100歳まで生きた彼女の死生観の変化
四十半ばともなると、アラフィフの壁をよじ登る試練に直面する。そんなことを思う今日この頃なのだけど、最近読んだ本で、100歳まで生きた日本画家の堀文子さん(2019年没)の言葉に触れ、ほほぅとなった。*
彼女は50歳の頃のことを、こう回想している。
私は五十歳の頃、死の恐ろしさに苦しめられていて、夜寝るのも恐く、翌朝起きて、「ああ、生きてた……」と思うことが二、三年続いたのです。その頃は頭で考えた観念の死を恐れていたのです。
こう振り返る彼女は、当時90歳を迎えた頃で、40年を経た現在の心境を、こう話している。
今は死が七割ぐらい体のなかにいます。もう遠いことではなくなった死に対して恐れを感じなくなり、死と共存していますからとても穏やかになりました。死は今では身内のようにいたわり合える間柄になりました。
ははぁ、なるほど。50歳の頃は「頭で考えた観念の死」をみていて恐れを感じている。それが50を越して年をとっていくうちに「身内のようにいたわり合える間柄」になっていく。100歳まで生きた人の「50歳の頃はこんなことを思っていた。それが、こう変わっていった」という話、先輩、勉強になります!と思った。
関連するところを引くと、彼女はそうした自身の変化に驚いているという。
始まりの生と終わりの死が一つの輪になっていて、永劫に続く命の輪廻がわが身のなかにあり、それを静かに見詰めている自分に驚いている。
九十の齢を迎えた今、逆らうことを忘れ、成り行きのままに生きる安らぎの時が、いつの間にかきたようだ。
そのときは「いつの間にか」くるものだと考えると、まぁそんなに死にうんぬんかんぬんと意識を向けて恐がっていないで、今ある「生の時間と空間」の感動を味わえるだけ味わおうという心もちにもなる。まぁ行きつ戻りつ、揺れるアラフィフ心ではあるけれども。
彼女は、そうして勇ましく、残り50年を生き抜いたのだった。
絵を生業とすることを選んだ私であるが、人間よりも自然現象を記録したいと、花や木、山などを主に描いてきた。絵なのだからその通りに描く必要はないのに、科学者の目のように正確な描写にこだわりながら。
私は絵で自己主張しようという意志もなく、名を揚げようという気もなく、心に響く美しいものを記録しながらここまできた。
「しいんと引き締まった孤独の空間と時間は何よりの糧」として、「生きるものはやがて死に、会うものは別れ」と腹をくくって、「息の絶えるまで感動していたい」「ただ一度の一生を美にひれ伏す」のだと、一所不住の旅を続けた。
なんと彼女、「1987年69歳のときイタリアへ脱出しトスカーナにアトリエを構え」ている。さらには未知の世界を求め、「77歳アマゾン、80歳ペルー、81歳ヒマラヤ山麓へと取材旅行」に出かけている。さらには2001年83歳のとき大病に倒れるも、「生死をさまよいながら奇跡的に回復し、これから何に感動できるかと模索し、菌類や珪藻類(けいそうるい)など顕微鏡で見る微生物の世界に生命の根源的な美しさを見いだす」。
私には、日本画家の美も、科学者の美も、感受できなさそうではある。けれども、どうも私には私なりの、ひれ伏すほどの美の感知器が、ありそうな気がしている。
何を「美」とするか、何に「美」を認めてひれ伏すかは、人によって違う。その美意識に個性が出るのかもしれない。私は私なりの、ひれ伏すほどの美を追っていったらいいのかもしれない。それをこの世界に見出し、描写し、自分の感知する美にひれ伏して生きていったら、それで十分かもしれないなと。
結局は、生涯って美醜の問題なのかも。何を美しいと感じるか、何を醜いと感じるか。どうありたいと思うか、自分はこうありたいと思ったものを、ときにしんどくても、そうできるか、守り切れるか、やりきれるか、受け止め続けられるか。ときにそれは実に内的な踏ん張りであって、対外的には黙り続けるということにもなるのだけど。
*堀文子「堀文子の言葉 ひとりで生きる」(求龍堂)
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