実店舗の引き合わせ力とアドバイス力にお金を払いたい
数年使っている私物のノートパソコンがくたっている。電源プラグをコンセントに挿しておかないと、シュンと落ちてしまうようになって久しい。それでもけっこうな期間、外に持ち出すときにも電源プラグを一緒に持ち歩くようにして使い続けていたのだが、今月の頭、重たい腰をあげて家電量販店に物色しに行った。
ネットで下調べをして、メーカーは1つに決めつつも、複数展開されているブランドやスペックまでは絞り込めず、「何がわからないから自分は決められないのだ」という自分ステイタスを明らかにして店舗へ行く。
今のパソコンのスペックに不足はない。たいして大がかりなことはしないから、今のパソコンのスペックを維持できれば問題ない。なので今使っているパソコンはCPUがこうで、メモリがこうで…と主な仕様をメモって(覚えられない)、これ以上なら無問題ということにする。
スペック表に載らないキーボードの打ちごこち、見た感じの野暮ったみのなさ、筐体の大きさと薄さ、持ってみての軽さ、画面の広さなんかは、私なんぞ気分の問題が大きいので、店に置いてあるのをじろじろ見たり触ったりして「うん、悪くない」くらいのざっくりしたものである。
これがいろんなパソコンで、フロア一角の数歩の行き来でできるのが実店舗というところで、このありがたみは、画面にらんでネットで下調べした上で味わうと格別のものとなる。ちょっとしたアミューズメントパークだ。
ちょっとずつ仕様の異なるパソコンの筐体がずらりと並べられ、その筐体の脇に一つひとつ仕様ガイドが配されているのも実に分かりやすく、私はただぼーっと立っているだけなのに目をきょろきょろ動かすだけで右と左のポイント比較ができるなんて。
店とは、なんて素晴らしい体験空間なのかと思う。パソコン画面に向かって「何の、どの観点を見比べるのか」を自分で考えたり調べたり、その情報を探しあてたり見比べたり、うーむと脳内で右往左往しているうち包まれている閉塞感に比べて、なんたる開放感。実店舗の言外のアシストを味わい、心の中でスタンディングオベーションを送るのだった。体は店内で棒立ちなのだが。
昔は、こんな当たり前の「店の風景」というのを、とても記述する意識はもてなかった。単なる1消費者の私にとって店の風景は、それ以上には分解できない、ひとまとまりの「店の風景」でしかなかったのだが、ネット体験と対比して眺められる今、なんと感謝の念が募る空間として映し出されるものだろう。
さらには店員さんに、自分の持ち込んだ疑問点を直接話して、その回答を個別に与えてもらえる贅沢空間だ。買うことも決めていない私に、そんな丁寧に教えてくれるのか。パソコンは値のはる商品だし、私が訪ねたときは空いていたこともあって、かなり手厚く時間を割いて情報提供や助言をしてもらえた。
CPUのIntelとAMDって、どう違うの?Core iの数字とRyzenの数字って、どういう対照関係なの?RyzenなるCPUをパソコンに詳しい巷の人はぶっちゃけ、どう評価しているの?とかとか。
いつでも会いに行ける店員さん、なんて素晴らしい。営業時間内に限られるとはいえ、たいてい朝から晩まで開いているんだから申し分ない。予約不要で会えるんである。声をかけたら「へい、いらっしゃい。何かお困りで?」と返ってくるんである。すごい。
そして質問したら、自分の疑問に答えてくれる。その質問レベルがどんなであろうと、どんなに拙く、受け手側の店員さんの補完を要する質問の仕方であっても、いろいろとこちら側の意図を汲みつつ想像を巡らせつつ、2、3質問など加えて要点を絞り込みつつ疑問の芯をたぐり寄せて把握し、疑問点を解消してくれる。お薦めのもの、選び方のアプローチ、そこは気にしなくていいということを明らかにしていってくれる。
もちろん店員さんにもいろいろいるわけだけれど、基本はそういう対応ができるサービスを追求して、店舗というものは存在し、それを磨こうと組織的な施策を講じているわけだ。
いやいやネット上のサービスでも、ITだかAIだかがそれを代替し、人のそれを超える試みが百花繚乱ではないか。そう言われればそうなんだけど、人間の、私の、この動物性にフィットする実店舗特有の体験の豊かさを、それはそれとして尊び、市場で成り立たせることはできないものか。
「代替できるか」と「代替すべきか」は違うし、「全部を移行すること」と「多様な選択肢を作りだすこと」は、いずれもありうる。未来予測というのはだいたい「全部が移行する」路線で雑に言われがちだが、なぜ多様性多様性と言うわりに、古きを棄てて、新しいものに移行するという雑な発想をすぐ採用するのか。許されるなら、2つとも残して、人それぞれ、状況によりけりで選べるようにすればいいじゃないか。市場がそれを許さないということなのか。もんもん。
多様性豊かな社会を作るんなら、寛容であること、過干渉にならないこと、複数の選択肢を育てて、時々で融通がきく社会を作ることが大事なのに、全然真逆の方向で頑張っている人の言行にふれるのが多いのは、いったい全体どういうことなんだ。つじつまが合わないじゃないか。もんもん。
閑話休題。そんなこんなを体験すると、あぁ買うときは、ここで買わなきゃバチが当たるという気に駆られるもので、とても家に帰ってネットで買おうという気にはなれない。
そこの家電量販店では店員さんも、私の目の前で展示してあるパソコンを使って、LenovoのWebサイトを開きながら商品説明をし、こういう組み合わせだと、今買うといくらで、納期がいつ頃の見込みでと案内していたので、別に家に帰ってそのサイトにアクセスして自分で買っちゃうこともできたわけなのだが、それでは時間を割いてあれこれ教えてくれたこの人のお店に一銭もお金が落ちない。それでは、やりきれない。
というわけで、一通り説明を聞いた後に「ちょっと持ち帰って考えてみます」と言って、お礼を言って店を後にし、いったん家に帰ってLenovoのWebサイトで今一度あれこれ確認したりシミュレーションしたりして、「よし、この組み合わせで行こう」と意志を固めてから、また店舗に戻って先ほどの店員さんに「この組み合わせで買いたいです」とスペックを伝えて、そのお店でパソコンを買った。
私は、それに引き合わせてくれ、それについて教えてくれた人のところで買いたい、謝意をお金で払いたいという気持ちに駆られ、家電でも服でも本でも、そういう行動をよく選ぶのだが(徹底してそうというわけじゃない)、うーん、なかなか難しいなぁ。
本屋で見つけた本は紙で、Amazonで見つけた本は電子書籍で買うという形式上の不統一が続いている。積み上がる紙の本(写真)。
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