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2022-01-03

「水よ踊れ」と、新年の気持ち

昨年の秋、縁あって大学での特別講義をさせてもらった。コロナ禍でオンライン授業になっているため、キャンパスに出向いて対面で話すことは叶わなかったけれど、収録した講義動画を見終えた学生さんからのアンケート回答をもらうと、「あぁ届いたんだ」という感慨を覚えた。回答は270名に及び、全員分の感想コメントを文書ソフトに貼り付けてみると、数十ページのお手紙を受け取ったような心持ちになった。

相手は1年生から4年生まで入り混じる。「キャリアをデザインする前に知っておくと良さそうなこと」という1時間半の講義の中に、私は数十のポイントを埋め込んだが、当たり前に刺さるポイントは人それぞれ違う。同じ話を聴いているのに、みんな違うコメントを書く。あぁ、この人にはこれがツボったんだ、この人にはあの部分が…と、それだけでもおもしろく、ありがたく、うれしかった。

自分はキャリアデザインというものを少し難しく考えすぎていたとか、自分が本当に嫌いなのか知るためにも様々なことに挑戦してみたいと思ったとか、「自分」を主語にして書かれた文章はすがすがしく、それがもう、あなたという個の表れなんだと思う。

共通して見られたのは、これまでなんとなく身構えていたり、頭でっかちになって萎縮していたり、型や方法論を重んじて窮屈になっていたキャリアへの向き合い方を開放的にとらえ直して、自分のものとして手探りしていこうという雰囲気をまとった文章、自分の届けたいメッセージをきちんと受け取ってもらえたという手ごたえが得られて、それもまたうれしかった。

私は講義の中で、キャリアの概念は時代を経て、社会が豊かになるにつれて、その意味を膨らませてきたという話をした。

職業選択の自由がなければ、キャリアについて個人があれこれ思いを巡らせても仕方がないかもしれない。農家に生まれれば農業を継ぐのが当然、長男に生まれれば家業を継ぐのが当たり前、若い男なら戦地に行かなきゃいけない、そういう時代背景のもとに生まれていれば、選べる自由もなかった。

生まれた地域がどこかによっても、選択の余地は変わってくる。今の時代でも、住む場所、移動の自由がきかない紛争地帯に生まれていたら、選択の自由は大きく制限される。この講義をしたときは、ちょうどアフガニスタンから米軍が完全撤退して間もなく、カブール空港では自爆テロが起き、国外退避希望者も身動きままならずというニュースを連日受けとめていた。香港や台湾も、中国から強大な圧力を受けて苦しむ日々を報じるさなか。

私たちは住む場所を選べる、職業を選べる国・時代にいるけれど、これは当たり前のことじゃないし、多くは自分の力で勝ち取ったものでもない、たまたまですよねと語りかけた。もしかすると、そういうバックグラウンドではない、自分で勝ち取ってきたんだという学生もいるかもしれないという懸念はありつつも、そこは容赦してくれと思って一方的に話を続けた。

後のアンケートには、この話に言及している人がけっこういた。自分がもっている選択の自由という環境を意識化できた。その認識を足場にして、自分の選択を大事にしたいという気持ちがつづられている文章に触れ、そういう気持ちを育むきっかけになれたことが、この講義を通じてうれしかったことの大きな一つだ。

年末年始は、岩井圭也の「水よ踊れ」という小説を読んだ。舞台は1997年「中国返還」前夜の香港。読んでいたら、昨秋に自分が学生さんに語りかけたこと、話を聴いた後に学生さんが寄せてくれたアンケートの声が自然と思い出された。私は私なりに、自由という尊さと、丁寧に向き合っていきたいと思った。

私がイメージできることは、人さまからみればそんな立派なことでも広くも深くもないことだが、私は私の手に届くところで密度をぎゅっと高くして、自分が大事にしたいこと、大事にしたい自分の思いや考え、大事にしたい人たちを大事にしていこう。その尊さを丁寧に味わっていこう。私は自分のメタファに水をよくイメージするが、今年はこの本を手に年始を迎え、水のように踊れ!と送り出されている気がする。踊りましょう、そうしましょう。

*岩井圭也「水よ踊れ」(新潮社)

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