この世界に「歪み」を感じたときの宇宙
ここ2ヶ月の間にクローズドな場に書いた文章、おいおい消えてしまうので、多少編集を加えて、こちらにも残しておきたい祭り。この時期に自分が考えたことの記録として。
宇宙(人)視点で見れば、そもそも地球という惑星の存続などどうでもいいことで、惑星は生まれていずれ滅びるもの、SDGsの活動をけなそうと推奨しようと、それも地球に生きる生物の一種があーだこーだ言っているだけのことで、地球内の環境変化を人為的な作用か自然現象かで二分して捉えるのも、人間が人間だから人間の内・外に一線ひいてみているだけで、宇宙視点でみたら人のなすことだって自然現象のうち、まるっとひとくくりで捉えられるんじゃないかと個人的には思っている。
人が現代社会に「歪み」を検知するとき、「歪んでいる」という表現には問題意識が混入していて、それはそう見立てる人の価値観が根底にあっての捉え方だろうと思う。もちろん、それは全く悪いことじゃないし、ごく自然のことだ。あるいは、それぞれの人がもつ尊い美意識とも言える。
でも、どんなに聡明な人が「歪んでいる」と捉え警鐘を鳴らす事象も、宇宙視点で「歪み」と定義づけられるわけではない。
「誰かが、何かを視野に入れていないことによって、無意識に何かを盲信している」という状態を認めたとき、そこに「無意識を認める」ことは確かにできるけれども、イコール「問題を認める」ことはできない。
そこに問題を認めることは、常に人がなすことであって、対人支援者である他者が「問題に感じられるようなこと」も、当人にとって「問題ではないこと」というのが少なからずあることについて、対人支援者は極めて慎重である必要があると思う。
暴走すると、私からは歪んでいるように見える、歪んでいる社会に生きている人たちは認識違いをしている、無知蒙昧だ、意識化すべきだ、改めさせるべきだ、救い出さなくては。あるいは、歪んでいる社会に問題意識をもたず安穏と暮らしている人間は低次元だ、相手にしていられない、自分の力量の半分でやろう、そんな考えに陥りかねない。
そう思っているような人の支援など受けたくないし、そうとしか社会や人を捉えられない、関われなくなってしまったら、それこそ対人支援者側が一つの物差しで価値づけしている偏狭さこそ問題に感じる。
神の存在を信じない人が、神の存在を信じている人に対して、そういう認識は改めたほうがいいと介入することに、どんな価値が見出せるのか。大きなお世話だよなぁって感じがする。
対人支援者は、支援相手が生きる世界の意義を、その世界の内側からも感受するスタンスが大切だし、この案件は自分の30%で当たろうという特定の理論ドリブンではなく、私の100%でこの人にどう関われるかという対人支援の役割に立脚した働き方に努めるのが、自分の基本スタンスだ。
また、そうは言っても、「いやぁ全然いまつきあっているクライアントは、自分の肌にあわないんだわ…」ということは起こりうると思う。それが常態化してきたときはやっぱり、支援する相手(職場)を変えることも検討する必要があるのかなぁと思うのだ。そのほうが健康に仕事を楽しめそう。美意識は尊いもの、しかしそれはあくまで自分の美意識であるという認識をもって外化することが肝要だ、そんなことを考えた。
« 多重知能理論、「多元的知能の世界」のメモ | トップページ | 「素晴らしき哉、人生!」と、年末振り返り »
コメント