「素晴らしき哉、人生!」と、年末振り返り
いよいよクリスマスが「秋分の日」と同じくらいの季節行事に感じられるに至った晩年感、いや第二の人生感おぼえる、落ち着いた年末。秋めいてきたから「オータム・イン・ニューヨーク」でも観るかという風情で、クリスマスだからクリスマス映画でもと、24日は「素晴らしきかな、人生」を観た。
先日、クリスマスにお薦めの映画としてラジオで紹介されていたのだ。が、あれ、なんか言っていたのと内容ちがうなぁと思い、最後まで観た後に調べ直したら、お薦めしていたのは「素晴らしき哉、人生!」だった。まぎらわしすぎる…。それで翌日25日は、そちらを観ることにした。
前者は2016年の作品。ウィル・スミス主演、デヴィッド・フランケル監督、原題は「Collateral Beauty」。対してラジオでお薦めされていた後者は1946年の作品、70年も違った…。こちらの最初の場面は主人公の幼少期、1919年の話、100年ずれていた。主演はジェームズ・ステュアート、監督はフランク・キャプラ、原題「It's a Wonderful Life」。こっちだ、こっちだった。
いやぁ、「映画の素晴らしさとはこれだ」という原点が、ぎゅっぎゅっと詰まっている映画だった。こういうコンテンツを創る人たちのなす、仕事の尊さを改めて想った。
今年は勤め先の事業づくり、中の人たちのサポート、組織内の情報編集業や構成作家的な働き方を(自分の内々に)力点おいて尽くした一年だったけれど、ここに来て改めて、コンテンツを創り出す人たちのキャリアの充実を支援する事業に自分がどう関われるかと思案する。
従来のものの見方を解かした自分なりの視点やスタンスで、どう機能的役割を果たしていけるものか、模索していきたい。クリエイターがキャリアの途上で健全な障壁にぶつかり乗り越えるサポーターとなること、社会的に不合理な障壁を取っ払うサポーターとなること、その両面から機能的に働けるように、組織という機構もうまく活かしながら、また所属組織への貢献も熟慮しながら、自分の役割を模索していきたい。
今年は、解体と再生の一年だった気がする。年の前半はずたぼろだった気もするけれど、後半にかけて解体された素材を一つひとつ拾い上げ、積み木のように縦にしたり横にしたり、重ねたり入れ替えたりしながら、再生してきた。粘土のようにも見立ててちぎったりくっつけたりを試行錯誤しながら、新しい自分づくりに動き出したようにも感じる。まだいびつで心もとないが。
しばらくは裸足で一人ぽつねんと静かに立っていた。そのうち、時が経って、青い空が見えて、緑の匂いが届き、健康に歩く自分に気づき、水の中で泳ぐ気持ちよさをありがたく思い、また時が重なり、心が平静になった。人格的に認められる機会がなくとも、機能的に何か役割を果たして人の役に立てている感覚を味わえる機会があった。あぁ、これだけで十分じゃないかと思った。
足るを知る。あるものが、今ここにあることを、シンプルによろこんで過ごすようになった。そこで役割を見出し、役割を果たそうと心身が動き出す環境に身を置けていることに感謝している。
もう二度と会わずに私の生涯は終わってしまうだろう人たちもいる。けれども、そういう人たちが私のもとに残してくれた習慣は、ここにある。私がこのようにものを考え、このように人を思い、このように出来事を受け止められるのは、これまでに出会い、一緒に時を過ごした人たちのおかげなのだ。私の手元にそれはあって、今もすくすくと私を育てている。それで十分なのだ。
ちなみに24日に観た「素晴らしきかな、人生」のほうは、原題「Collateral Beauty」を映画の中で「幸せなオマケ」と訳すあたり、確かにもうちょっと何かないものかと一緒に頭を悩ませてしまうところがあったけれども、最後のほうに出てきた "Nothing ever really dies, if you look at it right." を「何ごとも見かた一つだもの」と訳しているところ、実に味わいぶかかった。英語が母国語の人と共通した物語を受け取っているのかはよくわからないけれど、rightは多様であり、人は物ごとに多様な意味解釈を与えられる。
人の解釈は多様で、物ごとにも出来事にも多義的な意味を与えられるところにこそ、私は人の尊さの最たるを感じる。私はいろんな意味を与えることができる。私の出会いに、私の出来事に。だから大丈夫なのだ。
2本の作品は、そのことを痛切に訴えてくる。無慈悲な出来事も起こる。理不尽なこと、不条理なことも起こる。だけど、それに対して、どうにか正気を取り戻して、別の解釈を与えて、肯定的な意味を切り拓くことが、人にはできることを届けてくれる。素晴らしき哉、人生!
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