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2022-10-27

「Web系キャリア探訪」第44回、転職コンサルタントの働き考

インタビュアを担当しているWeb担当者Forumの連載「Web系キャリア探訪」第44回が公開されました。今回は、イスラエルに本社をおくWix(ノーコードCMS)日本法人の広報、間島ゆかりさんを取材しました。

キャリアの軸はPR&社会貢献! 広報のプロがめざすのは「誰もがWebで夢を実現できる社会」

子どもの頃から海外や英語に関心が高かったという間島さんが、留学先で知った「広報」という仕事を、どう自分のキャリアの幹として育んでこられたのか。

外資系企業の勤務にとどまらず、JICA青年海外協力隊としてバングラデシュの観光PRを現地で務めたご経験もあって、本当にグローバルな活動領域。

お話を伺っていると、すごく芯のある「自分の納得いく選択を、やるべきときに、自分でする」ということを大事に重ね、都度その選択が本当に自分にとって意味をもつよう奮闘してこられた軌跡がうかがえて、とっても刺激的でした。

こんなインパクトあるキャリアだと、転職活動も引く手あまただったのではと思いきや、異色の職務経験を次の転職先につなげるのに、ご苦労もあったとか。この苦労話には、私も唖然としてしまって…。

キャリアコンサルタントとか、転職コンサルタントとかいうものの働きについて、考えさせられました。

こういう類いのポジションというのは、いなくて済むなら、そのほうが構造はシンプルなわけで。わかりやすく転職シーンで考えると、転職したい人と、求人する企業が、2者間でやりとりして良きご縁でまとまるなら、それが一番話は早い。

けれど、個人の転職活動、企業の採用活動の間に介在者があって、役に立つことがある。それを転職活動する側に寄って立つならば、転職活動する方の、それまでの経験を1対1で伺って、一緒に棚卸しして、その経験(その人が生きた時間)にどういう意味づけ、価値づけをするかに介在することは、すごく大きな意味をもちうる。

これまでの経験話をどう受け止めて、どういう言葉をかけるか、その一言一言が、その人に新しい意味づけの機会を提供することにもなれば、「自分の経験は言わないほうがいいことなのか」と思わせる、まるで無価値と烙印を押すような暴言ともなりうる。

職場を探している不安定な状況下にあって、転職コンサルタントに自分の培った経験を、言わないほうがいい、書かないほうがいいと言われる側の思いが、どんな痛みを覚えうるかについて、介在者は想像力をもたないといけない。

逆から見れば、そういう状況下にあって、「あなたは見出していないようだけど、あなたのこの経験には、こんな意味づけもできるんじゃないか」という新たな視点の提案が、とても尊い意味をもちうるということでもある。

あらゆる経験が、意味づけ次第で価値を見出せる解釈多様性を秘めていると私は思っているし、それを仮説でも自分なりに模索しながら、ご本人に提示して一緒に洞察を深めていったり、求人企業にどう働きかけていったら、それが伝わるか一緒に知恵をしぼっていくパートナーシップこそ大事な働きじゃないかなと思っている。

うーん、何かそういうことを考えるのにもすごく刺激をもらった取材でした。いやいや、話が長くなってしまった。よろしければ、ぜひご一読くださいませ。

2022-10-22

人の意見を取り入れるだけでもダメで

メンタルが低調だと(不調なわけじゃない)、人がフラットに意見してくれたことを、目線あわせたまま正面から受け止めることができない。

言葉を受け取った瞬間に、その吟味もそこそこに、「とにかく私が悪かったのだ、劣っている、愚かしいことを言ってしまった、しでかしてしまった、相手はひどく自分のことを見下しているにちがいない」と、全力疾走で自分を地面の下へ下へ引きずり込んでしまう。

現実世界では、ともかく相手にたたみかけるように詫びて、その場その時を突破しようとする。やり過ごそうとしているとも表現していいかもしれない。

そうなると、健全な相手ほど困るだろう。まるで自分がののしり、いじめたようではないかと、相手に勝手に持ち込まれた「加害者と被害者」の構図に面食らう。かがみこみ、しゃがみこみ、涙目にでもなっている相手を前にしたら、もう金輪際そんなめには遭いたくないと思い、その人に意見しなくなる、関わりをもたなくなる、当たり障りないことだけ言うようになる。

私は、やり過ごすのもいやだし、そういう人間関係におさまりたくもなく、そういう事態に抗う。相手の言うことを正面から受けとって咀嚼することを大事にしたい、吸収すべきところ反省すべきところはそれをきちんと受けいれて自分を改めたい一方で、「私はそれでもこう思う」と変えたくないところがあれば、それはそれで大事にしたい。そうやって相手と目線をあわせて、自分と相手の人間関係を健全に保ち育みたいと思う。

思うが、メンタルが低調だと、これがなかなかうまくできない。今は極力人にバレぬように、一人でリハビリをしているようなところがある。

私は皮の薄いほうで、人とのコミュニケーションの間では生傷が絶えない。そのつど内心で擦り傷をつくっているが、その症状は相手のせいではなく自分の足腰の問題だとツッコミをいれて、2日でも3日でも自分のその症状をほぐして、じっくり検討する。

もらった意見に対して、自分は何を見直す必要があって、何は「これは自分の考えであって相手と意見を合わせる必要はない」かを意識の上にのせ、静かな心で丁寧にほぐしていく。生傷のヒリヒリをさすりながら、受けとった言葉の再解釈を時間をかけてやり、それをどう自分に取り込み、取り込まずにいていいのかを考えてゆく。

そういう中で、じわりじわりと自分のタフネスも育まれていく、あるいは回復していっている気がする。もともとは持っていたそれが弱っているところもあり、それを取り戻している過程とも思えるし、一方で前より柔らかく強靭な筋力をじっくり鍛え上げている過程のようでもある。

私なりの真正さを、改めて探求している過程。超ポジティブに捉えれば、そういう意味も与えることができる。何を言っているのやら、と思うけれども。人の意見て取り入れるだけでもダメで、自分であれやこれやしながら自分に編み込んでいくことこそ大事なんだよな。

2022-10-06

直接会っておしゃべりすると

自分の知る人の近況って、SNSごしに触れているばかりだと、それがその人の日常の「ごくごく一部」って感じが、感覚麻痺してよくわからなくなってくることがある。

充実した一言がSNSで投稿されるのを見て、その人は100%充実した状態で人生が順風満帆に満たされまくっているように見えてくる、みたいな。まぁ、そこまでひどく単純ではないけれども、極端に言えば、そういう話。

しかし、みんな実にさまざまなテーマを取り扱いながら生きているわけで、24時間365日の間には、それぞれの人生に、いろんな出来事が起きていて、いろんなものごとを取り扱って、いろんな思いをしている。

40代、50代の語らいで、直接会ってこそ出てくるおしゃべりネタが、家族の話、健康の話だ。家族のあれこれは、華々しい達成ごとでもなければ、なかなかSNSなんかに書き込みしないが、各々にいろんな体験をこさえて毎日を暮らしている。親の体のことや生活のこと、自分の仕事のこと、職場のこと、家庭のこと、健康のこと(美容は話題にあがらない)、そして自分というもののあり方について、生き方について。

こちらから起こそうとしなくても、向こうからいろんな変化が突進してきて、そういう変化にもまれて、さて自分はどうするかということを、各々の持ち場でいろいろ試行錯誤している。

一人ひとりの話に触れて、それぞれの思いを汲み取ってゆく時間は実に豊かで、それを刺激にして自分の心がほぐされていくのもわかる。みんなが親御さんとどう関わっているか知ると、自分が親との時間を大切にしていく気持ちも健やかに育まれていくのを感じるし、もっとこういう見方をしたら助けになるかもなと新たな視点、もっと深い奥行きをもって自分のふるまいを見直すこともできて、人と話すってすごいことだなって思う。

一人でいると知らず知らず硬直化して閉塞しがちな心が、水分を入れてほぐされて、やわらかい気持ちになっていくような。それとともに、いろんな発見ごとも、いろんな発想も生まれてきて、こうしよう、ああしようと思うこともあれこれ。やっぱり直接、わいわいと同世代や兄さま姉さまと話すのって独特の豊かさがある。ありがたいわ。

2022-10-04

そんなときの、ググる

周囲に、そう読んでいる人が多くなさそうな海外の長編小説を読んでいて、その内容が複雑怪奇なため「ねぇ、これ読んだことある?」と大っぴらにSNSとかで読者探しする気にもなれない。そんなときの、ググる。

これって、読んだ人はどんな解釈をしていて、全体をどんな構造に分解していて、どんな感想をもっているんだろうなぁというのを知りたいんだけど、近くに読者が見つからない。いたとしても、古い本で、今読んでいる自分と頃合いを同じくして最近読んだ人でないと内容まで深くは覚えていないから、細かい解釈の話まではなかなか難しい場合。

本のタイトル名でGoogle検索して、ヒットする個人ブログにアクセスすると、「そう、こういうのに触れたかったのだ」というページにつないでくれる。これぞ、私の好きなインターネットの魂に触れる体験。

Amazonその他のレビュー然とした場所に書いてあるのとは、また違った文章なんだよな、読者が自分のブログに書いている文章って。なんとも味わい豊かな、よそ行きでない「私はこう読んだ」「読者会でこの作品を取り扱って、こんな意見があった」というのは独特で、読むと時空を超えて、ほやほやの読者に巡り合えたという感じがある。へぇ、ほぅ、そういうふうに読んでいるんだぁと思うこと、もらえる視点あれこれ。

古い本だし、万人に愛されるベストセラーって感じでもないので、ヒットするブログはごく僅かなのだけど、それだけに自分の周囲で探しても得られない意見は貴重で、地理的な距離を超え、非同期に、関心をともにする同士をつないでくれるインターネットに、Webの庶民への貢献に、改めて感謝した。2022年の最近も、私はあれやこれやググりまくっている。

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