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2022-06-30

「Web系キャリア探訪」第41回、表層的なラベル付けに抗い

インタビュアを担当しているWeb担当者Forumの連載「Web系キャリア探訪」第41回が公開されました。今回はロレアルやAmazonなど名だたる外資系企業でデジタルに留まらぬマーケティング業務を手がけた後に独立、現在はさまざまな企業、ブランドのマーケティング変革に邁進する宮野淳子さんを取材しました。

少ない予算で「シェアNo.1を取れ!」上司の無茶ぶりでも楽しむ仕事術から身についたコト

いやぁとにかく、表面的に彼女のキャリアパスをなぞると、まず華々しい経歴が単語、単語で目に入ってきて圧倒されてしまうのですが、「留学から院卒、ヘッドハンティングにあって外資系企業を渡り歩き、のちに独立して現在はコンサルタントとして活躍」みたいな一行でもって読まれないようにしたいという思いが、取材後に強く残る魅力的な方でした。

今回も直接にはお目にかかれずオンライン取材だったのですが、画面ごしにも彼女の、明るく率直でパワフルなオーラは伝わってきて、この私が受け取っている芯あるものをそのまま、この記事を読んでくださる方にもシェアできたらなと思いつつ、「二人の帰り道」の文章をしたためたように振り返ります。森田さんが終わりに書かれている「愚直さ」という言葉にも、まさに、そうだなぁと思い、そういうものをこそシェアできたらなって思っています。

まぁでも、それは私の天邪鬼(あまのじゃく)がじゃましただけかも。最近、何かわかりやすく人目を引くキーワードでもってぱぱっとタグづけされた情報が流通し、消費され、そのまま何にも実を結ばず立ち消えていく感じを(勝手に)覚えることが少なくなくて。

「これは、なんだ?」というせっかくの創発的な問いに対して、一言キャッチーなラベルをぺたりと付けたら、もう答えを出せた気分になってしまって、片がついて一件落着、そのまま思考停止になってしまう感じ。その後には何も残っていなくて、何の変化も起きていなくて、誰にも何も引き継がれていなくて、そこに違和感すら生じていない。

そういう風景に戸惑って、そうやって立ち消えていくものに抗いたくて、その反動がここで出てしまったのかもしれない。私こそ無自覚にそんなことをしでかしていたんじゃないかと自分つっこみ…。

閑話休題。気持ちをほぐして改めて考えれば、女性マーケッターのキャリア、世界を股にかけてバリバリ働きたい人、マーケティング経験をバッググラウンドに事業・経営の中核を担っていきたい人、そういう方たちにももちろん、どまん中でロールモデルとして活かしてもらえる刺激・エッセンスが詰まっていると思います。よろしければ、お時間のあるときに、ぜひ読んでみてくださいませ。

2022-06-26

過剰適応なリベラ理解者

え、なんで元々あった価値観Aを全否定しちゃうわけ?Bに完全移行しようとしちゃうわけ?Bを取り入れてAも残して、どちらをも否定せず、各々が自分で選べる自由、表明できる寛容さを確保するところに、多様性を認める社会っていうのが成り立つんじゃないの?と首をひねる案件に出くわすことがある。

昨日の昼さがり、ラジオを聴いていて心ざわついてしまったのが文化放送「ロンドンブーツ1号2号 田村淳のNewsCLUB」の「今週の気になるニュース」というコーナーでのこと。

このコーナーは、まず砂山アナウンサーが、その週に気になったニュースを7つほど取り上げ、新聞記事などから引いて概要を一気に紹介した後、ゲストと一緒にそのニュースを掘り下げていく流れ。主には政治、経済、社会ネタを取り上げるが、毎回最後の1ネタはくだらないものにして和らげる趣向だ。

今回のくだらなネタは、

デイリースポーツから「松丸亮吾、友人がリア充でショック」。謎解きクリエイターの松丸さんがTwitterで、10年前に「女子と何話したらいいか分からん!」って話してた男子校の同級生たちとオンライン通話してたら、僕以外みんな3年以上付き合ってる彼女がいることが発覚した、と呟きました。

これに対してTwitter上でどんなリアクションがあったか、とかも少し続くんだけれど、それは省略するとして、砂山アナの今週の主なニュース紹介を終えて繰り広げられるトークが、私にはものすごい違和感だった。

この日は、週刊文春ウーマン編集長の井崎彩さんを迎えてのトーク。ざっくり、こんな展開だ。

田村淳さん:(苦笑)井崎さん、松丸くん以外のニュースで、気になるニュースありますか?
井崎彩さん:松丸くんの、気になりますね。うちも大学生の息子がいて男子校出身なんですけど、当然のように彼女いないですよね、今。今こんなリア充の人、また、そこ、彼女がいることがリア充とも思ってない、みたいな
田村さん:そうですよね、そっちのほうがなんか、多そうですよね
井崎さん:そうそう、だから意外とエリートの人たちは、私たちの頃の価値観みたいなのでいるのかなって(笑)
田村さん:彼女がいないといけないみたいなツイートにびっくりだなと思って
井崎さん:うん、そうそうそう。
田村さん:別にいなくたっていいじゃんって思って

田村さん:まだこの価値観が残ってるのだなぁ、そりゃ同性婚もなかなか進まないなぁ
井崎さん:そうそうそうそう、そうですよねぇ

たたみかけるように、このトーク展開。無理やりすぎない?リベラルこじらせすぎてない?と後ずさりした。

いや、むしろ松丸くんに「エリート」というラベルをぺたっと安直に貼って洞察する浅薄さが見え隠れして、そちらのほうがきついと思っちゃったのだが。

しかし、どうもTwitter上ではそんなリアクションしている人はいなさそうだったので、私の受け止め方がどこかで屈折しているのかもしれない。

あるいは「あなたは問題の根深さや闇深さをきちんと認識していないから、そんな脳天気なことを言っていられるのだ!」と言われれば、そうか、そうなのかとたじろぐ程度には自分に疑いの目を向ける意志はある。あるのだが。

いや、でもさ、今のところでいうと、なんか「私たちの頃の価値観は古い」として排除していく感じって、おかしいと思うんだよな。どっちもあっていいでしょっていう両者共存、両者肯定の価値観が普及すべきなのであって、「私たちの頃の価値観を今の若者がもっていること」に対して、なぜそれを古いものとして排除しようとするのかなぁって思っちゃうんだよな。

もっと言えば、「私がアップデートしているのに、なんでお若いあなたがアップデートしていないのかしら?」「あら、エリート層ではまだそちらの古い価値観が根強いのかしら?」みたいな圧を感じちゃうんだよなぁ。なんか、優しくないなぁって。私のほうがひねくれてるのか?

ちなみに放送では流れていなかったが、松丸くん本人のツイートを確認したところ、「〜発覚し、震える体を温めながら僕はそっと通話終了ボタンを押した」と書いてあった。別に、彼女がいない人のこと、選んでそうしている人の価値観も否定していないし、社会的にあるべき価値観をこっちだと示すそぶりもない、ただの(私たちから見たら)若者の個人的つぶやきにすぎない、肯定すべきだと叱られる筋合いはないと思うんだけどなぁ。

もてたいとか、つきあいたいとか、彼女ほしい彼氏ほしいと若者が思ったら、口にしたら、その価値観って古いのか?古いって糾弾されるのが社会として目指すところなのかしら。なんだろう、松丸くんのことをよくは知らないが「あなたのような影響力のある人が」みたいな何かが、ついてまわる人なのだろうか。うーん、実に不可解である。

Aが圧倒的な悪、間違いなら話は別だけど、AもいいけどBも認められていいはずというテーマのことであれば、Aだけでもなく、Bだけでもなく、AもBもコンセプトとして肯定しつつ、現実世界ではAとBの間に無限の個別的見解があることをどう選択肢として受け入れていけるかに知恵をしぼるのが人間の知性であり、創造力の発揮しどころちゃうんかい!と思う一市民であった。

なんかなぁ、そういうのちょいちょいあって一人でつまずいては、うーむうーむと考えこんでしまう。バリバリ働きたいという若者には「あなたは間違った古い価値観におかされています」とでも言うのだろうか。いやぁ、うーむ、うーむ。

* 文化放送「ロンドンブーツ1号2号 田村淳のNewsCLUB」6月25日(こちらのリンク先にとぶと、該当箇所からradikoで1週間聴けます)

2022-06-08

長いものに巻かれて、小刻みの線を消し消し

なにかと落ち着かない時勢によるものか、仕事のほうもあれやこれやというので、余暇となるとどうも、長いものに巻かれたい感がむくむく。

仕事場では、あれこれ枠組みしたり、し直したり、言葉を与えたり、与え直したりしながら、結局は何かを規定して形づくる働きをすることになる。しかし頭にそればかりさせていると、「ある条件のもとに規定したものは、ある条件のもとでしか成り立たない規定にすぎない」というのに、その枠組みに頭がとらわれすぎてしまう危うさを覚える。だから引いた線を消し消ししてニュートラルに戻すように余暇時間を使い、細かく刻みこまれた世界から距離をおくのかもしれない。

実際のところはよくわからないが、とにかく感覚の言うとおりにして最近は、読むものは自分の倍くらい長く生きている著者のものを好んで手に取り、あるいは宇宙を舞台にしたSF長編小説だとか、短いものでもおとぎ話だとか昔話だとか、かける音楽は18世紀くらいに作られたものを選ぶだとか、長尺のもの、壮大なもの、歴史あるものに行っている。

そんな中で手にした本の一つに、瀬戸内寂聴の「いのち」があった。これまで一度も彼女の本を読んだことがなく、著名なのは知っていたが、人物の前知識をほとんど持たずに読みだして、いやいや、びっくり、びっくりした。

92~95歳にかけて書かれたものだというので、静謐な悟りの境地でも書かれているのかと読み始めたら、めちゃくちゃ娑婆(しゃば)の話だった。「女」全開、男の気分で読んで面食らってしまった。男と女、情念に執念、恋に執筆に大忙し、私は読むのが早すぎたのか、はたまた遅すぎたのか。

この文章、著者が30歳と言われても、いや60歳でもえげつないなぁと思う気がするんだけど、90歳を越して書いているとなると、どうもそこに含蓄を読みとらないといけない気がしてくる、凡人読者(私だ)の心もようも、おかしい。

人の業のようなものは、こうして娑婆の話をむきだしにして書かないと、その片鱗すら表しがたいものなのよ!とでも言われているような。書きたいことは書いたことそのものではない、書きたいことの本質を片鱗でも浮き上がらせるには娑婆の話を書き尽くさないわけにはいかないのだとでも言われているような。作家の覚悟なり性(さが)とはこういうものだということなのか、も、しれないなどと思いつつ読み進める。

しかし、あの、こういう話は黙して語らず墓場まで持っていくのが筋なんじゃないんですかね…という話がてんこもりで、大丈夫かいなと思うことしばしばなのだけど、彼女には彼女の法というものがあり、品格の追究するところがあるということだろう。私には私なりの法があり、品のもち方がある。

墓場に入る直前も直前まで来ると、そして登場人物がもはや存命ではない状況となると、法も品もがらっと様相を変えるものなのかもしれない、そんなことも思った。そう言われれば、ははぁと思うほかない。

あの世から生れ変わっても、私はまた小説家でありたい。それも女の。

彼女はこう記して筆をおいているが、私はもし生まれ変わることがあるとしたら、今度は男に戻って出てくるだろうなぁという気もして、まぁそんなことはないにせよ、性別というものに対してどう向き合ってきたか、どう向き合ってこざるをえない時代を生き抜いてきたかが、全然違うんだろうとは思う。そこら辺が、なんというか、決定的に彼女と違うのかもしれない。

いずれにしても、彼女の登場人物の描写はすさまじいところがあり、人ひとりの心の闇もさして知らない若造が「人間は」「人は」などと知ったような顔で軽々しくもの言うんじゃないと、自分の吐く言葉をはたかれたような後味も残る。いや、そんなこと汲み取ってほしくて書いたわけじゃないんでしょうけれど。まぁ何を読むかは、その時々の読者の自由ということで、肝に銘じます。何度か読むごとに印象を変える本なのかも。寂聴さんの心もようも、率直かつ複雑さを包んでいて好かった。

* 瀬戸内寂聴「いのち」(講談社)

2022-06-06

賛否の間に養う作り手の魂

なんか、もやっとしちゃってるんだよな、このニュース。まず4月26日に、

ランドセルの負荷90%減 小学生のアイデア商品が4カ月待ちの大人気 収益で「廃校にゲーム部屋」

という記事がTwitter上をにぎわせて、その記事を読みにいったときに私が思ったことには、賛否両論あった。そう、一人の中にも賛否は両論が展開される、それこそが人間の頭というものだ。

まず賛同意見として、
○小学生が、自分たちが使うものの改良アイデアを出し、それを実際に商品化する機会をもつ
○商品化したものをリリースして、世間の耳目を集め、外からフィードバックを得る体験をもつ
って素晴らしいと思った。

一方で、私はこのアイデア商品と同じ発想で重量負荷を軽減しているキャスター付きバッグで腰を猛烈に痛めたことがあり、医者に行ったところ、キャスター付きバッグは腰を痛めるので使用を止めたほうがいいと指南された経験があったので、

否定的な意見として、
△これは腰を痛めるだろうなぁ
とも思った。

キャスター付きバッグって、ずっとどちらか一方に体をひねって重たいものをひきずるので、すごく腰に負担をかけて姿勢を悪くするのだ。どっちの手で荷物をひきずるかって、どうしても利き手の癖が出ちゃうから、左右バランスよく持ちかえて使うというのも、それこそ子どもだと難しいだろうし。私も以来キャスター付きバッグは使っておらず、これは重たいぞ!と思うものを運ぶときもリュック使いとなった。

他の人のコメントも読んでいくと、批判的なものとしては、次のようなランドセル本来の優位を手放しているとの指摘には、なるほどというところもある。

△両肩に重量負荷を分散できる
△両手があく
△後ろに転んだときに頭を守ってくれる

ただ、やはり、頭ごなしに否定する、批判ではなく非難めいたコメントも多数目に触れることになり、初めての作り手として、これを受け取るのは、きっついことこの上ないだろうとも察した。私だって1週間か1か月か、ぐったりするだろうし、子どもたち作り手の気持ちを案じた。

この記事を読んだときは、そういうあれこれを思って、結局私は、上記の一切をネット上には書かず、ただ、うーむ…と黙り込んでいた。自分的には、さらなる改良を期待して「批判」を含めた発言をしたつもりでも、多くは「非難」とひとまとめにされて受け取られ、「せっかく頑張って作ったというのに、なんでそうやって出鼻をくじくようなことを言うのか!」と思われてしまうリスクが界隈に漂っている。それで終わってしまっては、まったく本意ではない。本意は、なかなか届けるのが難しい。

でも、本当に大事なことって何だろうなって、改めて考えることになった。それは5月30日に、作り手側がまっこうから反撃するリリースを出したからだった。

小学生に大人たちの批判が1000件超【悲しい発売】

ネットの玉石混交・賛否両論の反応を浴びて、一次的に反発の気持ちを覚えるのは当然だと思う。気持ちは十分に察する。でもやっぱり、せっかくの機会をこう落とし込んじゃうのは、何かすごくもったいない気がした。

この2つ目の記事に触れた人たちのSNS上の声も、「全面的にこれに賛同し、作り手を応援する大人たち(批判と非難を分けないで、ネガティブコメントした人たちの一切を否定的にみる向き)」という感じで、そういう対立構造で反発しあっちゃうと先がないなぁって、もやもやしてしまった。

この先ネット社会で「作り手」に立つ以上、大なり小なり否定的なコメントを受け取ることは避けられないだろう。今回のも、耳目を集める発表をできてこそ受け取った反響だ。

否定的なコメントの中には、次に打つべき一手を発想させる「有効な批判」もあれば、中身のない「非難」もある。子どもたちが、この世界で「作り手」として力を発揮していくための魂を養うとすれば、ここでなすべきは、ここでただ感情的に反発したり、全面的に否定的コメントから守ろうとすることじゃないんじゃなかろうか。

気持ちが落ち着くのを十分に待った後でいいから、せっかく集まった1000件のコメントを冷静に見直して、次の4つに分類していく知的活動、知的な武器の取り扱いを学ぶ機会に導くのが大事なんじゃなかろうか。

1.ポジティブ「褒め・プラスα」
2.ポジティブ「賛同、応援」
3.ネガティブ「有効な批判」
4.ネガティブ「中身のない非難」

ネガティブな3、4を一緒くたにして、「なんで頑張ってるのに、そういうネガティブなこと言うわけ!」って跳ねのけちゃうのって、有効な批判をする世間のフィードバックを委縮させちゃう。

社会全体がそういう方向にいっちゃうと、自由闊達に意見言えあえる成熟した社会づくりからどんどん遠のいていってしまうような。それこそ、きれいごと、理想論なのか。もう少し限定的な空間で、そういうことを望むほうが現実的なのかもしれないが、もう少し良い感じで意見交流ができると良いなぁと。

子どもたちには、ゲーム仕立てにして、ステージを構えて、一つひとつクリアしていくようにシナリオ立てて導くとか。開発した商品を一般に広報して売り出す。ここまで来られたら第1ステージクリア。注目してもらえた場合には第2ステージクリア。玉石混交の賛否両論入り混じったフィードバックに一通り目を通し、へんてこなコメントもやり過ごしつつ、心やられずに大漁の収穫があったと受け止められれば第3ステージクリア。だけど「肯定的コメント」に喜んで「否定的コメント」は無視・憤慨するで終わっちゃったら、ここでゲームオーバーやぞ!みたいな。いや、まぁ、ちょっと雑なつくりかもしれないが。

次のステージに進むには、否定的なコメントを丁寧に読んでいって「有効な批判」と「中身のない非難」に分けること。1000件もあったら、自分たちが気づかなかったような視点も見つかるはずで、これは大漁の収穫とも解釈可能なのだ。それを、こうして先に挙げたようなポジ・ネガで4つの箱に分けていこう!とかできると、良い学習ステップにならぬものか。

1、3から次の一手に活かすコメントをピックアップして、その先の改良とか、どう運用(使い方)でカバーするかとかに知恵をしぼれるタフさが育めたら最強だなぁとも思うのだった。「改良班」と「新作班」に分かれて批判コメントをどう活かすか考案できたら、作り手魂養えそうだなぁと。

フィードバックに対して敵対構造を作らないこと、対立軸にもちこまずに有効なものとして内に取り込もうとする構えって大事だと思っていて。あとフィードバックは「人」ではなく「意見」としてみて受け取ること。そういう構えって、頭の面でも心の面でも、けっこう大切かなぁって思うのだけど、言うは易しっていうのはあるんだろうな。ちょっと急ぎ足で書きなぐった感あるけれど、どうも気になっちゃって書き留めておきたかったのだった。

2022-06-01

いってることと思ってることが完全に同じなんて

このところ立て続けに、70歳以上の人が著した本を読んでいる。そうすると「著者とまったく同じ心もちじゃないか」と自身の老いっぷりに若干ひいてしまうところもあれば、著者が老いと関係づけているところ「それって老いと関係なくない?ただの性格では?」と思うところもあり、また「さすがに私はそこまで老いてない」と著者と比べりゃ私などぺーぺー(ぴちぴち)と思うところも出てきたりして、なかなか複雑な刺激を得られる。

高橋源一郎さんの「これは、アレだな」*も、そのうちの一冊。今日TBSラジオの「たまむすび」を聴いていたらブルボン小林さんがタイトル推しの3冊で紹介していて、おぉまさに読んだばかりの本が!と驚いたのだけど、ほんとタイトルも、いい。

「これは、アレだな」という7文字にして、何か「これ」というお題をポンと置いて、それに別のところの「アレ」をもってきて結びつけて何がしか語るコラムというイメージが立ち上がってくる。

この本は、気になった「これ」に似ている「アレ」を森羅万象の中から探し出して提示するコラムで、「サンデー毎日」で連載したものから46回分(2020年秋から1年分)を単行本化したものだそう。

みんなが「こんなことは初めてだ!」とか「こんなの初めて見た!」というなら、あえて、「いや、同じことは、前にもあったんだよ」と呟いてみたくなったのである。つまり、「これは、アレだな」と。

というわけなのだけど、「これ」と「アレ」に各回いろいろ代入できて、それぞれに何を入れて関連づけて語るかに毎回、著者が腕をふるう連載ならではのフォーマットが美しい。

その手前には、こんな問題提起が書いてあった。

人々の意見は、「これか、アレか」に分かれ、「これ」派と「アレ」派の間で、相手を殲滅し尽くすまで終わらぬ激しいバトルの応酬が始まる。(中略)しかし、ほんとうに、この世界は、「これか、アレか」で分けられるものなのだろうか。「これ」と「アレ」の間には、無限のグラデーションがあるのではないか。

そう簡単には、これとアレに分けて甲乙や正誤をつけられるものじゃない。そんな単純なことなら、人の意見はそうそう割れない。

議題にあがるようなことの多くは、たいていAという側面もあれば、Bという側面もある。AとBが対置するとき、どうAとBの極を並存させるか、関係づけるか、社会的にはどう整理をつけるとして、自分ごととしてはどうつきあうか、どう距離をおくか。社会的な成り立たせ方と自分ごとの受け入れ方を、どう整理つけていくか。このイレギュラーケースは、どう対応するのがいいか。そういうことに言葉を尽くして議論していくのが大事なんだろう。

「AかBか」ではなくて、「AもBも」のロジックに頭をひねり、知恵をしぼり、心をくだく。そのときに私たちを支えたり導いたりしてくれるのが、森羅万象、古今東西の教養というもの、そして心の余裕なんだろうな。そう実感させてくれるコラム集だ。

ところで、私がこの本の中で、目を止め、立ち止まって、二度三度と読み直した一節がある。

人間、そんなに単純ではないのだ。いってることと思ってることが完全に同じなんて人間はないのである。

そうなの、だよね。私は相手の「いってることより、思ってること」に焦点をあわせて人に向き合うのを常としているけれど、なかなか心がひりひりすることって多い。人の思っていることなんて結局わからないし、相手も自分でわかっていなかったりするわけだし、答え合わせなんて一生できないんだけど。

でも相手が「自分は、自分が思っていることを言っている」と思ってるんだろうなと伝わってくるのに、受け取る側の自分にはそうじゃないんじゃないかなって思われることは、けっこうあったりするもので。そういう思い込みへの疑惑というのは、そう簡単に相手に問うこともできないし、なんとなくひりひりと感じたまま自分の胸のうちで仮説を転がし続けることになる。

相手がどうこうばかりじゃない。自分だって、そうなんだ。だから、せめてそのことに意識的に、丁寧に、慎重に、自分の言っていることは本当に自分が思っていることなのかと自問自答する。よぅく観て、見抜くように努める。そうすると、誰かに言ったそばから、自分の思っていることが言ったことと違う方向にうごめき出すのを察知することもあったりして。まったく単純じゃない、人も自分も、人間というのは。

*高橋源一郎「これは、アレだな」(毎日新聞出版)

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