれば、そうあってほしいという我ら庶民の願望も働いてきたんだろう。

しかしGPT-4の登場で「AIが奪うのは、単純労働より知的労働の仕事領域」と言われだし、いよいよ自分が日ごろ無自覚に「常識」とみているものの見方に危うさを覚える今日この頃。この足場がどう崩れていくのかを細心の注意を払って観ていかないと、あるいはそのうちに入って体感的に理解していかないと、日常生活や仕事現場で、ずれた判断、おかしな見立てを平然とやってしまいそうだ。一般人の私ですら、そんな危機感を覚える時代が到来した。

それはそれとして、ITmediaにあったGPT-4の記事を読んでいて、興味をひく掘り下げがあった。前半はまぁいいとして、3ページ目の終わりから4ページ目の中盤にかけて。

ヒエッ! GPT-4がスゴすぎて、「AIで仕事がなくなる」不安がいよいよリアルに(3ページ目)

簡単に言えば、人がクリエイティブな仕事ができるようになるには、その基礎としてルーチンワークに代表される簡単な仕事の積み重ねが必要なんじゃないか?という問いだ。

そういう基礎の経験を積み重ねることで段階的に、独創的なアイデアや深い洞察力が発揮できるよう育まれていくのが、多くの人間の成長プロセスなのでは?とするならば、それをAIが奪ってしまったとき、人はいきなりクリエイティブな仕事を!と言われても無理な話にならんかね、と(ごく一部の優秀な人材を除く)。

私も、そう思うのだ。急にそう言われましても、なのだ。私はかれこれ25年ほど仕事をしてきた中で、「ごく一部の優秀な人材」ではないのに、いろんな現場経験を積み重ねることで、過去自分比でいえば独創的なアイデアや深い洞察力を持つ仕事が段階的にできるようになってきた。なので、それがこれから社会に出てくる若者から奪われてしまうのは、ちょっとちょっと、それ、どうにかなりませんかね!と「待った」をかけたくなってしまうのだ。

あらゆる従来の「下積み経験」が、盲目的に維持されるべきとは思わない。これを機に棚卸しして、省くべきは省き、見直すべきは見直したらいいとは思っている。が、AIで事足りるからといって単純にルーチンワークの一切合切を、職場での人間の経験から削いでしまうと、人間に求めるパフォーマンスを発揮するまでの成長プロセスも同時に、その職場から消えてしまう。長期的に勤める社員の成長プロセスが断絶してしまって、ごく一部の優秀な人材以外、クリエイティブな仕事領域に到達する術を失ってしまうのではないか。そのことについて、少なくとも一考の余地はあるんじゃないかと思う。

わが社は即戦力を中途採用するから知ったこっちゃないと言ったって、各産業に割り当てられる「優秀な人材」「即戦力」には限りがある。ごく一部の人気企業を除けば、人材の取り合いに負けることになるのは必至だ。すでに「いい人がいない」と言って「採用」一本による足踏みが続いているようなら、腹くくって「採用+育成」に負荷分散して必要な人的資本を確保する施策に転じたほうが現実的じゃないか。「どういう人を採用して、どう育成するか」に分けて、求める人物像が社内にそろう仕組みを構築するところに組織手腕が問われるんじゃないかと思う。

これは何もAI化だけでなく、ITツールによる自動化だったり、選択と集中とかアウトソーシングの流れでも過去経験してきたところ。正規雇用した社員がやる仕事や役割というのを、どんどんフォーカス絞りこんでいって「基礎となる仕事」を排除していったために、若手が「段階的にできるようになっていく」仕組みが崩壊してしまった職場は少なくないのでは、と思う。

これまでは何となく現場で自然と経験できていたが、業務が排除されたことで新たに入ってきた若手ができなくなっていることは何かに意識を向けてみる。とはいえ知っておいたほうがいいこと、一度は経験しておくと理解が深まること、業務がスムーズに進められそうなこと。そこに一度目配せしてみる。

どこまで知ってもらうか、実務で数か月やってもらうのか、Off-JTで一度は経験してもらうのか、やったことに対して出来を個別にフィードバックするのか、とにかく経験してもらえればいいのか。業務内容によっても、職場環境によっても、その最適解は千差万別だろう。けれども現場から消えていく仕事経験プロセスを、人材育成の観点でどう残すべきか、どう組み込むべきか、頭をひねる時間は大事なんだと思う。

それすら、私が古びた社会通念にとらわれていると一蹴される日がくるのかもしれない。が、とりあえず今のところ、そういうことを信念のようなものとして心に抱いているのだった。

それにしても、この記事で筆者が「簡単な仕事がAIに代替されるとき、人間は、基礎をどう積み上げれば良いのか」GPT-4に尋ねるくだり、なかなかに読み込んでしまう内容だ。

「どんなライターも最初は、ルーチンワークを積み重ねることでスキルを上げ、独創性をつくっていきます。AIにルーチンワークを奪われると、能力のあるライターの育成そのものが難しくなるのではないでしょうか」

これにGPT-4が雄弁に答えを寄せるのだが、まずどこが人間へのフォロー部分であって、どこが回答なのかを読み分ける力が、読者たる人間には求められる回答になっていることに、ふぃーっとため息。読み手の人間が慎重に読みこむ力を使わないと、言いくるめられて終わってしまいそうでもある。例えば、回答の中のこれ。

「AIがルーチンワークを担うことで、ライターはより独創的なアイデアや深い洞察力を持つ作品に集中できるようになるとも言える」

この部分は「問いに対する答え」ではなく、それに入る前の「人間へのフォロー」であって前置きに過ぎない。これを問いの答えとして読むとダメダメAIということになるが、人間へのフォローを前置きしているとみれば、よくできたAIだという評価に変わるわけだ。

AIはそこまで来ているんですと、これは褒められるべき成長なわけだろうが、人間が複雑な意図を読み解いてAIの回答を読む必要も高まっている、そんなことを思った。あるいは、表層的に読み取る人にも、重層的に読み取る人にも満足してもらえる階層性をそなえた回答を出力できるようになったという見方もできるのかもしれない。

閑話休題。この後に続く4箇条が「問いに対する答え」ということなんだろうが、4つの育成方法のうち「ルーチンワークを通じて基礎スキルを磨く」方法として答えになっているのは実質「1.教育と研修」だけと思われた。

回答にして3行の文章。なのだが、ここをどうやっていくのか、そこを掘り下げるところこそ、私がやりたい仕事であった。だとすれば、AI頭脳が3行で明晰に示すそれを、各現場で実現するフィールドに、人間の独創的な企てやら、試行、実践が求められてくる、一定の労働市場が見いだせるようにも思う。

包括的に、明晰に、全体の指針やら道筋やらを示す役割は、AIでも有識者でも、それに強い頭脳に任せたほうが事がスムーズに運ぶ。それを現場、現場で、実際問題どうするのかっていうところが、まだ全然うまくいけていない。そこで各現場にあった施策を企てて成果を出していく仕事を私はやっていきたいし、私ができることも見いだせる。

それは私に限らず多くの、ごくごく一般的な人間に求められていく、そしてやっていて楽しい、やりがいを感じられる仕事領域なんじゃないかなぁと思いを馳せる。それは従来の仕事概念に限定せず、社会的な活動、社会的な役割を果たすという広義な意味での仕事をイメージして言っているのだけど。

あとはやっぱり、職業倫理というものが今まで以上に、人間にゆだねられるものとして存在感を増していくのかなぁという気がしている。まとまりない話のメモでありました。

2023-03-10

誕生日は父と南房総へ、解釈に彩りを

今年の誕生日は、父と南房総をプチ旅行した。私がペーパードライバーのため、父には電車移動を強いることになるが、まぁ良い運動ということで、てくてく歩いては電車を乗り換えて行く。

今年は春が早く、3月初旬というのに日中ぽかぽかした陽気が続く。南房総ともなると桜も開花して、菜の花も鮮やかな黄色で線路の脇を彩る。青い空には白い靄が薄っすらとかかり、海は陽を浴びてきらきら輝いている。

千葉を越え、木更津を越え、君津駅で乗り換えた先は二両編成の内房線で南下する。車窓から海が見える。単線を走る電車、右からも左からも緑がのびてくる中をゴトゴト走り抜けていく。

空と海を眺めていると「こっちが地球の標準だぞ」と思う。その上に人間の生活が成り立ち、変化を加えているのだと確認する。ナチュラルな状態は何か、足場を見失わないで生きていくことは大事なことだな、と思う。世界と自分それぞれの、足場をしっかり観て、読みまちがえないこと。その答えは人によって違うのだろうが、私には私のそれがあるんだろう。それを大事にすることと、より新しい認識が見えてきたらアップデートすること。

なんて、書くのはたやすいのだけど、見失いがちだし、何が本当かなんて一生不確かだし、これこそが本当だという認識に到達することなどなく退場するのが人の常なんだろう。だから、とりあえず海を観に行こうと思い立つ。体をそこに置いちゃうのが、見失ったそれを取り戻すのに一番確かな方法だ。そして認識をアップデートするには、やるっきゃないんだろう。体動かしてやってみることで、もう一歩先の確かさを得られるだろう。いつまでも、変わらぬまま変わり続けることかぁ。含蓄あるなぁ。

穏やかな日和で、お天気も良くて、旅先で袖触れ合う人とささやかなコミュニケーションをもつのも楽しかったな。海辺でお店をやっている齢六十くらいのお姉さんに、「この辺は西から吹く風が強くって」とか「もっと晴れていると、ここから真正面に富士山が見えてね」とか「私は生まれも育ちもずっとこの町よ」なんて話を聴かせてもらったり。宿の食事処で隣り合わせた老夫婦と、なんとなく会話をシェアしたり。鋸山(のこぎりやま)で木を切っている職人さんたちに、この先の山道の険しさを尋ねた流れから、話に花が咲いておしゃべりしたり。

父のおしゃべりも、1980年代のアジアの話、現役時代の仕事の話とか、面白かったな。そうやって私たちは、いろんなお話を交わして顔をほころばせて関わっていくのだ。

いやはや四十七にして、人生がこんなに活発に、彩り豊かに動き出すなんて思いもしなかったな。機会というのは、自分の想定を超えてやってくる。せいぜい自分ができるのは、私が具体的に想定できる範囲を超えて、それがやってくるという心構えをもっておくこと。やってきたら、その機会をできるだけポジティブに活かすことくらいだ。

「解釈」というプロセスを多様に、幾方向にも育てられるところに人間の面白さがあるのだから、それを活かさぬ手はない。四十七にして、ようやく個として立つ度胸は(足腰はまだだけど)ついてきたのかもしれない。彩り豊かな一年を過ごせますように。

*南房総の旅行写真(Instagram

2023-03-07

Web人材育成は失敗していないか?

Web人材育成は失敗していないか?と問われたら、それに関わる人たちの頭にはどんな回答が浮かぶだろう。

いろんな現場の人の声を聴いてみたいなぁという情報収集のための問いかけなのだけど(何かを提言するものではなく)、下に書き連ねたような私なりの見立てやら私がやりたい仕事やらを伝えつつ身近で尋ね歩いたところ、そうすっとんきょうな仮説を述べているわけでもなさそうではある。

一方で、それがどれくらいそうなのかという比率はまったく読めない。比率というからには「どの範囲を100%として?」という問いも起こるが、それもいまいちわからない。「Web人材って?」って、その範囲すら私も訊きたいのが正直なところだ。

それに、どこもかしこも、ここに挙げる仮説を問題に抱えているわけでもないのだろう。きっと、うちは上手くやれているよ!思い込みで「Web人材」とか雑に括らないでくれ、心外だよ!という現場もあるだろう。どうやって上手くやっているのか、ぜひシェアしてほしい。つまり、そういう話題がもう少し組織をまたいで情報・意見交換されたらよいのではないか、そのきっかけともなれば本望なのだ。

スライド「Web人材育成は失敗していないか?」(SpeakerDeckはこちら)(Slideshareはこちら

とにかく、ものすごく曖昧な状態で書かれた文章とスライドであることを断って、しかしながらシェアしたい話題なのである。(スライド2)

スライドに展開したわりに、うまく図式化できていないのはご愛敬なのだが…。

私は1990年代から、Web人材(仮)が活躍する現場のそばでWeb人材育成に従事してきたが、この四半世紀でWeb人材に求められる職域はぐんぐん広範化・多様化し、職能もぐんぐん専門分化・高度化を遂げてきた。これからも、そういう流れは不可避なんだろうなぁと思う。(スライド3)

この変化に適応すべく、業界コミュニティではネット上のコミュニケーションツール、SNSやブログ、スライド投稿サイトなどなど駆使して情報交換やノウハウ共有が行われ、勉強会やネットワーキングを兼ねたオン・オフラインのイベントも活発に展開されてきた。入門書も、新しく出てきた学習テーマをとらえては、切り口を変えて数多く出版されてきた。本人にやる気さえあれば、いくらでも学ぶ機会はあふれているだろう。そんなふうに、よく語られる。(スライド4)

しかし、その豊富な「学ぶ機会」を仔細に観てみると、学習の入り口に偏っていないか?という疑念がわくのだ。新しい学習テーマの存在を知り、へぇ、最近注目されてきているんだぁとは、SNSでフォローしている人の投稿や、専門のWebメディア記事、社内や業界コミュニティの交流など通じて認知することができる。

それがどんなもので、どういう背景で注目されてきていて、どうやって取り扱うものかの概論も、もう一歩踏み込んで専門の解説ブログを読んだり、業界のセミナーに参加したり、オンライン講座を受講したり、入門書を読んだりすれば把握できる。会社で勉強会を開くところもあれば、もう少し改まった社員研修を開いて社内外のエキスパートに講義をお願いして丁寧に解説、事例紹介してもらう機会を設けるところもあるだろう。

だけど、それはやはり「学習の入り口」にすぎない。それを受けとった人の現場のパフォーマンスは、ここまでのステップを踏んだだけでは何ら変更加わらないことがほとんどだろう。

1.興味をもって、いつかやってみようとは思うが、そのまま忘れてしまう。

2.試してみたいけど、自分の職場・案件では無理だなと結論。そのままやらずじまいで、いつも通りに戻ってしまう。

3.試しにやってはみるものの、周囲に誰もサポートしてくれたり助言やフィードバックしてくれる人がいない。まともにできているのかどうか妥当な評価ができないまま悶々。あるいは、とりあえず形になっている、フローに組み込めているからと、できている気になってしまう。

4.やってみたものが現場で評価され、一定の意味は確認できた。しかし、いつも手がけている同じような案件タイプ、同じチームメンバー、慣れたクライアントや取引先との間でだけできているのであって、前提条件や人間関係などコンテキストが変わると途端に応用がきかず、できなくなってしまう。

こういうことで、「入門者」から先の様々な落とし穴にはまってしまい、個々が「一人前」まで到達できていない、チームとして、会社として、産業として、一人前の人材を増やせていないという実態がなかろうかと、そういう仮説をもって、ちょこまか人に尋ねてみている。(スライド5)

学ぶ機会は、「入門者を育てる」施策に偏っていないか?(スライド6)

一人前を育てる施策が手つかず、手薄になっていないか?(スライド7)

この問いを、各現場で(自分自身、自分のチーム、自分が育てているメンバー、あるいは産業として)身近な人と話し合ってみる。というのを有意義なことだと思う人は、どの辺にどれくらいいるものだろうか。それがわからないで書いているのだけど、どこかにいらしたら、ぜひ飲み屋でもお茶屋でもいいので、ちょっとネタにして話題にしてみてほしい。

ちなみに、入門者を一人前に育てる施策になかなか手が出ないで滞ってしまう背景要因には、これに手を出すと手間がかかるし、期間を要するし、単発・短期的にはこれというインパクトを得がたいというのがあるかなと。その他もろもろ。(スライド8)

けれど私は、ここの育成支援をこそやりたい。ここの「入門者を脱して、一人前に至る」フェーズに軸足をおいて、実務エキスパートが伝承するサポート、入門者がスキルを習得して実務に取り入れパフォーマンスを上げていくサポート、組織が確かな育成施策の手ごたえを覚えるサポートがしたい。(スライド9)

なので、この辺の自分の現状認識がどう合っていて、どうずれているか、どの辺に問題を共有できる相手がいて、どう自分が人材育成やインストラクショナルデザインの専門性を活かして貢献できるかを、一人で頭ひねったり、いろんな人と話しながら模索している。その時間を、素朴に、シンプルに、今楽しんでいる。

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