言葉の檻
町田そのこさんの「宙ごはん」を読んでいるときに、ふと脳裏に浮かんだのは、長嶋有さんの「いろんな気持ちが本当の気持ち」だった。
「宙ごはん」は章を進むごとに主人公が成長していくが、とくに主人公が小さい頃の章は、子ども自身がこんな雄弁に、自分の心境や自分が直面している状況を語れるものだろうかという違和感を覚えながら読んだ。こんなふうに言葉に言い表せないからこそ苦悩するのではないかと。
いや、本を多く読む子などは私よりずっと早熟で、子どもの頃からこれくらいの表現力を持ち合わせて自分の内外を語れるものなのかもしれない。そうとも思いつつ、私のような子ども時代を過ごした者からすると、たじろぐほどの明晰さで小学生が自分の家庭環境など語る描写に面喰ってしまう。
私は子どもの頃(に限らず、今もだけど)自分が受け止めるものに対して自分の言葉が圧倒的に足りなくて、何にも展開されない思念を、たぶんに抱えこんで生きてきた。
読み進めるうち、これは、そのままこの本の魅力かもしれないと思い至る。これほど雄弁に言葉にすることは叶わない、一方で表現はできないものの「これくらいのこと」を人は子どものうちから感じとっている。受け取っているものは、これほどまでに深く複雑なんだけど、それが言葉にまで昇華ならない。そうした苦悩を言葉にして、子どもたちの心の代弁をしている、言葉にすることで解きほぐそうとしている作家の仕事をみることもできる。
そして、これは子どもに限らない。人間て(主語がでかいか)、そういうもんだよなと思うのだった。自分が意識できているもの、言葉にできるものよりも、自分が無意識含めて感じ取っているもののほうが圧倒的に多くて、深く複雑で、多面的なもの。
長嶋有さんが書いていた「いろんな気持ちが本当の気持ち」って、ほんとそうだなって改めて思った。
長く生きて(恋愛だの仕事だの旅だの日常だのに揉まれて)いると「いろんな気持ちが本当の気持ちだ」と、これはつくづく思うようになる。気持ちは多様なのに態度は一種類しか選べなかったりする。マーブル模様のように多様に入り混じる気持ちをすべて一時に表せるなんて、そんな器用な人間はいない。主人公が「苛々した」とだけいっていても「本当は苛々していない」残りの模様がなんとなくみえる。角田さんはそういう書き方をする。読者の心の多様さを、多様さを解する力を信頼しているのだと思う。
これは、長嶋有さんが角田光代さんの「みどりの月」の解説に寄せた文章だ。
「気持ちは多様なのに態度は一種類しか選べなかったりする」、言葉も、表情も、ふるまいも。
これは、人の誤解も生むし、自分に対する誤解も生む。「私は怒っています」と言えば、人は、あぁこの人は怒っているんだと認識するし、自分自身に向けても「自分は怒っている」といったん思ってしまうと、自分は怒っているという一様な認識の檻に自分を閉じ込めてしまうことがある。言葉は、そういう力をもつ。
だけど、いろんな気持ちが本当の気持ち。ほんとに、そうだなって思うんだ。言葉は、言える範囲に人をくくりつけ、言えたことに人をくくりつけてしまう。でも、本当の気持ちは、もっといろんな気持ちを含んでいて、それまた時間経過で変容していくものでもある。ほんとに、そうだなって思うんだよな。人にも、自分にも、そういう目配りと想像力が大事。
そういうことを文学は、時間をかけて教えてくれる。言葉を尽くして教えてくれる。「宙ごはん」も、それを言葉を尽くして教えてくれたんだなぁって思う。
*1:町田そのこ「宙ごはん」 (小学館)
*2:長嶋有さんの「いろんな気持ちが本当の気持ち」(筑摩書房)
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