« 2022年10月 | トップページ | 2022年12月 »

2022-11-28

オウンドメディアで記事を書く、作ることで「作る人」を想う

最近、勤め先の自社メディア「ToCreator」で読み切りの記事を書いている。8月、9月と出して、今回が3本目。1本書き上げるのに毎回大変な思いをしていて、回を重ねるごとに職業ライターは絶対無理だなという思いを強くする一方、職業ライターでないのに執筆仕事の機会をもらえるのはありがたいことだとも思う複雑なサラリーマンごころ。

書いているときも公開するときも、ほとんど息苦しさしか感じていない気がする仕事だけど、野暮な泣き言を書き連ねるのはやめておくとして、ごく個人的なところのやりがいを書きとめておくなら、私はこの仕事によって改めて自分の仕事の原動力をシンプルにつかみ直す感触を得た。

記事を一本書くという「作る活動」を丹念に行う中で、作り手として身をたてる人たちへの敬愛がすさまじく濃縮されて実感される。

記事を作る過程では毎度のごとく険しく孤独な旅路が体験され、作り終えてもいろんな複雑な思いが絡み合ったまま一向にほどけることがない。というのに、それと別に超然として自分の胸のうちに認められるのが「作る人」「作る活動」への尊敬の念である。

こうして「作る活動」で身を立てている人がいるのだということが骨身にしみて実感され、こうして「作る人」を支援するのが私の生業だ、私の仕事の原動力は、この人たちの役に立つことだという思いが強く意識される。

今は「作ったもの」との境界なく「作る人」「作る活動」に対しても四方八方からいろんな言葉が浴びせられる世の中だけれど、私は「作る人」「作る活動」を敬愛し、いかにささやかなれど守りと支えの一助として働きたい。

全身全霊かけて作る活動にあたっている人が、へんてこなことを言われていると、ぎゅっという気持ちになるのだが、このぎゅっという気持ちをこそ自分の個性と思って大事に生かさねばと思う。

そういう気持ちを大事に育てて生かすのにも、この書き仕事は効きめがあるようだ。小さい活動なれど「作る」という行為のなんたるかがシンプルにつまっていて体感される。誰の何の話だかわからなくなったが、とりあえず、ここは自由空間なので良しとしよう。

以下3本まとめて公開録とする。

ゲーム業界の転職理由、なぜクリエイターは職場を変えるのか?(2022/08/10)

放送業界の映像クリエイターが挑む、動画マーケティング業界への転職事情(2022/09/14)

ゲーム業界の転職、「面接」で不採用になる理由って何なんだ!(2022/11/28)

今後も社内をウロウロして、ゲーム系・映像系専任の転職エージェントに話を聴きこみ、最近の業界転職事情など共有できればと思います。

2022-11-24

「Web系キャリア探訪」第45回、個人から仕掛けるジョブ型雇用

インタビュアを担当しているWeb担当者Forumの連載「Web系キャリア探訪」第45回が公開されました。今回はジョブ型雇用で2017年にKDDIに入社し、部長職としてメタバースなどの新規事業を手がける三浦伊知郎さんを取材しました。

KDDIのアウトロー!? あえて“契約社員”として働く部長の仕事観

「ジョブ型雇用」って最近よく聞かれますが、三浦さんのキャリアを伺っていると20代の頃から自主的にジョブ型雇用を実践してこられたようにも感じられます。

そしてWeb系(ざっくり)の方には、自分も同じ感じだなって親近感を覚える方が少なくないのでは?と思っています。

10年、20年とキャリアを積んでいく中でWebの位置づけも専門性もどんどん進化し、高度化し、職業も専門分化してきた。

1996年から舞台袖でこの変化を眺めてきた身からすると、最初は「Webサイトを作る人」として一括りだった人たちが、それぞれの興味やバックグラウンドに応じて、マーケティング、広告、事業開発の方面に行ったり、専門技能を追求してIA(情報アーキテクチャ)、編集・ライティング、フロントエンド開発、UIデザイン、プロジェクトマネジメント、サービス・プロダクト開発、データサイエンス、ユーザーリサーチ、中小ネットビジネス支援、DX系のコンサルティングなどなど、いろんな方面に軸足を移していった軌跡がみとめられます。

市場の変化にどう対応するかは、個人と同様に、会社組織にも求められてきた。どう変わるか変わらないかは、個人と勤め先で常に足並みがそろうわけではないから、入社当初は「自分がやりたい仕事」と「組織が任せたい仕事」がマッチした会社でも、市場変化の過程でずれてくることが往々にしてある。

そうした変化の中では、一人ひとりが「この会社では、このポジションで、これを発揮し、これにチャレンジして、これを身につける」というふうに、職場ごとに設定を変えてキャリアの舵取りを自分でやってきたという方は多いのでは、と推察します。

職場移動のきっかけが自発的なものだったかどうかに関わらず、たとえ会社都合や家庭事情がきっかけだったとしても、そこからどう舵取りするかに主体性と個性が感じられる方は非常に多い。「私は行き当たりばったりで」とおっしゃる方のお話もよくよく伺っていると、主体的な意志決定に、その方の個性が詰まっていて素敵だなって思うことがままあります。

三浦さんは現在50歳。この30年のキャリア遍歴を読みながら、自分のキャリアと照らし合わせて、今の自分の現在地をはかったり、この先の方向性を模索する参照情報としてお役立ていただけるかもしれません。組織と自分の関係性を健全に対等に見直すきっかけにも、ぜひ参考にしていただけたら嬉しいです。

私は、Web界隈の人たちが先駆者的に、ジョブ型雇用の実例をつくり、「組織と個人の健全で対等な関係」の手本となり、「個人のキャリア自律」を推進していくのかなぁというイメージをもっているので、そういう情報交換は活発にしていけるといいなと、そんなことを思っている次第です。よろしければ、ぜひご一読くださいませ。

2022-11-22

孤独を引き受ける健全さ

人は孤独なものだろうと言うのを、かわいそうな目で見返されても困ってしまう。そういうリスクがあるから人前で軽々しく口にはしないが、人は孤独を引き受けざるをえないものだろうと思っているので、気を抜くと普通のおしゃべりで話題にあげてしまいそうだ。別に苛まれているわけではないので怖がらないでほしいのだが。とりあえず、ここに書くぶんには問題ないだろう。

「孤独についてどう観るか」という話題は、なかなかに相手やシチュエーションを選ぶ。そんなことを話す機会は、そうごろごろしているものじゃない。なので人がエッセイなんかで「孤独」という言葉を用いていると、この人はどういう感じで孤独についてとらえているのだろうかと興味津々で読んでしまう。

それでいくと、若松英輔さんの「悲しみの秘儀」*に書かれている孤独というのは、実に健全で、肯定的で、私の「孤独」観と親和性が高かった。孤独感ではなく、孤独観である。

タイトルからして弱々しくしみったれていて(失礼)自分にはそぐわぬという向きもあろうが、私は実に強靭で健康的な本だと思った。おわりに「悲しみを経て見出された希望こそが、他者と分かち合うに足る強度をもっている」とあるが、そうなのだ、「経て、取り込んで、融和した後に、見出された」強度が、大人になると欠かせなくなってくるのだ。

悲しみとか孤独といったものを、見て見ぬふりしてはねつけて、自分のうちに認めぬまま別のほうへ視線をずらし続けてしまうほうが危うい。自分の足場をどんどん見失っていってしまう。

まずはどまんなかで、自分の中にわきたつ感情、苛まれる思いをしかと認めて、何年がかりでも向き合ってみる。それを少しずつでも、行きつ戻りつでも、かみ砕いて咀嚼し、うちに取り込んでいくと、それとうまくつきあえる関係を構築することができる。そうやって心は強度を増していく。

それは、まず自分に作用する。

人生には、孤独を生きてみなければどうしても知り得ないことがある。孤独を感じるとき、もっとも近くに自己を感じる。

そして、真に人とつながるために作用する。

真に他者とつながるために人は、一たび独りであることをわが身に引き受けなくてはならないのだろう。独りだと感じたとき、他者は、はじめてかけがえのない存在になる。

人をこの上なく大事に思えるのは、ここに至ってからという気すら覚える。私にはこの孤独観が、健全に生きていく上で欠かせぬものと感じられるのだ。こうした孤独観は、きゃぴきゃぴした自分とも併存できるものだ。じゃあ君、最近いつきゃぴきゃぴしたんだ、言ってみろ!と言われても、答えに窮してしまうけれど。私はこの孤独観を、自分が健全であるために、大事な人たちを大事にできるように、大切にしている。

*若松英輔「悲しみの秘儀」(文春文庫)

2022-11-17

仕事の面白さは、どこへ行くのか

「職場のマイナス面」に光を当てて除去・減退させる時事には事欠かないんだけど、「仕事のプラス面」に光をあてて増幅・創造する時事にふれる機会が少なすぎて、なんだかバランスが悪いように感じている昨今。

そんなことを大きな声でいうと、君は前者の問題を軽視しているとバッシングされるリスクもあるから、素人がぽろりとつぶやくには身構える世の中。

だけど、私も体を壊すようなブラック環境を是正しないでいいと考えているわけじゃない。それはそれで有意義な動きとみつつも、それだけでは「仕事」の意味の一番大事なところが死角に入っちゃうというかな。

見るもの、聞くものがそっちの時事に偏ってしまうと、仕事はたたむもの、済ますもの、できるだけ手際よく、効率的に、手の収まる範囲に…と、ブレーキの利きばかり良くなってしまって、「仕事」というもののコンセプトそのものが縮こまり、狭まり偏り、矮小化してしまう。

生計を立てる以外の価値を見失って、新たな可能性や広がり、人々の成長機会、仕事している活動時間そのものが楽しいという感覚を手放してしまう気がしている。

それをすでに知っている人には、そんなことないと思えても、それをまだ知らぬ人、特にこれから社会に出てくる若者にとって、そんなの知らない見たことない聞いたこともないとなってしまうのは、それはそれで私にとってはおびえる事態なのだった。

少なくとも私にとって仕事というのは、生計を立てる手段にとどまるものではない。私は「作る仕事をする人」をキャリア支援する、能力開発支援するといった仕事を生業にしてきているが、それも「済ます仕事をする人」と相手をとらえて仕えてきたわけじゃない。

仕事が、面白い活動となりうるものという意味合いを含んでいること。仕事は、今ない何かを作り出す価値創造のプロセスだということ。

人は「仕事」という場面で人と交わったり、事に向き合ったりするなかにわが身を置いてこそ発揮される能力、発想、踏ん張り、協調、思いやり、そうしたものがあるし、それによって身につく能力、伸びるスキル、超えられる壁、得られる成長、達成感や充実感、次の目標というのがある。何かそういうものもあわせて、後者のほうにも光をあてて、世の中が循環したらいいなぁと思う。

マイナスを除去することも大事だし、プラスを増幅させることも大事。それって、あらかたいろんな概念に言えると思うのだけど、なかなか各所各所、がんじがらまっていて難しいなぁ。それぞれの持ち場で小さくともコツコツとやっていくしかない、私は私でコツコツやっていきたい。という青くさい思いをつらつら。

2022-11-06

ロジックだけでは、物語は成らず

大江健三郎の「人生の親戚」を読んで一番うなったところは、僕(作家のKさん)のところに、「まり恵さんの生涯を映画にしたい、ついてはKさんにシナリオの土台になる作品を書いてもらいたい」と相談が持ち込まれるシーンだ。これを受け止める僕の思いがつづられる文章にふれては、文学とは、作家とは、「自分を再建する」手立てを企てて提案してくれる仕事をなしているのだなと思い耽る作品だった。

若者3人組は、子ども二人を自殺で失ったまり恵さんの悲惨な体験を把握し、映画にすべくシナリオのプロットにまとめる。しかし、彼女の身に起こった出来事の筋書きだけは辿れても、彼らはそこで行きづまってしまう。

つまり、あの人が内面でどんな破壊をこうむっているか、それがよくわかっていないわけです。もっとわかりにくいのは、あんなにひどいことを経験した後で、どのように生活を再建できるものか、ということですね。生活というより、もっと基本的に、自分を再建する、ということができるか……

スクリーンでいえば、その先がずっと白いまま。「すこし年をとったまり恵さんが、穏やかに暮すというラスト・シーンは考えていますけど、そこへつなぐことができない」と、若者らはKさんに話す。

そこから、自分を再建する道筋を、どう見出すのか。

それにはどうしても、正確な事実の把握、ロジカルな筋立てだけでは突破できない物語の力が求められる。「正しく、筋が通っている」だけでは素材が足りない。物語に突破力をもたらすには、アイデアや着想のような構成要素が必要だ。それをして、きちんと物語の節に乗せて不協和を感じさせない手腕も必要で、そういうことをして物語を構成し、練り上げて成り立たせ、読者に「自分を再建する」手立てを提示しているのが文学であって、作家の仕事というやつなのかもと一人合点して、私はふむーと、うなった。

悲しみに暮れる、行き先が見出せない、宙ぶらりんのままの心に、別の視点を持ち込み、新たな着想やアイデアを提示し、了解し得ないと思い込んでいたものをなんとか了解して立ち上がらせる手立てとなるもの。

「僕」(Kさん)は、こう記している。

フィルムの編集段階から直接参加して、そこに物語を作り出し・言葉をあたえるのが僕の役目である

私たちは日々、いろんな物事に出くわし、気にかけたり気にかけなかったり、ある面を注視して、ある面を無視したり軽視したり、何かを気に病んで引きずり続けたりしているけれども、無数ともいえる多面体の物事やら出来事の何に光をあてて、それをどのように了解して自分の中に正面から迎え入れて、自分を再建していくことができるか。そこの手立てを豊かにしてくれる文学は、作家は、私にとってずっと心強い存在だ。

*大江健三郎「人生の親戚」(新潮社)

« 2022年10月 | トップページ | 2022年12月 »