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2022-03-09

足取り軽く、心の向くほうへ

先月、同級生の友人が誕生日を迎えたときには、「年齢の下一桁が3から6あたりって、まずまず凪いでいて穏やかに過ごせるよねぇ」なんて、のんきなメッセージを添えて誕生日祝いをしていたのだけど、いざ自分の誕生日が迫ってくると、あら不思議「ぜんぜん凪いでる感じじゃない」ってなって内心おどろいた。

私は誕生日の前後で「この一年は」とか「◯歳になったからには」とか、さして気合いを入れることなく行き過ぎるのが常だったけれど、今回はどうも、いつもに比べて節目の感覚があるなっていう46歳の誕生日を迎えた。

それを探ってみると、このところとみに「自分がこの世から消失する」リアリティが前景化して感じられるようになったのが理由の一つだ。狙ってそうなったのではない、向こうからやってきたのだ。向こうがどこなのかはよくわからないが。

最近SF小説を読んだのは一因にあるかもしれない。年齢のせいもあるだろう、一線を越えた感がある。コロナ禍暮らしもウクライナ情勢も間違いなく影響しているはずで、なんだかんだ複合的なものだ。

じっと、その「自分の消失」について考える時間をもっていると、空恐ろしさを感じる。感じるのだがしかし、今の人間関係だと、そうそう話題にあげるアテもない。

年始に地元で、そういう話をしても良さそうな古い友人に会ったとき、「いや最近、死んじゃうってよくよく考えてみると本当に空恐ろしいと思ってさ」とこぼしたが、「考えても仕方ないことだから、そういうことはみんな考えないんだよ」と諭された。まぁそうなんだけどさ、いや、でもさ、仕方がないことでも考えちゃうのが人でもあるわけじゃない?

今読んでいるエルヴェ ル・テリエの「異常(アノマリー)」という小説の中に、ミゼルという登場人物を描写する一節がある。

ミゼルは一見、うわの空でよそよそしい感じを与えることもあるが、"いろいろ抱えていながらもユーモアのある男"との評判を取っている。だがそもそも"ユーモアのある男"の呼び名にふさわしい人物は、 "いろいろ抱えていながらも"ユーモアを失わないからこそ当の呼び名を頂戴するものではないか。

文学っておもしろいよな。こうやって、私の思考の扉を開いてくれる。私が小説を読むのは、物語そのもののおもしろさを味わうことと同等かそれ以上に、こういう言い回しの妙に触れることで、自分の物事の受け止め方や思考展開に選択肢を与える、奥行きを作り出す鍛錬ができるからなんだよな。

まぁともかく、この空恐ろしさを自分のうちに抱えながら、それを抱えているからこそ生きられる人生を歩んでいくのが人の尊いところだったり、底知れなさだったりもするわけだから、そこはタフにやるっきゃないというか、そうやって生きてなんぼというか。そんなことをまた、ぽつぽつ考える。

ここ数年は実のところ、心のほうはへたへたの全治30年みたいな痛手を負って暮らしていたのだけど、まぁここらでそろそろ立ち上がらねばなりますまい。手のひらをひらいて、手ぶらで、身軽に、シンプルに、自分が大事だなって思うことを大事にして、感謝して、役に立つよう努めて、泳いで走って歌って健やかに生きていこう。

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