« クリエイターEXPOでゼロがイチに見える | トップページ | 小説が引きずりだしたポニーテールの記憶 »

2022-07-11

父娘ごきげん旅、会津若松と芦ノ牧温泉へ

父を誘って気晴らし旅行、今回は会津若松で観光、宿は芦ノ牧温泉。と、後から振り返れば、そういうことになるのだけど、これという旅程をしっかり組んでいたわけでもなく、ある程度の下調べはしておいて、「いろいろ選択肢はあるが、あとはまぁその時々で判断」というスタイル。

父娘旅行というのは臨機応変さが大事である。気合いの入れすぎは良くない。良かれと思ってとか言って旅程を作りこみ、旅中の相手の動きを制御しようとかかるのは最悪である。両者疲れる。「一緒に旅する相手がごきげんである」というのは、旅を楽しむには欠かせない要素であり、だから私は私で自分もごきげんな旅をする、という(へ)理屈を大事にしている。

それにしたって、自分も父も楽しい旅としたい。まず父を旅に誘うのは、十日ほど前がちょうどいい。それ以上では間延びしてしまうし、それより短いと、旅の日を待つ楽しみ時間が短すぎる気がする。急に言われても、あちらの都合もあろうし、そもそも礼を欠く。親しき仲にも礼儀ありだ。そんなわけで、十日ほど前に起案し、合意をとりつけ、素早く宿をとる。それまでにざっと粗い旅程、どうやって行くかのシミュレーションなどしておく。あくまでざっくりの見通しを立てておくまでだ。

今回は、新幹線で郡山まで行って、そこから磐越西線で会津若松まで西に横断、そこから只見線~会津鉄道(直通運転)に乗って南にくだって芦ノ牧温泉へ、という鉄道の旅。新幹線チケットは当日に駅で手配する。当日手配で間に合いそうなものは当日手配のほうが、時間にがんじがらめにならなくて良い。今回はお盆をはずして7月だし、土日をはずして金曜出発だし。

車でドライブできたら、いいんだろうになぁとは思い浮かぶけれども、まぁ仕方ない。父は免許を返納したし、私はペーパードライバー。宿の無料送迎バスで、最寄り駅から宿まで運んでもらう道中、青空のもと山道をドライブしている車がずいぶん楽しげに見えて、うらやましかったが、直進以外を操作する自信がない…。

電車の旅というのは、どうにも待ち時間が発生しがちで、郡山でデパートうろうろ、会津若松の駅前スーパーでうろうろ、乗り換え電車の出発まで30分とか1時間とか時間をつぶす必要が出てくる。が、「うちの近所の西友のほうが圧倒的に安い」とか、ぶつぶつ言いながら食品売り場をひやかして歩くのも一興である、ということにしておく。

当初、会津若松は周遊バスを使って移動しようと考えていたが、その時刻表にあわせようとすると、どうにも無理が出てくる。なので、2キロ移動とかはタクシーを活用することにする。タクシーの運転手さんは、いろいろ町のことを教えてくれるし、それはそれで旅の楽しみだ。

一方、当初は猪苗代湖にも足を延ばして遊覧船に乗ろうかと思っていたが、そこに行くのにバスは時間が合わず、これを15キロ20数分かけてタクシーに乗るのは無駄遣いだと父が納得しない。なので猪苗代湖は旅程からはずすことにした。

磐越西線の1,170円も高い高いと言っていて、しかし飯盛山を登るのに動くスロープ250円かかるのはOKと言う。どちらも自分の足で移動するのは大変だし、利用客の人数と移動距離や開発工数を考えれば、磐越西線の1,170円も高いとは言えない気がするのだが、父には父の金勘定の価値観がある。それはそれで受け入れるが好し。認知症が口癖のわりに十円単位までよく覚えているなとからかうと、父がわしゃわしゃ笑う。

自分の価値観とかち合うようであれば話し合いも必要だろうが、おおもと立ち返ると私は、山と川と田園風景に大空で十分、湖なくとも満足だ。そういうときに、当初想定では湖も行く予定だったからという仮置きマイプランに喰われてはいけない。「当初の想定」などあっけらかんと手放してしまえばストレスもかからない。どこを訪ねるか、どうやって巡るか、訪問先も交通手段も「当初の想定」を固持しようとしない開放性が、ごきげん旅にはとにかく肝要である。

歳をとって大変なのは、やはり宿をとるとか、道中の交通手段を固めて切符を手配するとか、ターミナル駅でてきぱき乗り換えて関所を突破していく手続きだ。それをしても旅に出ようという意志決定と行動力が必要になる。そこだけどうにかすれば、旅をすること自体はいくらでも楽しめるものである。観光地では、山頂まで登れるロープウェイや、動くスロープを作ってくれているし、行く先々の人たちは皆、情があって愛嬌がある。だから父が自分の足で歩けるうちは、さくっと旅に連れ出して関所突破をサポートし、山やら海やら川やら楽しみたいところ。

観光地を歩きながら、鶴ヶ城や飯盛山の歴史に思いを馳せたり、森林浴したり、小川のせせらぎに耳を澄ませたり、荘厳な大木を見上げたり。部屋でくつろぎながら、阿賀川の涼やかな渓流、しんとして青々しい山の静けさを眺めたり。部屋でテレビを見ながら、あるいは食事処で、政治やら社会情勢やら、正しさって何かについて語らったり。大浴場や檜風呂に各々出かけて、ゆっくり湯につかったり。電車に揺られながら、ただ静かに一面に広がる田畑、遠くの山々と大空をぼーっと眺めたり。

目の前にある静寂と、世の動乱の極端が並行する親子旅となったけれど、二人して行けて良かった。ごきげんは作れるものであり、みずから率先して作りだすものだ。

Instagramの写真

« クリエイターEXPOでゼロがイチに見える | トップページ | 小説が引きずりだしたポニーテールの記憶 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« クリエイターEXPOでゼロがイチに見える | トップページ | 小説が引きずりだしたポニーテールの記憶 »