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2022-06-08

長いものに巻かれて、小刻みの線を消し消し

なにかと落ち着かない時勢によるものか、仕事のほうもあれやこれやというので、余暇となるとどうも、長いものに巻かれたい感がむくむく。

仕事場では、あれこれ枠組みしたり、し直したり、言葉を与えたり、与え直したりしながら、結局は何かを規定して形づくる働きをすることになる。しかし頭にそればかりさせていると、「ある条件のもとに規定したものは、ある条件のもとでしか成り立たない規定にすぎない」というのに、その枠組みに頭がとらわれすぎてしまう危うさを覚える。だから引いた線を消し消ししてニュートラルに戻すように余暇時間を使い、細かく刻みこまれた世界から距離をおくのかもしれない。

実際のところはよくわからないが、とにかく感覚の言うとおりにして最近は、読むものは自分の倍くらい長く生きている著者のものを好んで手に取り、あるいは宇宙を舞台にしたSF長編小説だとか、短いものでもおとぎ話だとか昔話だとか、かける音楽は18世紀くらいに作られたものを選ぶだとか、長尺のもの、壮大なもの、歴史あるものに行っている。

そんな中で手にした本の一つに、瀬戸内寂聴の「いのち」があった。これまで一度も彼女の本を読んだことがなく、著名なのは知っていたが、人物の前知識をほとんど持たずに読みだして、いやいや、びっくり、びっくりした。

92~95歳にかけて書かれたものだというので、静謐な悟りの境地でも書かれているのかと読み始めたら、めちゃくちゃ娑婆(しゃば)の話だった。「女」全開、男の気分で読んで面食らってしまった。男と女、情念に執念、恋に執筆に大忙し、私は読むのが早すぎたのか、はたまた遅すぎたのか。

この文章、著者が30歳と言われても、いや60歳でもえげつないなぁと思う気がするんだけど、90歳を越して書いているとなると、どうもそこに含蓄を読みとらないといけない気がしてくる、凡人読者(私だ)の心もようも、おかしい。

人の業のようなものは、こうして娑婆の話をむきだしにして書かないと、その片鱗すら表しがたいものなのよ!とでも言われているような。書きたいことは書いたことそのものではない、書きたいことの本質を片鱗でも浮き上がらせるには娑婆の話を書き尽くさないわけにはいかないのだとでも言われているような。作家の覚悟なり性(さが)とはこういうものだということなのか、も、しれないなどと思いつつ読み進める。

しかし、あの、こういう話は黙して語らず墓場まで持っていくのが筋なんじゃないんですかね…という話がてんこもりで、大丈夫かいなと思うことしばしばなのだけど、彼女には彼女の法というものがあり、品格の追究するところがあるということだろう。私には私なりの法があり、品のもち方がある。

墓場に入る直前も直前まで来ると、そして登場人物がもはや存命ではない状況となると、法も品もがらっと様相を変えるものなのかもしれない、そんなことも思った。そう言われれば、ははぁと思うほかない。

あの世から生れ変わっても、私はまた小説家でありたい。それも女の。

彼女はこう記して筆をおいているが、私はもし生まれ変わることがあるとしたら、今度は男に戻って出てくるだろうなぁという気もして、まぁそんなことはないにせよ、性別というものに対してどう向き合ってきたか、どう向き合ってこざるをえない時代を生き抜いてきたかが、全然違うんだろうとは思う。そこら辺が、なんというか、決定的に彼女と違うのかもしれない。

いずれにしても、彼女の登場人物の描写はすさまじいところがあり、人ひとりの心の闇もさして知らない若造が「人間は」「人は」などと知ったような顔で軽々しくもの言うんじゃないと、自分の吐く言葉をはたかれたような後味も残る。いや、そんなこと汲み取ってほしくて書いたわけじゃないんでしょうけれど。まぁ何を読むかは、その時々の読者の自由ということで、肝に銘じます。何度か読むごとに印象を変える本なのかも。寂聴さんの心もようも、率直かつ複雑さを包んでいて好かった。

* 瀬戸内寂聴「いのち」(講談社)

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