「親を大事にする」の本当の答え
千葉と東京を行ったり来たりする電車の中でブログる。父にしてみれば、3人の子どもの中で一番面倒くさいやつが私だ。体当たりで議論を持ちかけてきて、思いのたけをぶつけてくる。
私が甘えてるのかなと逡巡し、言うか言うまいか、どう言ったらいいかと、私は私なりにずいぶんと考えこんだ。たくさん一人で考えはしたのだ。
親を大事にするってことは、たいそう難しい。どうすることが、本当にそれに当たるのかは、いつもグラデーションがかったもやの中で、これだ!という輪郭をもたない。
老いていく親を守ること、自分を生きぬく親の考えを尊重すること、親からもらった私の人生の時間を大事にすること、これらは時にかちあって、うまくバランスしたおさまりどころをもたない。私の中では合点がいっても、親の合点がいくわけじゃない。
そうした中では結局、私一人では案出しすることはできても、最適解を結論できるものじゃない。相談相手は父本人しかいない。伝えて何かを返してくれるなら、まず私はこう思うんだと思い切り伝えてみるほか、私にはやり方が思い当たらないのだった。
これはやっぱり、自分のうちに押しとどめるのは違うと決めて出かけた。決戦は火曜日。父とは全然別の用で待ち合わせていたのだが、その用事が終わるとサイゼリヤに入って、食事しながら2時間の大論争。
ひざつき合わせて時間をきちんと持って、私の意見は私の意見として父に伝える。言いくるめたいわけじゃない。私の意見として伝えて、それを受けての返答を聴きたい。後から、あのとき伝え損ねたと思いたくない。伝え損ねた結果、すれ違いたくはないのだ。
そうして、自分の考えを言葉を尽くして伝えると、父からも父の弁が旺盛に返ってくる。その意見もしっかり聴き、議論に議論を重ねる。父もノリに乗ってきて、ビールの杯数が増えていく。
率直に、素直に、話す。私ができる、大事な人を大事にするやり方は、これしかなかなか思いつかない。不器用なだけかもしれないし、考えが足りないだけかもしれない。発想力が足らんのかもしれないし、思慮が浅いのかもしれない。けれど、もうその等身大でやるしかない。手を出せる時間は今しかないのだ。
なんだかんだ、父もちょっと楽しそうなのに救われた、東京への帰り道。LINEごしに兄と妹はやれやれ。
大事な人を大事にするやり方は、人によって、相手によって、相手と自分の関係性によって違う。兄妹だって、やり方は違う。状況が変わればまた変わるし、認識が変わればまた変わる。だから相手とその時々をつかまえて意見交換しないと本当の答えを探れない。相談相手は本人、これが一番誤解がない、そう思っちゃう自分を生きるほかない。はてさて、どうなるか。
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