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2022-01-15

良いと思ったことを、良いと伝えることの救い

昨日は、すごく豊かな時間があった。年明け早々、数年ごぶさたしていた方からメールを受け取って、相談があるというので会社に迎えて話をした。前にお仕事でご一緒したときと、ちょっと似た感じの課題を抱えていて、相談相手に私のことを思い出してくださったと言う。そんなことがあるだろうか、あったのだ、それだけでも涙が出るほど嬉しい。

大きな会議室をとって、アクリル板をはさんで1対1でゆったり話し込む。近況をうかがい、旧交を温め、最近考えていること、抱えている思いなど、いろいろと紡ぎ出される話を聴いては、私も思ったこと、意見やアイデアなど、あーだこーだ話して語らう。一つの空間の中で、声が響き合い、視線で確認しあい、時間とともに話の中身も深まっていく。その時間と空間の肌触りが快い。

終わりぎわ、すごく具体的なアイデアやヒントももらえたし、考えも整理できたし、よしやってみようって気持ちにもなれたと感謝してもらえて、あぁそんな言葉を自分がかけてもらえることがあろうとは…と、こちらこそ元気をたくさんもらった。相手の目を見ていると、そう本当に思ってくれたんだと受け取れる。

私の最近のコミュニケーション事情を振り返れば、手応えを覚えられないことの連続で、あぁ自分の言いたいことは少なくともこの場では意味をもたないのではないか、相手に無用なストレスや不快感を与えているだけなのではないか、無駄に時間を奪っているだけなのではないかと、最悪の可能性を想定せざるをえないことが多い。

実際はいくらか好ましく働いている可能性もないわけではないが、私は職業がらか、関わる人の誰より自分が最低最悪の可能性を想定内に入れておきたいという意識が強く働くので、この自分で自分をボコボコにするセルフフィードバックは自動で作動する仕組みになっており、甘んじて受け入れるほかない。相手方みずからポジティブなフィードバックが発せられないかぎりは、最低最悪の想定をしておいたほうが、事態の見立てをへたに誤らずに済む。

空振り、空焚き、空回り…。自分が熱くしゃべってしまった後にはだいたい、こういう言葉が頭の中に浮かんでくる。小さなリアクションやノーリアクションからは、一定の賛同を得られているのか、それとも軽蔑されているのか、うるさいやかましいと思われているのか、推し量るのが難しい。

今はそういう中でも、自分のおおもとの考えや思いには意味があると信じて頑張り続けるべきときだという暫定的評価を与えて、やり方を見直しながら試行錯誤の只中にいる。しかし、そもそも私が信念をもって大事にしたいと思っていることそのものが、この場では無価値なことの可能性も、常につきまとっては試行錯誤する私を静かに見おろしている。

そんな暗中模索期にあって、今回の明確にポジティブなフィードバックを与えてもらえたのは、身に染みまくったのだった。あぁ私の言葉やふるまいがポジティブな意味をもって伝わることもあるんだ…と救われた気がした。これをもってまたしばらく、自己批判と自己肯定のバランスをマネジメントしながら、暗中模索してみよう、試行錯誤してみようと思う今年の仕事始まり。

そして、思うのだ。私も、自分が良かった、助かった、救われたと思ったときは、そうその人に明快に伝えたい。素晴らしいと思う、私は賛同する、素敵だなと思うなら、私はそう思うって伝えようって。それは、とてもとても大事なことなのだと。今回はそういうエール交換もできた気がする。

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