「先々不透明な時代」に覚える恥ずかしさ
「羊は安らかに草を食み」(*1)を読んだ。バッハのそれではなく、宇佐美まことさんの文学作品。満洲で終戦を迎え、一年がかりで満洲から引き揚げてくる11歳の少女の壮絶な体験記を埋め込んだ、今は86歳の認知症を患ったまあさんの人生を辿り、仲良し3人組の老女が旅する小説だ。
残り2〜3割というあたりから急にミステリー小説らしく物語が畳まれていく感があって、なんでやねん、なんでやねん、みたいな展開もあったりなかったりするのだけど。逆にいうと、そこまでに織り込まれる満洲引き揚げの凄惨さがあまりに見事な筆致でえがかれているがために、ミステリーを食ってしまったと言えるのかも。別にミステリーにしなくてよかったのにって思ってしまうくらい自分にとっては、少女が満州から引き揚げてくるまでの「戦後の地獄」が強烈に印象づけられた。
満洲引き揚げのエピソードは、多く事実に基づくという。(*2)
執筆にあたって旧満州からの引き揚げ者の手記に目を通した。集団自決や幼子の置き去りなどのエピソードはほとんどが事実に基づいたもの。
「集団自決や幼子の置き去り」があったと言ってしまえば、あっけにとられるほど短い一言で、起きた出来事を言い表せてしまう。知ってる、わかってる、そうやって正しい事実を記述し、それを引き継いでいっても、それが次の時代に有効に作用するわけではない。
長嶋有さんが、正しさだけではダメだと言っていた一節が脳裏に浮かぶ。(*3)
どんなに正しい言葉でも、正しいだけでは駄目だ。誰かの心に刻みつけるには、あわよくば有効に作用させたければ、言葉そのものに、それをつかみ取るための形が与えられなければならない。
他の人がそれをつかみ取るために、形を与える。それが、もの語りの力だ。「こういうことがありました」という事実の記述と受け渡しだけでは、私たちはそれを心に刻みつけ、うまくつかみ取って活かせないことばかり。
少女期の身のすくむような体験というのは、私もないわけではなく。この小説を読んでいたとき、記憶の底に仕舞い込んでいたそれが、ぐわっと襲いかかるように身体的に思い出されて肝を冷やした。この読者の心底をえぐる採掘力こそ、作家の手腕だろうと恐れ入った。有効に作用させるために、形を与える仕事を成功させたということだ。
この読後、私が読み深めたいのは、満洲開拓団引き揚げの実話ではなかろうかと思い、この小説の参考文献が8冊並ぶ中(うち2冊は認知症関連で、6冊が満洲引き揚げの関連書)、稲毛幸子さんの満洲開拓団一家引き揚げ記(*4)を読み継いだ。これが実話、なのが戦争なのだと途方にくれる。
自分が過去、今を「先々不透明な時代」と一度ならず口にしたことへの恥ずかしさが募った。今が「先々不透明」じゃないとは思わない。けれど、文字どおり「明日をもしれない」日々を生き抜いてきた人たちのことに少しでも意識が向けば、今を切り取って「先々不透明な時代」を生きていると口にする気にはなれない。
ブチャの虐殺があったのは、たかだか5ヶ月前のこと。「先々不透明な世の中」を生きていくことは、いつの時代も人の常で、いつ、どう、地べたが転覆するかわからない。余裕がゼロの環境に陥れば、人はいつだって、獣の性を剥き出しにして生きることを強いられうる。
そう(とりあえず頭でだけでも)理解するとき、明日をもしれない世の中を生き抜いた数十年ほど先輩の体験記と肝っ玉には、学ぶところ多く、叱咤激励される思いで、敬意を抱かざるをえない。「歴史」として遠く客観視するには生々しく、心に刻みつけるもの語りの力は、この上なく。
« タイの鍾乳洞からの救出劇「13人の命」を観て | トップページ | 単純化できないものを単純化する愚行 »
コメント