怒りに優しく、大切にしたいものを観る
怒りについて、話を聴いていた。こんなことがあって、どうにも怒りがおさまらなくて、その感情を落ち着かせるのにけっこう時間がかかって、何日も消えなくて、そのうちいつまでもこだわり続けている自分に嫌気が差してきて。
私はその話を、その心をさするように聴いた。聴いているとき、人が「怒り」を感じているときに注意を向けている対象とは何かという佐渡島庸平さんの著書(*1)の中の一節が、頭に浮かんだ。予防医学研究者の石川善樹氏によれば、
「怒り」というのは、大切なものがおびやかされることに注意が向いている状態だそうだ。自分の価値観が否定される、というときに怒りはわきやすい。また「悲しみ」は「ないもの」に注意が向いている状態だという。
話を聴きながら、あぁだから私はこの怒りを、静かに心さするようにして受け止めたいと思うのだなぁと合点がいった。その人が大切にしたいものが話の中に汲み取れたし、それが尊いものだと私も価値観をともにしていた。暗黙的であれども、吐露される感情とともに、語られぬその人の価値観も汲みながら、人の話って聴いているものなんだなと思った。
その怒りは悪くない、とがめなくていい。感情そのものに、いいも悪いもないし、怒りを感じる自分そのものを否定しにかからなくていい。どう対処するかは別として、そこに生まれた怒りは尊いものとして認めていいんじゃないか。そう思いながら、大事に話を聴いた。
先の本には、こんな一節もあった。
感情の中に、感じてはいけないものはない。ずっと幸せを感じているのがいい、とも限らない。むしろ、たくさんの感情を感じたほうがいい。避けたほうがいいのは、一つの感情に浸って、ずっとその感情に支配されてしまうことだ。全ての物事に複数の解釈が可能なように、感情が一つに支配されているというのは、解釈が固定化されているということ。全ての感情は、ヒトが生き延びるために大切な感情で、全てを感じているほうがいい。
一つの感情に飲み込まれずに、複数の感情を、複数の解釈を、複数の視点をもてればいい。ほんと、そう思う。
佐渡島庸平さんは、怒りに限らず「感情」について、こんな表し方をしている。
感情とは、自分が今、何に注意を向けているのか、を自覚するツールだということができる。
そして次のように、いろいろな感情を挙げて、それぞれ「人が何に注意を向けている状態か」を提示している。
- 不安:
- 悲しみ:
- 怒り:
- 喜び:
- 安らぎ:
左に並べた感情を覚えたとき、右側を問うてみる。「自分が何に注意を向けているか」を探り当ててみる。そういう観点で解釈を試みることで気持ちはほぐされ、一つの感情に飲み込まれた状態から解放できるのではないか。感情の選択ができるようになるのではないか。最初に抱いた感情をすっかり手放すことは難しいかもしれない。けれど、
一つの出来事に対して、たった一つの感情にしかなれないことはない
として佐渡島さんは「複数の感情をもって、対象を見るクセをつけるようにする」ことを勧める。複数の感情で、その出来事を受け止められるようにできれば、だいぶ風通しが良くなる。けっこう使えそうではないかしら。怒りに優しく、感情に優しく。
*1:佐渡島庸平「観察力の鍛え方 一流のクリエイターは世界をどう見ているのか」(SBクリエイティブ)
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