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2022-05-30

欽ちゃんの順接「性能悪いなら使おう」

子どもの頃に見ていたお笑い番組といえば、ドリフの「8時だョ!全員集合」とか「欽ちゃんのどこまでやるの!(通称「欽どこ」)という世代なのだけど、この間TVerを見ていて、そうだった、そうだったと思い出したのが、昔の演者さんは舞台の上で、カラオケボックスに備えつけてあるような大きなハンドマイクを使っていたということ。

両番組とも公開録画放送で、劇場にお客さんを入れて、舞台上にセットを組んでやっていた。その舞台上、欽ちゃん(萩本欽一)はセットのお茶の間で、こたつとかに入っていてもマイクを手に持ってしゃべっていた気がするし(曖昧)、ドリフターズの面々もコントのとき胸元からマイクを覗かせていた、志村けんさんは上半身はだかで舞台上を駆け回ったりするが、マイクをガムテープで胸元に固定してコントしていた気がする(曖昧)。

どうやら当時の舞台コントは、ハンドマイクをひもでくくりつけて首から下げるのが定番だったらしい。

そんな時分、欽ちゃんはアメリカに渡ってブロードウェイのミュージカルを視察すると、舞台上で、でっかいマイクをつけている人がいないことに驚く。演者の声はスピーカーから聞こえてきているのに、なんで?となった欽ちゃんが質問すると、「あんたんとこの国で作ってる小型のマイクを襟元にしのばせているんだ」って返ってきた。

欽ちゃんは、えーっ!となって、日本に戻って裏方の人に言う。けれど、ピンマイクはドラマ撮影では使えるけど、舞台だとうまく音が拾えないんだって言われる。

ここからの展開がおもしろい。先のTVerの番組で欽ちゃんが話していたんだけど(今でも見られるようなので、よろしければこの後はTVerで)

神回だけ見せます! 「#5 萩本欽一(ブラウンさん)」2001年7月5日 放送 (日テレ)

欽ちゃんは、だったら舞台でもそのマイクを使いましょって、切り返す。「じゃあ、しょうがないですね」じゃなくて、「だったら使おう」って返したのだ。

欽ちゃん曰く、使って音がだめだなぁってなったら、ソニーの技術者が頑張って改良するから。それで実際、舞台で使い出して一年で、ピンマイクの性能は劇的に良くなった。

これを見て私が思ったのは、欽ちゃんが自分のことを「芸人」って捉えていたら、そういう発想にならないよなぁってことだった。

自分のことを「芸人」でも、まったく分野違いの「○○職」でも、誰かが枠組みした既成の職種区分でくくることにとらわれていると、舞台の外のメーカーまで巻き込んで技術進化に打って出るってところまで、発想がなかなか及ばないのではないかなぁと。

芸人って一言で、職種名とかの1ワードで「自分は何者か」なんて大事なことを簡単にくくらないで、自分はいい舞台を作ってみんなを笑わせるんだって「自分の活動」に意識の軸をおいて自分の仕事、活動、あり方を述語的にたぐり続けたほうが、自由に想像も創造もしやすいんじゃないかなと。

当時も、今も、職業を規定する枠組み、言葉、その意味するところなんて、3年5年でどんどん中身が入れ替わって、新たなものが加わったり、大事だって言われていたものが陳腐化したり、簡単だったものが名前そのままに高度化していたり、全然別種のものが台頭してきたりと変化が激しい。そういう中で、単一のキーワードで自分の役どころ、伸ばしどころ、この先の道筋や活動を規定するって、すごく危うく頼りなく感じる。

自分のキャリアを大事にするって軸で考えると、職種という、ある種枯れた技術・技能のコンセプトを束ねた汎用ラベルにしばられるって危ういよ、視野が狭くなって機会損失しちゃう、早晩行き詰まっちゃうよってリスクを覚えることのほうが多い。

もちろん、個人のキャリア選択や専門学習に際しても、組織の人材採用や育成に際しても、学究的な取り組みに際しても、便宜的に使うのに使いどころはいろいろあるし、ものは使いようってだけなんだけど、使いどころを間違えちゃいけないよなぁって。

自分ごとでキャリアを考えるときは、自分がどういうふうに社会に関わりたいとか役立ちたいとか、どういうものを作りたいとか探求したいとか、1つ2つのキーワードをとっかかりにして、述語的に自分の言葉で自分の仕事や社会的役割をかみくだいて、たぐりよせて舵取りしていくのが健康的かなぁなんて思い深めた欽ちゃん体験。ちなみに私が初めて会った芸能人は斉藤清六、欽ちゃんファミリーであった。

2022-05-27

100歳まで生きた彼女の死生観の変化

四十半ばともなると、アラフィフの壁をよじ登る試練に直面する。そんなことを思う今日この頃なのだけど、最近読んだ本で、100歳まで生きた日本画家の堀文子さん(2019年没)の言葉に触れ、ほほぅとなった。*

彼女は50歳の頃のことを、こう回想している。

私は五十歳の頃、死の恐ろしさに苦しめられていて、夜寝るのも恐く、翌朝起きて、「ああ、生きてた……」と思うことが二、三年続いたのです。その頃は頭で考えた観念の死を恐れていたのです。

こう振り返る彼女は、当時90歳を迎えた頃で、40年を経た現在の心境を、こう話している。

今は死が七割ぐらい体のなかにいます。もう遠いことではなくなった死に対して恐れを感じなくなり、死と共存していますからとても穏やかになりました。死は今では身内のようにいたわり合える間柄になりました。

ははぁ、なるほど。50歳の頃は「頭で考えた観念の死」をみていて恐れを感じている。それが50を越して年をとっていくうちに「身内のようにいたわり合える間柄」になっていく。100歳まで生きた人の「50歳の頃はこんなことを思っていた。それが、こう変わっていった」という話、先輩、勉強になります!と思った。

関連するところを引くと、彼女はそうした自身の変化に驚いているという。

始まりの生と終わりの死が一つの輪になっていて、永劫に続く命の輪廻がわが身のなかにあり、それを静かに見詰めている自分に驚いている。

九十の齢を迎えた今、逆らうことを忘れ、成り行きのままに生きる安らぎの時が、いつの間にかきたようだ。

そのときは「いつの間にか」くるものだと考えると、まぁそんなに死にうんぬんかんぬんと意識を向けて恐がっていないで、今ある「生の時間と空間」の感動を味わえるだけ味わおうという心もちにもなる。まぁ行きつ戻りつ、揺れるアラフィフ心ではあるけれども。

彼女は、そうして勇ましく、残り50年を生き抜いたのだった。

絵を生業とすることを選んだ私であるが、人間よりも自然現象を記録したいと、花や木、山などを主に描いてきた。絵なのだからその通りに描く必要はないのに、科学者の目のように正確な描写にこだわりながら。

私は絵で自己主張しようという意志もなく、名を揚げようという気もなく、心に響く美しいものを記録しながらここまできた。

「しいんと引き締まった孤独の空間と時間は何よりの糧」として、「生きるものはやがて死に、会うものは別れ」と腹をくくって、「息の絶えるまで感動していたい」「ただ一度の一生を美にひれ伏す」のだと、一所不住の旅を続けた。

なんと彼女、「1987年69歳のときイタリアへ脱出しトスカーナにアトリエを構え」ている。さらには未知の世界を求め、「77歳アマゾン、80歳ペルー、81歳ヒマラヤ山麓へと取材旅行」に出かけている。さらには2001年83歳のとき大病に倒れるも、「生死をさまよいながら奇跡的に回復し、これから何に感動できるかと模索し、菌類や珪藻類(けいそうるい)など顕微鏡で見る微生物の世界に生命の根源的な美しさを見いだす」。

私には、日本画家の美も、科学者の美も、感受できなさそうではある。けれども、どうも私には私なりの、ひれ伏すほどの美の感知器が、ありそうな気がしている。

何を「美」とするか、何に「美」を認めてひれ伏すかは、人によって違う。その美意識に個性が出るのかもしれない。私は私なりの、ひれ伏すほどの美を追っていったらいいのかもしれない。それをこの世界に見出し、描写し、自分の感知する美にひれ伏して生きていったら、それで十分かもしれないなと。

結局は、生涯って美醜の問題なのかも。何を美しいと感じるか、何を醜いと感じるか。どうありたいと思うか、自分はこうありたいと思ったものを、ときにしんどくても、そうできるか、守り切れるか、やりきれるか、受け止め続けられるか。ときにそれは実に内的な踏ん張りであって、対外的には黙り続けるということにもなるのだけど。

*堀文子「堀文子の言葉 ひとりで生きる」(求龍堂)

2022-05-26

「Web系キャリア探訪」第40回、プロティアン・キャリアの真っ芯

インタビュアを担当しているWeb担当者Forumの連載「Web系キャリア探訪」第40回が公開されました。今回はディレクター、プロデューサー、営業、IA、UXデザイナー、データアナリストと、市場の成熟に呼応して自身の職種を七変化してこられた野口竜司さんを取材しました。

「日本でトップ5になれることをやる」今はAI専門家になった男の“変幻自在なキャリア”

現在は「AIの社会実装」をキャリアの軸にすえて活動中。ZOZOのAI推進など手がけた後、2022年4月からはELYZA(イライザ)という東京大学の松尾研究室出身メンバーが立ち上げたAIスタートアップに取締役CMOとして参画。

就業形態とか職種・職階といった肩書きは二の次で、自分が実現したいコンセプトを打ち立てて、何は誰と組んでどうやって実現するか、そうした構想に基づいて自分のキャリアをもプランニングし、自ら働きかけて人間関係を築いては職務環境を作り出し、自分の役どころを柔軟にマネジメントしているようにお見受けしました。

こういうキャリアの歩み方をされている方には、良い刺激になったり参考になる部分もあるかなと。また、そんなふうにキャリアを歩みたいという方には、テーマはAIならずとも手本になるエッセンスもいろいろあるかもしれません。

あと、自分が主戦場として学習・仕事してきた経験一つひとつを「断片」として、学習教材やカリキュラムとして編集し、これから学ぶ人に渡していくというサイクルを回し続けているIA的立ち回りも根づいていて、これまたすごいなぁと脱帽。ぜひお時間よろしいときに、ご一読いただければ幸いです。

2022-05-25

人間のいいところは

これの面白さは、なんなんだろうなぁ、いわく言い難い。でも小説とは、そういうものだもんな。面白さを端的に言葉で表現できたら小説なんていらない。って、もっともらしいような、ただの逃げのような。とにかく論評が下手な私にはなんとも表しがたいが、長嶋有さんの「パラレル」は小説ならではの面白さを堪能できる小説であった。

男くさい、人間くさいっていうのかな。人間て、聖人君子とか、トップオブトップの天才を掲げて、「これが人類共通の目標である、皆こうあるべし!」と生きるより、この小説の登場人物くらいのあんばいの人間像でもって皆それぞれに生きて暮らして、たがいに押したり引いたり、認めたりけなしたり、助けたり放っといたりしながら暮らしていくほうが自然なんじゃないかな。生理的にか生物的にか、無理がなくて身の丈にあって、随所におかしみを感じながら楽しく、いらぬところに過剰なストレスを抱え込まずに生きていけるんじゃないかな。

みたいな絶妙を突いて、登場人物らを丁寧に淡々と描写しているというか。私は丁寧に人の心もようをえがいた文章が好きなのかなぁ。

河合隼雄さんの「おはなしの知恵」に、

人間のいいところは、好みを共有しなくとも仲良くできることである。

ってあるんだけど、いい文だなぁって思って。これってすごく大事なことだし、大事にしたい性質だなって思うんだよな。人間のいいところだよなって。

ここだけは、この人とだけは合わせたいってところは頑張って合わせたらいいけれど、合わせなくていいところは合わせることに必死にならなくていいし、全員と合わせることにも必死にならなくていいし。

たいていのことは「みんな違って、みんないい」でも、けっこうまわっていくものだし。うまく受け流したり、距離をとったら済むものだったり。面白がれる余裕があるなら違いを面白がったり、真剣に味わったり、自分に取り入れたり応用したり。おたがいの違いを活かして役割分担してもいいし。それぞれを、それぞれに。

同じ言葉を使っていても違うものを見ていたりするし、全然違うところにいて全然違う言葉を使っていても同じものをみているように感じられるってこともあって、人間って生き物は不思議だな、本当に。

このての本を読むと、きまって晩に、おかしな夢を見るんだよな。いろんな心もようの記述が、自分の内奥の何かに通じているんだろうな。心のなかの無意識を操作するエッセンスなり仕掛けなりが、入っているのだろうか、不思議だ。論評が得意な人に雄弁に語ってもらえたら、きっとそれまた面白いだろうなぁ、なんなんだろうな、この本は、どうやって作っているんだろう。

これ、あらすじでも論評でも感想でもなく、本については何もわからない文章に仕上がった、いや仕上がっていない。仕上がっていなくても載せていい、それがココログのふところだ。

*長嶋有「パラレル」(文藝春秋)
*河合隼雄「おはなしの知恵」(朝日新聞出版)

2022-05-13

「良いものを真似してみる」という学習の基本

人が作ったものをそっくりそのまま真似して、作ったものをネットに公開した行為が問題視されることがある。それは確かに著作権侵害であって違法だ。ただ、そのときに勢い「その行為の一部始終」を分別なく全否定するSNS上の発言も見られる。

「持論だけど、人のものを真似するより、一から自分でオリジナルのものを作る経験を数こなしたほうが力がつく」とか言われると、そう、かも?と思うかもしれない。

けれど、ここには一つ落とし穴がある。それを続けているかぎり、自分が思い描けるかぎりのゴールしか目指せないし到達できない。その人が初心者の場合、設定できるゴール自体が低く偏狭になりがちだ。熟練者が到達するレベルとはどんなものか、それを具体的に思い描いて設定することがまず難しい。

「良いものはたくさん観ればいい、真似なくていい」と思うかもしれないが、観るのと真似るのとでは取り込めるものに雲泥の差がある。冷静に考えて、「良いものを真似してみる」という行為そのものは尊いことだ。そうやって人は人から学んできた。

人のものを真似しちゃダメなんだというところまでまるっとひっくるめて冒頭の行為を否定してしまうと、良いものに真似ぶ行為いっさいに手を出せなくなる。すると初心者が、初手からいきなりオリジナリティあるものを作り出すお題を抱え込む。それでは一歩も踏み出せずにおじけづいてしまう人も出てくる。そんなの、むちゃな話だし、それを求める人も自分がさんざん先人のやり方を真似して生きてきたことに対して無自覚すぎるのではないかとも思う。

良くできているなぁと思うものを真似すること自体、腕を磨くトレーニング法として否定される筋合いはない。手を動かして真似てみないと気づけない職人の技というのが、良い作品にはたくさん詰まっている。

何の道具を使って、どこの線をどう表現したら、この絵が再現できるのか。どうしたら、この色が出るのか。ここに壁の傷を描いたのはどうしてなのか。光のあたり方は、なぜこうなっているんだろう。ここに陰影をつけることで、何を印象づけたかったのか。なぜ被写体をこういう表情・姿勢にしたのか。この構図を決めるには、最初にどういう思案があったのだろう。美術館を訪れる人が一枚の絵にかける時間は平均17秒だそうだが(*1)、そうやって観るだけでは気づけないものが模写する体験の中にはたくさんある。

文章だって、ポール・オースターが「幽霊たち」(*2)の中で

書物はそれが書かれたときと同じ慎重さと冷静さとをもって読まれなければならない

と書いているのを読んだときは、んな無茶な…と思ったが、実際に部分的でも自分の心に刺さったところの文章を書き写してみると、なぜこの言葉を選んだのか、なぜこういう比喩表現を作り出せたのか、これを伝えるためにもってきたエピソードがこれとは見事だなと、文章を書く行為を追体験したからこその感嘆ポイントに遭遇することがある。

もちろん、真似する中で何をどこまで発見するか、何を受け止めるかは人によって千差万別。表層的な再現に留まる人もあれば、なぜ作者はここでこういう作り方を選んだのだろうといくらでも掘り下げて再現性あるスキルとして自分に取り込む人もある。「きっとこういう意図があったんじゃないか」とか「自分も、こういうときには、こういうアプローチをとってみよう」とか仮説立てて考えている時点で、それは作者の模倣行為から離れて、自分独自の学びの世界に足を踏み出しているとも言える。

教科書、参考書、入門書で学ぶところのさまざまな分野の「一般的な型」も、これと同じように思う。まずは型通りやってみる、型を覚える、型通りできるようになるという足場づくりは、たいそう意義深い学習ステップだ。

佐渡島庸平さんが著書(*3)の中で、型とオリジナリティの関係をこのように書いているのが刺さった。

こうして型を更新したときに現れたものこそが、「オリジナリティ」だ。逆に、型のないまま、自己流だけでたどり着くのは、大抵、もうすでにある型の劣化版だったりする。

オリジナリティとは、型がないのではない。型と型を組み合わせるときに生まれる。いかに遠い型と型を組み合わせるかが革新を生み出す。だから、「革新は、辺境から生まれる」と言われるのだ。オリジナリティがあるものをつくるためには、型を携えて、辺境へ行く必要がある。

型によって「伝わる」が担保される。その型の中に、書く人の「記憶」が詰め込まれる。その記憶の部分に個性が宿る。

オリジナリティにこだわって、真似ることを嫌う人が、型を使わずに自由に語ろうとする。すると、とにかく、伝わらない。そうではなくて、自分が語りたい記憶・体験を物語の型に入れて話すから伝わるのだ。

オリジナリティって、そんなに気張らず、ゆっくり着実に育てていったらいいんだ、いけるものなんだ。そういう考え方は、平凡な自分を大いに励ましてくれた。

*1:エイミー・E・ハーマン「観察力を磨く名画読解」(早川書房)
*2:ポール・オースター「幽霊たち」(新潮社)
*3:佐渡島庸平「観察力の鍛え方 一流のクリエイターは世界をどう見ているのか」(SBクリエイティブ)

2022-05-12

わーっと立ち上がってくるときは境界線なんて踏み倒している

4月にちょっとしたテスト問題を作ったのだけど、やっぱりテスト作り、楽しいなぁって思った。回答者の心理をあれこれ推し量りながら、うまいこと誤答しやすい選択肢を作りこみ、簡潔に要点がつかめる解説文を推敲し、原点に立ち返って目的に適っているかの確認、こういうのは実に創造的で職人的なおもしろさを覚える仕事だ。

テストというのは、学校でやるテストじゃなくて、会社でやるテスト。部門のメンバーが業務に使う専門分野の理解度を腕試しするミニテスト。

テスト作り単体でいうと、実質かけた時間は半日程度。ひとり工房にこもって(自宅だが)黙々と作ったようなものなのだけど、この地味な創意工夫の時間が、実に豊かなひとときだった。

その夕方、できたてほやほやのプロトタイプ的なのを関係者にやってみてもらったら反応が良く、結果も意図した通りにはまって、求めていた効果が発揮されることも確認でき、よしよしとプチ達成感を得た。

今回作ったテストは「事前テスト」という位置づけで、次ステップの「勉強会」に呼び込むための踏み台。ミニテストを受けてもらうことで、内心「やばっ、できてない」と思ってもらって、「お、ちょうどいいところに、自分で情報かき集めなくても、教えてくれる勉強会やってくれるんだ、じゃあ効率いいし参加しよっかなぁ」と思ってもらえたら、という設え。

だから、全問正解できる簡単な問題では、その役目を果たせない。とはいえ、知らなくても支障なさそうな問題で打ち負かしても意味がないし、くだらないひっかけ問題で減点したって回答者(=能力開発を支援したいメンバー)との信頼関係を結び損ねるだけ。間違っちゃうんだけど、これは知っておかないとなぁと思えるところに心情を着地する問題かが問われる。

見た感じはあくまでライトに、気軽に受けてもらえるよう5問のみ、すべて択一式、さくっとブラウザ上で答えられるGoogleフォームで用意。

しかし実際に解いてみると満点がとれない。回答後そのまま自分で答え合わせができるようになっていて、短い解説もついている。人の目を気にすることもないので、そのままの流れで採点と解説を読む。すると、へぇ、知らなかったー、でも、これは知っておかないとまずいなぁという気になる。そこに来て、さくっと教えてくれる勉強会が開かれるという。ならば参加しようということになる。

この間コンテンポラリーダンスのパフォーマンスや振り付け、演出など手がける方とおしゃべりする機会があって、それって構想のとっかかりは、「客席」から見た構図の視点から発想が広がっていくのか、「自分」の内側から感受したものに身体的な動きをつけていくところから発想が広がっていくのか、最初どういうふうにイメージが出てくるものなのか?という素人質問をしたら、両方とも同時にイメージが立ち上がってくるという回答があって、うわーすごいなぁと思ったんだけど、翻ってみるとテスト作りのときは私もそうかもって思った(一気に話を戻す…)。

何のためには何が必要かという全体の設えや、受ける人の感情の動きのようなもの、そのためにはどういう作りこみが必要かは、私も同時に立ち上がってくる。小さすぎるか、地味すぎるか、コンテンポラリーダンスと重ねていい話じゃない気もするが、そこは穏便に。

こう立ち上がってきたものを、まずは粗い全体構想としてスケッチして、各要素に分けていって、イベントを時系列に並べたり、それぞれの要件を書き出して、その要件を満たすためには、事前にこういう下ごしらえも必要だなとステップを追加したりして、行ったり来たりしながら体系を詰めていく。

どこまでを実務的に担当できるかは、確かにそのときの自身の立場・役割・環境が関わってくる。だけど、どこまで自分が関われるかに関わらず、全体構想が立ち上がってくるときに、自分の脳内で職域とか職階とか私の担当範囲はここまでとかいう境界線は踏み倒して考えたほうが自然なんじゃないか、そこは止めないほうがいいんじゃないかと思う。

社外クライアントの社員研修プログラムを作っていた頃は、研修単体の予算しか割けないことも多く、勝手にテストを作って取り入れるわけにもいかなかった。何のために、どこをゴールに、誰向けにという分析を手際よくやって、それを足場にして筋の通った研修カリキュラムをいかに短時間で済むよう組み上げて提供できるかという知恵しぼりが求められる。

それでも時にはじっくり関わらせてもらえる案件も巡ってきて、研修前後にテストを組み込んだり、評価のフィードバック、OJTプログラムを組んだり。そこで、こういう(研修単体にとどまらぬ)包括的な組織の人材育成、パフォーマンス向上の施策に、戦略から戦術まで関わることの意義と面白さを覚えた。

これが自社内の事業推進的な役どころに身を移した今、私が動く分には原価が発生するわけでもないし、私が工房にこもって、ここでは勉強会を開く前にテストを組み込むと良さそうだなと勝手に発想して勝手にプロトタイプを作って勝手に提案しても、良ければ「おぉ、いいね、ぜひやろう」っていうぐあいに事を進められる自由を得た。

ここの創意工夫をインストラクショナルデザインの専門性として認めてくれる職場環境ではないけれど、事業推進に貢献することならわりと職域だのセクションだの職階だのの境界線は踏み倒していける往来自在な環境は、野生児には都合がよく好ましい。

繰り返しになるけれど、確かに今の役割・環境だと、職種や職階で自分の立ち回りに制限が加わることは現実的にあるだろうけれど、それっていつ崩れるかわからない不確かなものだ。自分の中に全体構想がうわーっと立ち上がってくるときには、既成の枠組みなんてなぎ倒して、境界線なんて踏み倒してもの考えるのが自然と思う。それはそれで大事にした上で、各工程、各パーツの中身を冷静に詰めていったり洗練させていく部分は、ときには分業して自身の担当範囲を預かり詳細に作りこんでいく。両方そなえて、行ったり来たりの往来は、へんに意固地にならず、自由にしておいたほうが健康的なんじゃないかなと思ったりした。

2022-05-01

妹が見てきた「この世界」の物語り

このゴールデンウィークは、コロナ禍ずっと帰省を控えていた妹が、久しぶりに千葉の実家に帰ってくるというので、私も日を合わせて帰省した。

その日は雨天で風も強く、飛行機が飛ぶか、飛んでも途中で引き返すかもしれないという空模様だったけれど、いくらか遅れる程度で済み、夕方のうちに成田空港に着いた。

私は地元のほうの駅近くで、その報をLINEで受け、そのまま妹を待つことにした。実家に帰って父と一緒に待ってもよかったのだけど、父はすでに晩酌を始めており、これから家を出てくる様子でもない。家にごはんを用意しているわけでもないから、二人で外で食べてきたら?と父も言っている。ならばと駅近くのお店を探して、どこかで妹と二人で晩ごはんを食べてから一緒に実家に帰ろうと企てた。

というのも今回、妹が数年ぶりに帰ってくると聞いて、なんとなくぼんやり、妹から見た、この世界の話、彼女の歩んできた道とはどんなものだったのかを、ゆっくり聴いてみたいなと思いついたからだ。

近いようで遠い、というか、よく考えてみれば小学高学年くらいからは友だちと遊ぶ時間のほうが圧倒的に長くなって、4つ離れた妹とは、そんなに時間をともにしなくなった。大人になってからでいえば、さほどじっくり話しこんだ思い出もない。

会えばたわいのない話を普通に交わす仲だが、とくべつ仲良し姉妹というのでもないし、おたがい独立した人生を歩んできた。母が亡くなるときの壮絶をなんとか乗り越えた共通体験には思い重なるところもあるだろうけれど、それだってやっぱり、かなり各々に母との思い出も違えば、乗り越え方も独自だった。

ここにきてなんとなく、私とさして同じところがないように見える妹から見た、この世界とか、この時代とか、自分の人生をどうやってきたのかとか、彼女はどんな物語を生きているのかといった話を、率直に聴いてみたいと思ったのだった。

これが実に、とっても豊かなおしゃべりとなった。地元の商店街に「こんなところに、こんなオサレなお店が?!」と妹もびっくりな(失礼…)ビストロを見つけたので、そこに妹を呼んで、あれこれつまみながらお酒を酌み交わし、気がつけば3時間ほど話しこんでいた。

まず彼女が笑顔で店に現れて健康な姿を見せてくれたとき、姉というより半分母ごころで喜ぶ自分があって、なんだか不思議な気分になった。それに妹が瓶ビールをついで、ぷはっと飲んでいるのを真正面から眺めるのも、なかなか乙なものであった。

さらに、妹が見てきた世界、妹自身のこと、子どもの頃のことや、大人になる過程で自分のことをどんなふうに捉えて、どんなふうに生きてきたのか、今の仕事のこと、健康のこと、いろーんな話をたくさん聴いた。

いろいろ聴いてみると、案外私のほうが図太いのかもなぁと思えてきたり、まったく違う性格だと思っていたけれど案外こういうところは同じなんだなぁと思えるところが見つかったり。私がもっていたぼんやりした妹の像が、いろんな方角に広がったり、塗り替えられたり、豊かに彩られたりした。

父は、さすがに3時間も話しこんで帰ってくるとは思っておらず、21時過ぎに帰って実家の玄関を開けると、眠たそうな目をしてソファに座って出迎えた。30分かせいぜい1時間、なんかつまんで帰ってくると思っていた。こんなに遅くなるなんて、二人で喧嘩してるのかと思ったと言っていたが、ちょっとすねていたのかもしれない。

翌日は、朝から三人でお出かけだ。この日は終日お天気が良くて、陽は暖かく、風はひやっとさわやか。妹にレンタカーを借りてもらって、彼女の運転で東京までドライブ。京葉道路にのって江戸川を越えていくと、真っ青に広がる空のもと、右手にスカイツリー、左手に雪をかぶった富士山が見える絶景。

首都高を下りると、大手町のビル群を抜け、日比谷から皇居にかけて、まっすぐにのびる大通りを走る。いくらかぐるぐるして辿り着いたのは帝国ホテル。ランチなら入れてもらえるでしょうと、17階にあるビュッフェ形式のレストランを予約しておいた。テーブルを囲むと、三人でたくさんおしゃべり、自然と子どもの頃の思い出話もたくさん話題にあがった。

小学生のとき、私たち一家は夏休みに伊豆大島に行った。そこでみんなでサイクリングしたとき、私は頭にポトっと何か落ちたのを感じて、自転車を止め「なんか頭に落ちた、なんか乗ってる!」と興奮して、頭を前に突き出した。すると母が私の頭の上を確認して「毛虫がいる」と言った。私はもちろん「きゃーっ」っとなって「誰か取って、早く取って!」と涙目。それを意を決してはらおうとしてくれたのは、そのときお母さんだけだったと述懐。すると妹が「そのとき、お父さん何やってたの?」と突っ込む。父は「そんなことあったっけ、笑って見てたかな、うひゃひゃひゃ」と笑う。

私は伊豆大島と言えば、まず「毛虫ぽたり事件」が思い出されるのだけど、もちろん他の面々はそんなこと覚えちゃいない。同じ場所で同じ出来事を体験していても、そのときの体験をどう感覚して、どう解釈して、どんな思い出として記憶しているのか、何を背負って、何を刻んで、何を抱え込んでその後の人生を生きてきたかは人それぞれ全然違う。同じ境遇なり体験なりを持っているからこそ、そのギャップがすごくおもしろい。

数十年前のことなんて、大方忘れている中で、相手は何をどう憶えているか。その話を聴くことで、自分の中では眠らせていた出来事が数十年ぶりによみがえってきたり、記憶が塗り替えられたり、アップデートしたりもして。年を経てから、思い出にひもづく心の交換こをするのって、新しい発見があるなって思う。

そんなこんなで、あれこれ食べて少し落ち着いたところで、妹がローストビーフをもぐもぐ食べながら「お父さん、もうお腹いっぱいなの?早くない?」と尋ねる。すると父が「お腹いっぱいっていうか、娘二人に囲まれて食事して胸がいっぱいになっちゃった」と口にした。あぁ、この時間を一緒に過ごせて良かったと思った。

そのうち、お店の人がイチゴのショートケーキにロウソクを立てて持ってきてくれた。妹の誕生日が近かったので、予約時に伝えておいたのだ。店のデジカメで写真も撮ってくれて、すぐにカラー出力してカードに入れてプレゼントしてくれた。妹もすごく喜んでいて、ほんと良かったなぁと思った。

せっかくなので母にもインペリアル気分を!ということで、帝国ホテルの地下に入っている日比谷花壇で、その後に行くお墓参りのお花を買うことにした。真っ白とピンクのカーネーションに、黄色いアルストロメリアというユリの花を合わせた。

帝国ホテルを出た後は、少し皇居外苑の北の丸公園を歩いて森林浴。私は昔から大木を見るとテンションが上がる(Instagram写真)のだけど、そこらじゅう樹齢いくらだろうという先輩たちに囲まれて、青い空に新緑がまぶしく映えて、人の混雑もなくて、家族でのんびり散策できて、たいそう元気をもらって帰ってきた。今回はまた独特の、家族の時間を過ごせたな。

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