パンチにパンチを返すのはよせ
「サンセット・パーク」に続けて「ブルックリン・フォリーズ」を読んだ。ポール・オースターならでは、知性なくしては成しえない人のおおらかさ、人の温かみが沁みわたった滋養の書。
そうだ、そうだよ、人は、こういう可能性をもった生き物なのだ。「パンチにパンチを返す」世界に、うずもれてしまってはいけない。そんなつまらないところに、自分をとどめておいてはもったいない。
彼女に「あたしどうしたらいい、ネイサン?」と問われた主人公は、まずこう返す。
「何も知らないふりして、放っておけばいい。じゃなけりゃ二人を祝福してやるか。二人の関係を好きになる義務はないけど、選択肢となるとその二つだけじゃないかな」
彼女は「二人を家から叩き出すことだってできるでしょ?」と返す。そこでネイサンは一息にこう返すのだ(イメージは映画「恋愛小説家」のジャック・ニコルソン)。
「うん、まぁできるだろうね。でもそうしたら、君は生涯ずっと、毎日後悔することになると思うね。やめておけよ、ジョイス。パンチにパンチを返すのはよせ。あごをしっかり引けよ。気楽に行けって。選挙は毎回民主党に入れろよ。公園で自転車に乗れよ。私の完璧な、黄金の肉体を夢に見ろよ。ビタミン剤を飲めよ。一日コップ八杯水を飲めよ。メッツを応援しろよ。映画をたっぷり観ろよ。仕事、無理するなよ。私と二人でパリに旅行しよう。レイチェルの子供が生まれたら病院に行って私の孫を抱いてやってくれ。毎食後かならず歯を磨けよ。赤信号の道を渡るなよ。弱い者に味方しろよ。自分の権利を守れよ。自分がどれだけ美しいかを忘れるなよ。私がどれだけ君を愛してるかを忘れるなよ。毎日スコッチをオンザロックで一杯飲めよ。大きく息を吸えよ。目を開いていろよ。脂っこい食べ物は避けろよ。正しき者の眠りを眠れよ。私がどれだけ君を愛してるかを忘れるなよ」
なんだ、このカトチャンの「歯みがけよ。風呂はいれよ。宿題やれよ。風邪ひくなよ。また来週」みたいな長ゼリフは。この愛情にじみ出る、ジョイスのためだけに紡がれた唯一無二のメッセージは。
これだけの言葉を繰り出せることが他に、いつ誰にあるだろうか。ネイサンは、この時この場面でのジョイスへのメッセージでしか生涯このセリフを吐かないし、人類の歴史を振り返っても、この先の地球の未来においても、この全部を、この順で、この言い回しで誰かに伝える人など誰ひとりとして現れないだろう。今ここでしか現出しない、ぐちゃぐちゃの、ごった煮の、ネイサンがジョイスその人にしか、その人のためにしか吐かない唯一のメッセージだ。
この一節を読んだとき私の脳内には、汎用的で中身からっぽの容れ物を、さもありがたい叡智のように取り扱ってやりとりしている薄っぺらな世の中の一面が対比的にせりだしてきて、このメッセージの固有性に胸を熱くした。今ここでしか通用しない、けれど今ここで何よりも意味をもって温もりをもって伝わってくるネイサンのメッセージ。それはそのまま、オースターが読者に届けるメッセージ、そう受け取った。細部は、中身は、いつだって自分がその都度作ってその人に届けるのだ。
次の引用は、このジョイスとのやりとりとはまったく別場面、主人公ネイサンが娘レイチェルに向けて言葉を尽くした後の述懐だが、ジョイス、レイチェルともに注がれるネイサンの知的でおおらかな温もりが感じられる。
何を言っているのか、自分でもさっぱりわからなかった。言葉が私のなかから狂おしくほとばしり出てきたのだ。ナンセンスと、煮えすぎの感情のとめどない洪水。馬鹿馬鹿しい演説の終わりにたどり着くと、レイチェルが笑みを浮かべているのが見えた。レストランに入ってきて以来初めて見せた笑顔である。たぶん私としても、ここまでやれれば上出来なのだろう。私が彼女の味方であって、彼女という人間を信じていて、おそらく状況は彼女が思うほど暗くはないと納得させること。少なくともその笑顔は、彼女が落着きを取り戻してきたしるしである。べらべら喋りつづけながら、私は徐々に、眼前の話題から彼女の気をそらしていった。私にはわかっていた。最良の薬はテレンスのことをしばらく忘れさせること、何週間も前から取り憑かれてきた問題について考えるのをやめさせることなのだ。このあいだ会って以来私の身に起きた出来事を、一章一章私はレイチェルに物語った。
理路整然と正しいことを明晰な言葉で端的に言えば、それが最も望ましいか、それで伝わるかというと、人のコミュニケーションてそんな薄っぺらなものじゃない。
何かためこんでいる相手には、傾聴するのがいいんですねと、自分の話をせず相手の話を聴いてあげればそれで正解って、人間そんな単純な生き物じゃない。そんなんで傾聴する自分に酔いしれている人間など、傾聴されている側からすれば薄気味悪く見えるだけだ。
相手本人を前にして、SNSごしでもなくスマホカメラごしでもなく、その人の目の前で言葉を尽くして尽くして、重ねて重ねて、どうにかどうにかと、もがいた末に届く思いというのがあって、それが言葉としてはぐちゃぐちゃなんだけど、伝わる、届くということがある。それこそ人間の営みだよなと、そういうことを思った。
私はさいごまで、この人間像で生きていきたいなぁ。大方、何を力んで何か言いたがってるんだと意味不明な文章だろうけれども、そういうことを思った読書の記録。
*ポール・オースター「ブルックリン・フォリーズ」(新潮社)
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