欽ちゃんの順接「性能悪いなら使おう」
子どもの頃に見ていたお笑い番組といえば、ドリフの「8時だョ!全員集合」とか「欽ちゃんのどこまでやるの!(通称「欽どこ」)という世代なのだけど、この間TVerを見ていて、そうだった、そうだったと思い出したのが、昔の演者さんは舞台の上で、カラオケボックスに備えつけてあるような大きなハンドマイクを使っていたということ。
両番組とも公開録画放送で、劇場にお客さんを入れて、舞台上にセットを組んでやっていた。その舞台上、欽ちゃん(萩本欽一)はセットのお茶の間で、こたつとかに入っていてもマイクを手に持ってしゃべっていた気がするし(曖昧)、ドリフターズの面々もコントのとき胸元からマイクを覗かせていた、志村けんさんは上半身はだかで舞台上を駆け回ったりするが、マイクをガムテープで胸元に固定してコントしていた気がする(曖昧)。
どうやら当時の舞台コントは、ハンドマイクをひもでくくりつけて首から下げるのが定番だったらしい。
そんな時分、欽ちゃんはアメリカに渡ってブロードウェイのミュージカルを視察すると、舞台上で、でっかいマイクをつけている人がいないことに驚く。演者の声はスピーカーから聞こえてきているのに、なんで?となった欽ちゃんが質問すると、「あんたんとこの国で作ってる小型のマイクを襟元にしのばせているんだ」って返ってきた。
欽ちゃんは、えーっ!となって、日本に戻って裏方の人に言う。けれど、ピンマイクはドラマ撮影では使えるけど、舞台だとうまく音が拾えないんだって言われる。
ここからの展開がおもしろい。先のTVerの番組で欽ちゃんが話していたんだけど(今でも見られるようなので、よろしければこの後はTVerで)
神回だけ見せます! 「#5 萩本欽一(ブラウンさん)」2001年7月5日 放送 (日テレ)
欽ちゃんは、だったら舞台でもそのマイクを使いましょって、切り返す。「じゃあ、しょうがないですね」じゃなくて、「だったら使おう」って返したのだ。
欽ちゃん曰く、使って音がだめだなぁってなったら、ソニーの技術者が頑張って改良するから。それで実際、舞台で使い出して一年で、ピンマイクの性能は劇的に良くなった。
これを見て私が思ったのは、欽ちゃんが自分のことを「芸人」って捉えていたら、そういう発想にならないよなぁってことだった。
自分のことを「芸人」でも、まったく分野違いの「○○職」でも、誰かが枠組みした既成の職種区分でくくることにとらわれていると、舞台の外のメーカーまで巻き込んで技術進化に打って出るってところまで、発想がなかなか及ばないのではないかなぁと。
芸人って一言で、職種名とかの1ワードで「自分は何者か」なんて大事なことを簡単にくくらないで、自分はいい舞台を作ってみんなを笑わせるんだって「自分の活動」に意識の軸をおいて自分の仕事、活動、あり方を述語的にたぐり続けたほうが、自由に想像も創造もしやすいんじゃないかなと。
当時も、今も、職業を規定する枠組み、言葉、その意味するところなんて、3年5年でどんどん中身が入れ替わって、新たなものが加わったり、大事だって言われていたものが陳腐化したり、簡単だったものが名前そのままに高度化していたり、全然別種のものが台頭してきたりと変化が激しい。そういう中で、単一のキーワードで自分の役どころ、伸ばしどころ、この先の道筋や活動を規定するって、すごく危うく頼りなく感じる。
自分のキャリアを大事にするって軸で考えると、職種という、ある種枯れた技術・技能のコンセプトを束ねた汎用ラベルにしばられるって危ういよ、視野が狭くなって機会損失しちゃう、早晩行き詰まっちゃうよってリスクを覚えることのほうが多い。
もちろん、個人のキャリア選択や専門学習に際しても、組織の人材採用や育成に際しても、学究的な取り組みに際しても、便宜的に使うのに使いどころはいろいろあるし、ものは使いようってだけなんだけど、使いどころを間違えちゃいけないよなぁって。
自分ごとでキャリアを考えるときは、自分がどういうふうに社会に関わりたいとか役立ちたいとか、どういうものを作りたいとか探求したいとか、1つ2つのキーワードをとっかかりにして、述語的に自分の言葉で自分の仕事や社会的役割をかみくだいて、たぐりよせて舵取りしていくのが健康的かなぁなんて思い深めた欽ちゃん体験。ちなみに私が初めて会った芸能人は斉藤清六、欽ちゃんファミリーであった。
最近のコメント