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2023-02-26

実店舗の引き合わせ力とアドバイス力にお金を払いたい

数年使っている私物のノートパソコンがくたっている。電源プラグをコンセントに挿しておかないと、シュンと落ちてしまうようになって久しい。それでもけっこうな期間、外に持ち出すときにも電源プラグを一緒に持ち歩くようにして使い続けていたのだが、今月の頭、重たい腰をあげて家電量販店に物色しに行った。

ネットで下調べをして、メーカーは1つに決めつつも、複数展開されているブランドやスペックまでは絞り込めず、「何がわからないから自分は決められないのだ」という自分ステイタスを明らかにして店舗へ行く。

今のパソコンのスペックに不足はない。たいして大がかりなことはしないから、今のパソコンのスペックを維持できれば問題ない。なので今使っているパソコンはCPUがこうで、メモリがこうで…と主な仕様をメモって(覚えられない)、これ以上なら無問題ということにする。

スペック表に載らないキーボードの打ちごこち、見た感じの野暮ったみのなさ、筐体の大きさと薄さ、持ってみての軽さ、画面の広さなんかは、私なんぞ気分の問題が大きいので、店に置いてあるのをじろじろ見たり触ったりして「うん、悪くない」くらいのざっくりしたものである。

これがいろんなパソコンで、フロア一角の数歩の行き来でできるのが実店舗というところで、このありがたみは、画面にらんでネットで下調べした上で味わうと格別のものとなる。ちょっとしたアミューズメントパークだ。

ちょっとずつ仕様の異なるパソコンの筐体がずらりと並べられ、その筐体の脇に一つひとつ仕様ガイドが配されているのも実に分かりやすく、私はただぼーっと立っているだけなのに目をきょろきょろ動かすだけで右と左のポイント比較ができるなんて。

店とは、なんて素晴らしい体験空間なのかと思う。パソコン画面に向かって「何の、どの観点を見比べるのか」を自分で考えたり調べたり、その情報を探しあてたり見比べたり、うーむと脳内で右往左往しているうち包まれている閉塞感に比べて、なんたる開放感。実店舗の言外のアシストを味わい、心の中でスタンディングオベーションを送るのだった。体は店内で棒立ちなのだが。

昔は、こんな当たり前の「店の風景」というのを、とても記述する意識はもてなかった。単なる1消費者の私にとって店の風景は、それ以上には分解できない、ひとまとまりの「店の風景」でしかなかったのだが、ネット体験と対比して眺められる今、なんと感謝の念が募る空間として映し出されるものだろう。

さらには店員さんに、自分の持ち込んだ疑問点を直接話して、その回答を個別に与えてもらえる贅沢空間だ。買うことも決めていない私に、そんな丁寧に教えてくれるのか。パソコンは値のはる商品だし、私が訪ねたときは空いていたこともあって、かなり手厚く時間を割いて情報提供や助言をしてもらえた。

CPUのIntelとAMDって、どう違うの?Core iの数字とRyzenの数字って、どういう対照関係なの?RyzenなるCPUをパソコンに詳しい巷の人はぶっちゃけ、どう評価しているの?とかとか。

いつでも会いに行ける店員さん、なんて素晴らしい。営業時間内に限られるとはいえ、たいてい朝から晩まで開いているんだから申し分ない。予約不要で会えるんである。声をかけたら「へい、いらっしゃい。何かお困りで?」と返ってくるんである。すごい。

そして質問したら、自分の疑問に答えてくれる。その質問レベルがどんなであろうと、どんなに拙く、受け手側の店員さんの補完を要する質問の仕方であっても、いろいろとこちら側の意図を汲みつつ想像を巡らせつつ、2、3質問など加えて要点を絞り込みつつ疑問の芯をたぐり寄せて把握し、疑問点を解消してくれる。お薦めのもの、選び方のアプローチ、そこは気にしなくていいということを明らかにしていってくれる。

もちろん店員さんにもいろいろいるわけだけれど、基本はそういう対応ができるサービスを追求して、店舗というものは存在し、それを磨こうと組織的な施策を講じているわけだ。

いやいやネット上のサービスでも、ITだかAIだかがそれを代替し、人のそれを超える試みが百花繚乱ではないか。そう言われればそうなんだけど、人間の、私の、この動物性にフィットする実店舗特有の体験の豊かさを、それはそれとして尊び、市場で成り立たせることはできないものか。

「代替できるか」と「代替すべきか」は違うし、「全部を移行すること」と「多様な選択肢を作りだすこと」は、いずれもありうる。未来予測というのはだいたい「全部が移行する」路線で雑に言われがちだが、なぜ多様性多様性と言うわりに、古きを棄てて、新しいものに移行するという雑な発想をすぐ採用するのか。許されるなら、2つとも残して、人それぞれ、状況によりけりで選べるようにすればいいじゃないか。市場がそれを許さないということなのか。もんもん。

多様性豊かな社会を作るんなら、寛容であること、過干渉にならないこと、複数の選択肢を育てて、時々で融通がきく社会を作ることが大事なのに、全然真逆の方向で頑張っている人の言行にふれるのが多いのは、いったい全体どういうことなんだ。つじつまが合わないじゃないか。もんもん。

閑話休題。そんなこんなを体験すると、あぁ買うときは、ここで買わなきゃバチが当たるという気に駆られるもので、とても家に帰ってネットで買おうという気にはなれない。

そこの家電量販店では店員さんも、私の目の前で展示してあるパソコンを使って、LenovoのWebサイトを開きながら商品説明をし、こういう組み合わせだと、今買うといくらで、納期がいつ頃の見込みでと案内していたので、別に家に帰ってそのサイトにアクセスして自分で買っちゃうこともできたわけなのだが、それでは時間を割いてあれこれ教えてくれたこの人のお店に一銭もお金が落ちない。それでは、やりきれない。

というわけで、一通り説明を聞いた後に「ちょっと持ち帰って考えてみます」と言って、お礼を言って店を後にし、いったん家に帰ってLenovoのWebサイトで今一度あれこれ確認したりシミュレーションしたりして、「よし、この組み合わせで行こう」と意志を固めてから、また店舗に戻って先ほどの店員さんに「この組み合わせで買いたいです」とスペックを伝えて、そのお店でパソコンを買った。

私は、それに引き合わせてくれ、それについて教えてくれた人のところで買いたい、謝意をお金で払いたいという気持ちに駆られ、家電でも服でも本でも、そういう行動をよく選ぶのだが(徹底してそうというわけじゃない)、うーん、なかなか難しいなぁ。

本屋で見つけた本は紙で、Amazonで見つけた本は電子書籍で買うという形式上の不統一が続いている。積み上がる紙の本(写真)

2023-02-25

熱苦しい姉、妹の「うふふ」

兄妹に、思いの丈を詰め込んだメッセージをしたためてLINEで送った。一応、具体的な提案、それを提案する根拠、観察された父の言動と、それを受けての自分の考察など、提案としての骨組みはあるっちゃある。あるのだが、いかんせん長すぎる。全然LINEトークっぽくない。でも一定の推敲を経て、最後は「えい、やー、送ってまえー」と送ってしまった。

そしたら、LINEのトークって長文を送ると(1000字を超えると)一つの吹き出しに全文表示するのをやめて、あとは「すべて見る」ってリンク先に流すらしい。吹き出しデザインなしの真っ白いメモ帳みたいな画面にとんで、そっちで全文表示される仕様のようだ。

兄と妹は、大人になってから更新された私のキャラを、そんなにしっかり認識していないはずだ。熱(苦し)いメッセージにドン引きしているかもしれない。なんか、ちょっと変な人だとは思われているふうだが、それがどんなふうに変か吟味するほどのやりとりは、これまでそんなにしていないと思う(たぶん)。私も兄と妹の大人になってから更新されたキャラについては、これという像を結ばず、よくわかっていない。

仕事でもなく、こんな長文をLINEメッセージで受け取ることなんて、そうそうないだろうよ。世の中に、一つの吹き出しに1000字を超えるLINEトークのメッセージを受け取って、この白い画面を見たことがある人は何人くらいいるのだろうか。何千人?いや甘く見ちゃいかんだろう。ユーザーが多いと何万人かはいるもんだろう。局地的には日常使いしているかもしれん。世の中広いからな。

そんなことを思いながら、しばらくうじうじしていたら、妹から「むっちゃ長い」って一言、返ってきた。だけど最後に「うふふ」っていうスタンプがついていたから、たぶん大丈夫だ。

速攻「うふふ」って返しておいた。スタンプは持ってないから、私のは単なる「うふふ」だが。プリインストールされている何がしかの絵を入れておくおくべきだったか。まぁ、いいか。やるっきゃないのだ、伝えるっきゃないのだ。みんなで率直な意見交換して、一番良い答えを選んでいける流れを作っていくのだ。みんなキャラが違うからこそ、いいんじゃないか。そうだ、そうだ。

その後、妹からも、兄からも、あったかいメッセージが届いた。もう少し、私はじたばたするぞ。

2023-02-21

「親を大事にする」の本当の答え

千葉と東京を行ったり来たりする電車の中でブログる。父にしてみれば、3人の子どもの中で一番面倒くさいやつが私だ。体当たりで議論を持ちかけてきて、思いのたけをぶつけてくる。

私が甘えてるのかなと逡巡し、言うか言うまいか、どう言ったらいいかと、私は私なりにずいぶんと考えこんだ。たくさん一人で考えはしたのだ。

親を大事にするってことは、たいそう難しい。どうすることが、本当にそれに当たるのかは、いつもグラデーションがかったもやの中で、これだ!という輪郭をもたない。

老いていく親を守ること、自分を生きぬく親の考えを尊重すること、親からもらった私の人生の時間を大事にすること、これらは時にかちあって、うまくバランスしたおさまりどころをもたない。私の中では合点がいっても、親の合点がいくわけじゃない。

そうした中では結局、私一人では案出しすることはできても、最適解を結論できるものじゃない。相談相手は父本人しかいない。伝えて何かを返してくれるなら、まず私はこう思うんだと思い切り伝えてみるほか、私にはやり方が思い当たらないのだった。

これはやっぱり、自分のうちに押しとどめるのは違うと決めて出かけた。決戦は火曜日。父とは全然別の用で待ち合わせていたのだが、その用事が終わるとサイゼリヤに入って、食事しながら2時間の大論争。

ひざつき合わせて時間をきちんと持って、私の意見は私の意見として父に伝える。言いくるめたいわけじゃない。私の意見として伝えて、それを受けての返答を聴きたい。後から、あのとき伝え損ねたと思いたくない。伝え損ねた結果、すれ違いたくはないのだ。

そうして、自分の考えを言葉を尽くして伝えると、父からも父の弁が旺盛に返ってくる。その意見もしっかり聴き、議論に議論を重ねる。父もノリに乗ってきて、ビールの杯数が増えていく。

率直に、素直に、話す。私ができる、大事な人を大事にするやり方は、これしかなかなか思いつかない。不器用なだけかもしれないし、考えが足りないだけかもしれない。発想力が足らんのかもしれないし、思慮が浅いのかもしれない。けれど、もうその等身大でやるしかない。手を出せる時間は今しかないのだ。

なんだかんだ、父もちょっと楽しそうなのに救われた、東京への帰り道。LINEごしに兄と妹はやれやれ。

大事な人を大事にするやり方は、人によって、相手によって、相手と自分の関係性によって違う。兄妹だって、やり方は違う。状況が変わればまた変わるし、認識が変わればまた変わる。だから相手とその時々をつかまえて意見交換しないと本当の答えを探れない。相談相手は本人、これが一番誤解がない、そう思っちゃう自分を生きるほかない。はてさて、どうなるか。

2023-02-14

母の十三回忌に家族集結して

十三回忌ともなると、ずいぶんと落ち着いた心持ちでその日を迎えられるもので、三回忌と十三回忌では、ほら、ずいぶんと心模様も変わるものでしょうと、誰かに説かれているような。そう問いかけられるように、三回忌と十三回忌とを特別においている気さえしてくる。

一周忌が、亡くなった1年後にやってきて、三回忌は、その翌年にやってくる。3年後ではなく、2年後にやってくると知ったのは、恥ずかしながら母のその日を迎えたときのことだった。「〇周忌」が「丸〇年後」を表すのに対して、「◇回忌」というのは「◇年目の始まり」を表すのだ。

つまり十三回忌というのは、母が亡くなって丸12年が経ち、13年目が始まる時期を迎えたということだ。東日本大震災が起きる、ちょうどひと月前のことだった。病気の発覚からあっという間、ひと月半ほどで旅立っていった。

十三回忌には改まった儀式を設けるところも多いと思うが、うちの家族は今回、とくに法事らしきことはせず、しかし家族全員が集まって母のお墓へ行き、手を合わせた。

実家でも、車の移動中も、食事処でもわいわいと話をして相当にぎやかだったから、母も突っ込みどころ満載な家族の会話に触れ、なかなかな十三回忌を過ごせたのではないかと勝手ながら思う。仏壇のコーヒーも、インスタントでなくドリップコーヒーをあげたし…。

妹の運転で、父と兄と私を乗せて車で移動するだなんていうのも、初めてのことだったのではないか。人生初は、何歳になってもいろいろと巡ってくるものだ。

子どもらが全員40代となって、こんなふうに膝つきあわせて家族会議みたいなことをやるようになるというのも、なんだか新鮮だ。互いがそれぞれの場所で人生経験を積んできて、キャラクターもバラバラで、だけどみんな家族に温かくて、議論が白熱しても心あるやりとりが続く。

何が大事なことか、何は柔軟に考えるべきかを意見交換しながら、論点を大事に大事に詰めていく。自分が勢いで浅はかなことを言ってしまったかと後から振り返ったりして、兄のふるまいには学ぶところが多いし、妹の愛嬌に気持ち救われることもしばしば、ありがたい家族だ。ガーンと勢い思い切って不器用にやっちゃう加減は、あんがい父と私が似ているのかもしれない。

2023-02-11

1日に10時間しゃべった日

コロナ禍ど真ん中期は、ほとんど口を開かない日が何日も続いて、たまに人と話す機会をもつと30分くらいで声がかすれてくる症状が、まま自覚されたが、最近は声がもつ。

先日、珍しく人と話す予定が3つ入っている日があって最後まで声がもつか危ぶまれたが、心配無用だった。

昼、夕、夜と来て、3つ目の予定も話に夢中になっているうち夜が更けていき、結局ひと所で4時間半ほど話しこんでいたが、最後まで声帯がもった。

今日はよくしゃべったなぁと帰り道に足し算してみたら、その日一日であわせて10時間しゃべっていて、わが声帯、完全復活ではないかと安堵した。

あいかわらず身辺さわがしく、日々いろんな新情報が舞い込んできては心が揺れたり、頭の中の認識が塗り変わったり、アイデアやら意見やら、判断やらがボコボコと出たり引っ込んだり。ただ、そういう波乗りの中で人との交流も増えていて、そこで得られる活力にも感じ入る日々。

人と話すことは私にとって、大いなる活力源であることを再認識。私、人と話すのが好きなのだ。人の話を聴くのが好きなのだった。自分の頭の中がふわぁって広がっていって、相手が話している中身と様子とから、自分の中にいろんな考えや思いが生まれていくのが楽しいし、面白いし、いろんな発見があるし、いろんな企ての発想を呼ぶし、元気をもらえるし、心が豊かになっていく。

その場では、相手のいう意見に、それは違うんだよなと早計に返してしまったことも、その後一人になってから、いやちょっと待てよ、本当に違うのかな、自分にはこういう面もあるのではないかとか、もう一度自問してみる機会を得たりして。こういうのも自分ひとりじゃ辿れないプロセスであって、ありがたいことだなぁと感謝する。

私は、そういうのが好きで、尊いなと思う、そういう人間だったよな、そうだった、そうだったって、なんかシンプルに自分のことについて再確認する機会を得ている。この自己認識は今度こそ手放さず、そして今こそ大事にしなきゃな。自覚してなきゃ手放してしまう。意識して使わなきゃ衰えてしまう。きっと、本来を再生させる頃合いなのだ。私が生きるって、こういうことだ。

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