仕事とキャリアと人生と、ぼやけた輪郭を記述する
年の瀬も押し迫ったところで、自分が今後なにを仕事にしていきたいかをシンプルに整理する機会があった。これは、私においては「残りの人生をどう生きたものか」に直結する問いになった。
人生のなかで私は「仕事する」という活動を大事なところに位置づけている。それが「私」の自然だということなら、そういう自分を生かすのが良かろうと思う。
また「今後のこと」を考えようとすると、「残りの人生で」という言葉がおのずと脳内に立ち上がってくる。それも、この歳になった「今の私」の自然ということなら、そういう現象を生かしてもの考えるのが良かろう。
「残りの人生で」を立ち上がらせているのは、おそらく私の中の長老キャラだ。時間の有限性を意識しないことには具体的なプランなど展開しえないぞ、うだうだしている間に終わってしまうぞ!と釘を刺している。
私の中にはいろんな小人が生息していて、頭をかきながら「へぇ、へぇ」と長老の話を聞いている小僧キャラもいるし、そういう脳内劇場を舞台袖からも、客席からも眺めている何某キャラがいる。
果たして何人の小人が生息しているのか、自分にもわかっていない。たぶん生きているうちに小人キャラは増えていくものなんだろう。
そんなことはさておき「残りの人生で何を仕事にしていきたいか」である。それについて思い巡らせていたところ、シンプルに考えてみることが大事だよなと、シンプルに思うに至った。
ふいに橘川幸夫さんがお話ししている動画を観たくなって視聴。それで思ったことなのだけど、私が橘川さんのお話にうんうんと頷いたのを3つ並べると、こういうことだ。
- 人の本質は変わらないと思ってるのよ
- 人間はそんなに器用じゃない。一生涯の中で自分の本質が入れ替わるほど器用な作りじゃない
- だから、その変わらない自分の本質というのを、きちんと大事にしたらいいんじゃないか
一度観て、私が独自解釈でメモったものなので、橘川さんからすると、んなこたぁ言っていないぞ、そんなまとめ方したら誤解されるじゃないかと、やきもきすること請け合いの乱文なのだけど、とりあえずこのまま、私が聴いた話、受け止めた解釈、考えたことを書き続けてしまう。
3つ目の「きちんと大事にする」が一筋縄ではいかない。普通に生きていると、いろんな日常の出来事や人間関係、特定の環境に身を置いて時間を過ごすことになり、そのうち自分が何を求めているかを忘れてしまう。自分が何を欲しくて、自分が何者なのかを忘れてしまう、見えなくなっちゃうという話。
インタビュアが、新しいものに触れ、誰かに影響を受けて、自分の核たるものが変わるということもあるんじゃないか?と問うのに対しては、ものの見方が変わったり行動を起こしたりということはあるかもしれないが、自分の本質が変わるわけじゃないと思うんだよねと返す。
たとえば誰かの話を聴いたとき、自分の変わらぬ本質に共鳴するところがあって、自分が理解して受け止められる範囲にあるからこそ相手の知識に学んだり刺激を受けるわけで、自分が理解できない域で影響を受けたりしないんじゃないかと。
この話に共鳴して納得する自分を、舞台の客席から見て思うに(さっきの脳内小人の一味だ)、いま自分が橘川さんの話を聞いて、自分が理解できるかぎりにおいて、ここに書きとめたように独自解釈して受け止めている、このことこそがこの話を体現しているように思われて、このメタ構造みたいな様に独り合点してしまった。
とにもかくにも、そんなわけで、自分がシンプルに思うところを別のところで手元のメモに書き連ねてみたりして、自分の変わらぬ本質みたいなものを今改めて手探りし、握りなおそうとしている今日この頃。
書き連ねる言葉から「自分って、こういう人間だよなぁ」という輪郭が、なんとなく認められるような、まだ言葉も冗長で、輪郭線がはっきりしていないような。そして何より、その本質をどう社会に接続していいかが、まだ全然はっきりしていないわけだけど。でもそれは、出してみないことにはわからない。市場にさらしてみないことにはどうとも判断つかない。
こういう「仕事とキャリアと人生と」みたいな話題は、酒と泪と男と女のように、うさんくさく見えて遠のけたい時期もあれば、それこそが大事だと思う時期もあり、それこそが健全とも思う事柄だ。
キャリアデザインは一時期のもの。ずっとデザインに時間を当てていても仕方なくて、キャリアドリフト期と称して漂流するがごとく、自分が今いる環境に身をさらして、そこでプレイしている時期こそが、メインの人生時間だと思っている。そういう意味では今は私にとって、いっときのキャリアデザイン期が巡ってきたということかもしれない。うさんくさく遠のけず、大事に思って考えよう。
上に述べたとおり、ここに書いた橘川さんのお話のくだりは、あくまで私の個人的解釈を言葉にしているものなので、きちんと聴きたいなぁという方は、ぜひ動画を直接どうぞ。それこそ橘川さんのお話は解釈多様性に富んだお話なので、人それぞれで私の受け止めとは全然違うことを考えたり受け止めたりするんだろうなと思います。新宿の父「タカミー編」|橘川幸夫さん(株式会社デジタルメディア研究所所長)のnoteにて。
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