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2022-09-29

「Web系キャリア探訪」第43回、「労働」に留まらぬ仕事観を育てるとき

インタビュアを担当しているWeb担当者Forumの連載「Web系キャリア探訪」第43回が公開されました。今回は多摩美を卒業後、メーカーの制作部や広告制作会社を経て1994年に独立。以来、広告、ロゴ、名刺、カタログからWebサイトまで、まるっと提案してまるっと受注するスタイルでやってこられた戦略デザインコンサルタント、アートディレクターのウジトモコさんを取材しました。

離島と東京の二拠点生活をするデザイナー「キャリアを拓くきっかけは、いつもごく身近なところに」

ずっと東京住まいだったウジさんですが、2年前に九州は壱岐島に移住。現在は「東京の案件が9割」というお仕事を手がけつつ島暮らしも堪能中。お写真の海、空、ウジさんの開放感がすごい。「職業人として」に留まらず、「人間として」自分はいかに生きようかというレイヤーでも刺激的。

インタビュー中も終始、力みのない自然体のお話しぶりが印象的で、これまでのキャリア選択にあたっても、その柔軟な舵取りが心に残りました。1994年の独立から、Webがどんどん役割を広げ技術も発展を遂げ専門高度化していく中で、ご自身がWebとどうつきあっていくかという関わり方を適宜見定めて、Web案件を手がけるフォーメーションも変えていっている。

子育て、お子さんの独立といったライフステージ変化にあわせても、ご自身の仕事&生活スタイルを変えてこられていて、こうした変化を自ら舵きって実現していく行動力に感服。よろしければ、ぜひご一読くださいませ。

ウジさん、取材中に「仕事が好き」っておっしゃっていたんですけど、そう思える環境を自分自身で作り出していくスタンスとか具体的なアクションっていうのもすごく大事で、それを体現している方だなぁって思いました。そこが個人的には、一番刺さったなぁ。

いろんな現実の出来事もコンセプトも、その意味づけって最終的に自分の内に入れるときに多様な解釈を自分で与えられるもの。私は「仕事」って今や「労働」に限らず有意義な活動を含むコンセプトに意味を膨らませていると思っているし、そういう前提で「仕事が好き」を増やす活動をしていけたらなって思っている。もちろんそれも絶対じゃない、多様な解釈の一つとして。以前ここに書いた仕事を「労働」「仕事」「活動」に分けてみるも思いだしました。

2022-09-28

そろそろ下山なるか

ここ数年にわたって、ずいぶんと山籠もりな気分で過ごしてきた。「足るを知る」をスローガンに低空飛行で心身の健康を維持しながらやってきたのだけど、最近になってなんだか少し、足取り軽くして、そろそろ下山なるかという、そんな時季なり気配なりを感じ出している(まだ弱腰)。

このところの秋晴れと、さわやかな秋風のおかげであって、ごく一時的な気分にすぎないかもしれない。コロナ禍がようやく、そろそろ、落ち着きだしてくるのかも?という希望的観測をもってのことかもしれない。いま読んでいる長編小説があまりにすさまじく読んでいるとへとへとになるので、それと比べて自分の生きている空間が軽やかに感じられる作用をもたらしているのかも、とも思う。ふさいだ気持ちで漂っているのに、いいかげん生き物として飽きてきたということもあるかもしれないなぁ。

まぁ複合的な要因を背景にしてってことなのだろうけれども。私としてはぜひこの流れで気分が進むといいなぁと思いつつ、静かに自分の動向を見守っている。無理やり浮上させるには心意気が足らず、自然の成り行きを静観している。

低空飛行ながら心身とも健康を維持してやっていくタフさはわりと鍛えられたので、別のところの筋トレもしてみてはどうかと、そういうふうに自分が流されていくのを見守っている。なにせ人生一度きりにして、あきらかに後半のどこかを歩いているのだし。

そういや、この間友人のところに赤ちゃんが生まれたとき考えたのだけども、その子は自分と46歳差ってことでしょ。それを自分が生まれたときにスライドさせて考えると、1930年生まれの人と私の関係性になるわけで、昭和5年生まれってこと。あぁ今年誕生した子からみて自分というのは、自分からみたら昭和5年生まれに相当する年の離れた人になるわけかーと思ったら、うぇってなった(声にならない声)。時としてドン引きするようなインパクトをもつ計算ってあるよな。この子らは22世紀の世界を目撃するのだろうなぁ。私も、置いてもらえるかぎりの、ここでの時間を大事にしないと。

翌日の追記:これを読んでくださった方とやりとりしていて思い深まったこと。最後の「自分が生まれたときにスライドさせて考えると」アプローチの魅力って、自分の生きた年数の分だけ、自分が生まれるより前の出来事、その時代を生きていた人たちのことを身近に引き寄せられて考え直せること。昭和5年の人たちのことを、子どもの頃よりずっと身近に引き寄せて考えられる自分がいる。縮尺が変わっていくんだな。

2022-09-18

パンチにパンチを返すのはよせ

「サンセット・パーク」に続けて「ブルックリン・フォリーズ」を読んだ。ポール・オースターならでは、知性なくしては成しえない人のおおらかさ、人の温かみが沁みわたった滋養の書。

そうだ、そうだよ、人は、こういう可能性をもった生き物なのだ。「パンチにパンチを返す」世界に、うずもれてしまってはいけない。そんなつまらないところに、自分をとどめておいてはもったいない。

彼女に「あたしどうしたらいい、ネイサン?」と問われた主人公は、まずこう返す。

「何も知らないふりして、放っておけばいい。じゃなけりゃ二人を祝福してやるか。二人の関係を好きになる義務はないけど、選択肢となるとその二つだけじゃないかな」

彼女は「二人を家から叩き出すことだってできるでしょ?」と返す。そこでネイサンは一息にこう返すのだ(イメージは映画「恋愛小説家」のジャック・ニコルソン)。

「うん、まぁできるだろうね。でもそうしたら、君は生涯ずっと、毎日後悔することになると思うね。やめておけよ、ジョイス。パンチにパンチを返すのはよせ。あごをしっかり引けよ。気楽に行けって。選挙は毎回民主党に入れろよ。公園で自転車に乗れよ。私の完璧な、黄金の肉体を夢に見ろよ。ビタミン剤を飲めよ。一日コップ八杯水を飲めよ。メッツを応援しろよ。映画をたっぷり観ろよ。仕事、無理するなよ。私と二人でパリに旅行しよう。レイチェルの子供が生まれたら病院に行って私の孫を抱いてやってくれ。毎食後かならず歯を磨けよ。赤信号の道を渡るなよ。弱い者に味方しろよ。自分の権利を守れよ。自分がどれだけ美しいかを忘れるなよ。私がどれだけ君を愛してるかを忘れるなよ。毎日スコッチをオンザロックで一杯飲めよ。大きく息を吸えよ。目を開いていろよ。脂っこい食べ物は避けろよ。正しき者の眠りを眠れよ。私がどれだけ君を愛してるかを忘れるなよ」

なんだ、このカトチャンの「歯みがけよ。風呂はいれよ。宿題やれよ。風邪ひくなよ。また来週」みたいな長ゼリフは。この愛情にじみ出る、ジョイスのためだけに紡がれた唯一無二のメッセージは。

これだけの言葉を繰り出せることが他に、いつ誰にあるだろうか。ネイサンは、この時この場面でのジョイスへのメッセージでしか生涯このセリフを吐かないし、人類の歴史を振り返っても、この先の地球の未来においても、この全部を、この順で、この言い回しで誰かに伝える人など誰ひとりとして現れないだろう。今ここでしか現出しない、ぐちゃぐちゃの、ごった煮の、ネイサンがジョイスその人にしか、その人のためにしか吐かない唯一のメッセージだ。

この一節を読んだとき私の脳内には、汎用的で中身からっぽの容れ物を、さもありがたい叡智のように取り扱ってやりとりしている薄っぺらな世の中の一面が対比的にせりだしてきて、このメッセージの固有性に胸を熱くした。今ここでしか通用しない、けれど今ここで何よりも意味をもって温もりをもって伝わってくるネイサンのメッセージ。それはそのまま、オースターが読者に届けるメッセージ、そう受け取った。細部は、中身は、いつだって自分がその都度作ってその人に届けるのだ。

次の引用は、このジョイスとのやりとりとはまったく別場面、主人公ネイサンが娘レイチェルに向けて言葉を尽くした後の述懐だが、ジョイス、レイチェルともに注がれるネイサンの知的でおおらかな温もりが感じられる。

何を言っているのか、自分でもさっぱりわからなかった。言葉が私のなかから狂おしくほとばしり出てきたのだ。ナンセンスと、煮えすぎの感情のとめどない洪水。馬鹿馬鹿しい演説の終わりにたどり着くと、レイチェルが笑みを浮かべているのが見えた。レストランに入ってきて以来初めて見せた笑顔である。たぶん私としても、ここまでやれれば上出来なのだろう。私が彼女の味方であって、彼女という人間を信じていて、おそらく状況は彼女が思うほど暗くはないと納得させること。少なくともその笑顔は、彼女が落着きを取り戻してきたしるしである。べらべら喋りつづけながら、私は徐々に、眼前の話題から彼女の気をそらしていった。私にはわかっていた。最良の薬はテレンスのことをしばらく忘れさせること、何週間も前から取り憑かれてきた問題について考えるのをやめさせることなのだ。このあいだ会って以来私の身に起きた出来事を、一章一章私はレイチェルに物語った。

理路整然と正しいことを明晰な言葉で端的に言えば、それが最も望ましいか、それで伝わるかというと、人のコミュニケーションてそんな薄っぺらなものじゃない。

何かためこんでいる相手には、傾聴するのがいいんですねと、自分の話をせず相手の話を聴いてあげればそれで正解って、人間そんな単純な生き物じゃない。そんなんで傾聴する自分に酔いしれている人間など、傾聴されている側からすれば薄気味悪く見えるだけだ。

相手本人を前にして、SNSごしでもなくスマホカメラごしでもなく、その人の目の前で言葉を尽くして尽くして、重ねて重ねて、どうにかどうにかと、もがいた末に届く思いというのがあって、それが言葉としてはぐちゃぐちゃなんだけど、伝わる、届くということがある。それこそ人間の営みだよなと、そういうことを思った。

私はさいごまで、この人間像で生きていきたいなぁ。大方、何を力んで何か言いたがってるんだと意味不明な文章だろうけれども、そういうことを思った読書の記録。

*ポール・オースター「ブルックリン・フォリーズ」(新潮社)

2022-09-06

単純化できないものを単純化する愚行

日々自分の中になだれこんでくる情報が、あきらかに偏狭で暴力的で浅はかでおかしくなっていることを自覚し、処方箋を考えた。文学だ、例えばポール・オースターではないかと思い立った。

積ん読になっていた「サンセット・パーク」を手にとり、読み終えた今は「ブルックリン・フォリーズ」を読んでいる。この後は「インヴィジブル」を読もう。そういえば十数年前に「幽霊たち」やら「ムーン・パレス」やら十冊くらい立て続けに読んだ後、長らく彼の作品を手にしていなかった。

ポール・オースターを読む喜びとは、何なんだろう。読みながらも、そんなことを考えた。「ニューヨークを舞台にした物語がお洒落」とか「ポール・オースター作品を読む私って素敵」論を通り抜けた先に、真正の価値を見出している体感はあるのだが、それを言葉に表すことはままならない。私の中のポール・オースターが「言えないうちは、言葉にするな」と諭す。

それでもポール・オースターの作品は、文学の意味なり価値なりを、読みながら読者に考えさせるようなところがある。それ自体が、彼の作品の魅力なのかもしれない。読者を思索に誘うような風情がある。

物語がハッピーに終わろうと終わらなかろうと、さしたる問題ではない。結末の問題ではなく、プロセスの問題。否、なんなら昔読んだ本など、話の筋も主人公のキャラクターすら私は覚えていない。けれど、読んだときの充実感、作品の面白さ、文学の可能性に感応した経験は、長く余韻を残している。

あーとも、こーとも捉えられる世の中の一つひとつの解釈の幅と深みを、物理的な体感をもって残してくれる。それはずっと、何十年と、私を育みつづける。私が直面する世界の現実に、示唆を与え続けてくれている。だといいなぁ…という期待も、いくらか混じっているような気はするけれど。

なぜ彼の作品を、いま処方箋として私は直観したのか。彼の文章を読んでいると、思い当たるところが次々出てくる。

「サンセット・パーク」では、戦争を生き抜いて老年期を迎えた世代が口をつぐみ、当時のことを黙して語らないのと対比的に、こんな若者像を描写する。

ちょっとでも水を向ければ自分のことを喋りまくり、あらゆる事柄について意見を持ち、朝から晩まで言葉を垂れ流す

「まだ話すことなんかろくにない彼女自身の世代が、えんえん喋るのをやめない男たちを生み出した」ことを、壮大な矛盾として突く。

「ブルックリン・フォリーズ」は、まだ読み始めなのだが、

とにかく陳腐な決まり文句を連発する。現代的叡智という名のゴミ捨て場を埋め尽くしている、言い古されたフレーズやら出来合いの理念やらを年じゅう口にしているのだ

そうして二十九歳の一人娘を痛烈に批判し、気の毒に思う主人公の姿がある。

ただの一度も独創的な言葉を口にしたことがない。これだけは絶対に間違いなく自分自身のものだという思いを、一回たりとも生み出したことがないのだ。

私が最近の、自分の中になだれこんでくる何に拒否反応を示しているのかが、読書中あちこちで浮き彫りにされていく感じがした。

「サンセット・パーク」に戻って、これに遭遇する。

単純化すべきでないことを単純化すること

「言葉にする」ことを急いてしまうと、自分の吐く言葉はいくらでも浅薄になり、それで満足して次にいけてしまう薄っぺらい人間をせっせと構築していってしまう。

大事なことは、そんなに簡単に言葉に表せない、単純化して済ませてしまうなよ、と。これはつまり「外から入ってくる情報」に対してではなく、私は「私自身」に対して痛烈に批判を与えたくて、注意を喚起したくて、何かそういう思いが十数年越しにポール・オースター作品を手にとらせたということか。そんな気がした。

品を失うな、品を手放すな、と。自分が思考すること、言葉にすることしないこと、それをどういう言葉に表すのか、何は言葉で表して何は行動で表すのか。そういう一つひとつのことに対して、自分の意志をもって品を保ちなさい、と。私にとってポール・オースターの本は、そういう戒めの働きをする。

ノウハウやらナレッジやらを扱う仕事がら、「現代的叡智という名のゴミ捨て場」とは背中合わせ、すぐそこにある気がする。そこに堕してしまわないためには常に細心の注意が必要で、そこに不気味さを感じて拒絶できるかどうかは、結局のところ自分の体の反応に頼るほかない気がしている。直観の働きを感知できるかどうか、それに従って行動をとれるかどうか、時に処方箋を求められるかどうか。

言い表せないなら、言い表せるまで待つ。そんな態度は、たぶん今の時代には流行らないのだろうが、流行らない生き方をする自由は各々にある。何を愚とし、何を品とするかも、結局は各々の美意識だ。それぞれに自分の美意識に従うのが、自分の健康を保つ上では賢明なんだろう。なんというか、いろいろと、やれやれなのだが。

ポール・オースター「サンセット・パーク」(新潮社)
ポール・オースター「ブルックリン・フォリーズ」(新潮社)

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