父が年始早々に出先の階段で転んで、しばらく緊迫した状態が続いた。頭を打ったといったことはなさそうで、CT検査もしたが異常は見つからず、その点はまず安心したのだが、とにかく心のショックが今回はとても大きなものとなり、気丈な父が、発覚時には衰弱といってもいいくらいの容態だった。
父のことを、ここであーだこーだとやみくもに書くわけにもなかなかいかないが、ともかく「これは家族総出で気合いを入れて助けるぞ!」という認識が、われら兄妹間で言外に共有され、いつもにない活発なやりとりがしばらく続いている。
兄は早々にしばらく実家に住み込むこととし、私はその一件が発覚した後、実家に駆けつけてベッドに横たわる父のおでこをすりすり、ほっぺをなでなでして、穏やかな声で言葉をかけて心をさすった。
大人になってからの私たち家族は普段、体にふれるコミュニケーションを文化や習慣としてもっていないが、今回ばかりは極めて原始的なコミュニケーションが大事に思われてならなかった。
だから私は家に帰るやいなや、ベッドに横になっている父のところに行って声をかけ、おでことほっぺに手をあてた。娘にそんなことをされては、むっとするかもしれないと少し構えたが、そのときの父は反発する様子もなく、それで、これは相当に堪えているなと思った。
しばらくして起き上がる気になった父が、ベッドすぐ脇の椅子に腰かけるのを手伝って、私はそのすぐそばに腰をおろし、じゅうたんにあぐらをかくような格好で座りこんで父の話を聴いた。どんなことが起きて、どんな気持ちがして、どんなことを考えて、どんなふうに気がふさいでいったのか、父が記憶をたどりながら率直に話していく。
父が見た光景をイメージしながら、私は脳内でシーンをたどった。転んだときに聞いただろう大きな音、物の散乱、体がぶつかる衝撃、視界に広がる冬空のあっけらかんさ、肌に触れる地面の冷たさ、現実問題どうやって家に帰ろうかと迫る不安、立ち上がってもふらふらして何度か続けて転んだことで負った心の傷、動揺と緊張、悔しさやふがいなさ、さまざまな感情が湧いては絡み合って、諦観なのか自暴自棄なのかわからない無気力に飲み込まれていく夜、朝、昼、夜、朝、昼、夜の繰り返し。
というのは私が話を聴きながら再生した半分妄想であって、実際がどういうものかは本人にしかわからない(あるいは本人にも精細には把握ならない)わけだが、すごく心細かったし、すごくショックを受けただろうことを察して気持ちを汲んだ。
しかし、会って直接話を聴いたことで、私はずいぶんと落ち着いた。会いに行くまで、兄などと連絡をとりながら、できるかぎり事前に正しい事実情報を集めて状況把握に努める一方で、会ったときに自分がショックを受けてたじろがないように最悪の容態を想定範囲内に入れていた。どんな様子であっても、とにかく落ち着いた心持ちで父を温かく包みこもうと心に決めて出かけた。だから会って、父があれこれと話をするのを聴いて、とにかくほっとした。
その日、仕事から帰ってきた兄と入れ替わりに、私はいったん東京に戻るねと父に声をかけた。私を駅まで車で送ってくれる準備で兄が部屋を出ている間に、横になっている父のところに行って手を握った。父は目を閉じていたが、私の声を聞いているのがわかり静かに続けた。
◯子(妹)も心配してたよ。私たちみんなにとって、お父さんは大事な人なんだよ。お母さんとおんなじだけ、大事な人なの。だからお父さんも大事にしてね。
正直、たいへん恥ずかしい。私はそういうことを言う柄じゃないし、恥ずかしさとも別のなんだかよくわからない感情もわいてきて涙がこみ上げてくる。だけど、今、父に、このことを言葉にして伝えなきゃ、いつ言うの、今でしょ!なのだった。それが父にどんな意味をもつかはわからないけれど、これがそのとき私がやれることで、思いつくかぎり一番のことだった。
父は体を動かさず、とくに返事もせず、目をつぶったままだった。兄が部屋に戻ってきて、私は家を出た。
しかし、その翌朝から父は明らかに変わった。転んだ日から数日寝たきり状態でふさぎこんでいたのが、声がけした翌日から自分で起き上がるようになり、食事をとる気になり、寝たきりと意識的に決別したのがわかった。兄が作るご飯を食べ、数歩、数十歩、室内から屋外、車移動だけから徒歩移動を取り入れるというようにして、日ごと段階的に運動量を増し、活動範囲を広げている。
父の歳では、数日間寝たきりにした体の筋力や体力を取り戻すのに、そこそこ期間を要するだろう。けれど、ベッドに横たわる父に声をかけたあの日とは全然違う顔つきで、気力を取り戻していっている。それが本当に嬉しい。
これは年齢問わずだが、人間ひとりの中にはいつだってたくさんの気持ちがあって揺れている。父もまた今その全部がポジティブなものではないだろう。私たち子どもらの気持ちも、励みとする面もあれば、いくらかは重たく感じている面があるかもしれない。老いとどう向き合っていくかだって、父が自分の人生をどう生き抜いていくかだって、私たち子どもらには想像及ばぬところがたぶんにあるのが当然だ。
それはそれとして、本人にはできないことが、家族にできるってこともある。気持ちというのはどうにも、自分ひとりでは立て直せないときがある。そういうときは身近な人間、私たち家族が力づくでそこから引っ張りあげて、こっちだ、こっちだよって声をかけ、その耳に直接届けることが意味をもつんじゃないか。
それがどれくらいの実効性をもって変化を生むかはわからない。けれど、外から引っ張り上げようという力が自分に働いていることは感じ取れる。それが本人の気力を引き出して、ぐいっとこちら世界に戻ってくるエネルギーを作り出す、そういうことがあるんじゃないかと信じたいし、私にできることはそれしかない。
そのとき、「今ここ」を逃しちゃいけないんだと強く思うのだ。今ここで伝えなきゃダメなことってのがある。言葉にして伝えなきゃ伝わらないことがある。本人には、どうしようもならないときがある。私はそれを見逃さず、取り逃がさないでいきたい。それが年始から掲げている洞察力と機動力なのだった。そんなこんな奮闘しているうち、私はどんどん柔らかくなっている気がする。どこに到達するのかは皆目よくわからないんだけど。
最近のコメント