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2021-12-26

「素晴らしき哉、人生!」と、年末振り返り

いよいよクリスマスが「秋分の日」と同じくらいの季節行事に感じられるに至った晩年感、いや第二の人生感おぼえる、落ち着いた年末。秋めいてきたから「オータム・イン・ニューヨーク」でも観るかという風情で、クリスマスだからクリスマス映画でもと、24日は「素晴らしきかな、人生」を観た。

先日、クリスマスにお薦めの映画としてラジオで紹介されていたのだ。が、あれ、なんか言っていたのと内容ちがうなぁと思い、最後まで観た後に調べ直したら、お薦めしていたのは「素晴らしき哉、人生!」だった。まぎらわしすぎる…。それで翌日25日は、そちらを観ることにした。

前者は2016年の作品。ウィル・スミス主演、デヴィッド・フランケル監督、原題は「Collateral Beauty」。対してラジオでお薦めされていた後者は1946年の作品、70年も違った…。こちらの最初の場面は主人公の幼少期、1919年の話、100年ずれていた。主演はジェームズ・ステュアート、監督はフランク・キャプラ、原題「It's a Wonderful Life」。こっちだ、こっちだった。

いやぁ、「映画の素晴らしさとはこれだ」という原点が、ぎゅっぎゅっと詰まっている映画だった。こういうコンテンツを創る人たちのなす、仕事の尊さを改めて想った。

今年は勤め先の事業づくり、中の人たちのサポート、組織内の情報編集業や構成作家的な働き方を(自分の内々に)力点おいて尽くした一年だったけれど、ここに来て改めて、コンテンツを創り出す人たちのキャリアの充実を支援する事業に自分がどう関われるかと思案する。

従来のものの見方を解かした自分なりの視点やスタンスで、どう機能的役割を果たしていけるものか、模索していきたい。クリエイターがキャリアの途上で健全な障壁にぶつかり乗り越えるサポーターとなること、社会的に不合理な障壁を取っ払うサポーターとなること、その両面から機能的に働けるように、組織という機構もうまく活かしながら、また所属組織への貢献も熟慮しながら、自分の役割を模索していきたい。

今年は、解体と再生の一年だった気がする。年の前半はずたぼろだった気もするけれど、後半にかけて解体された素材を一つひとつ拾い上げ、積み木のように縦にしたり横にしたり、重ねたり入れ替えたりしながら、再生してきた。粘土のようにも見立ててちぎったりくっつけたりを試行錯誤しながら、新しい自分づくりに動き出したようにも感じる。まだいびつで心もとないが。

しばらくは裸足で一人ぽつねんと静かに立っていた。そのうち、時が経って、青い空が見えて、緑の匂いが届き、健康に歩く自分に気づき、水の中で泳ぐ気持ちよさをありがたく思い、また時が重なり、心が平静になった。人格的に認められる機会がなくとも、機能的に何か役割を果たして人の役に立てている感覚を味わえる機会があった。あぁ、これだけで十分じゃないかと思った。

足るを知る。あるものが、今ここにあることを、シンプルによろこんで過ごすようになった。そこで役割を見出し、役割を果たそうと心身が動き出す環境に身を置けていることに感謝している。

もう二度と会わずに私の生涯は終わってしまうだろう人たちもいる。けれども、そういう人たちが私のもとに残してくれた習慣は、ここにある。私がこのようにものを考え、このように人を思い、このように出来事を受け止められるのは、これまでに出会い、一緒に時を過ごした人たちのおかげなのだ。私の手元にそれはあって、今もすくすくと私を育てている。それで十分なのだ。

ちなみに24日に観た「素晴らしきかな、人生」のほうは、原題「Collateral Beauty」を映画の中で「幸せなオマケ」と訳すあたり、確かにもうちょっと何かないものかと一緒に頭を悩ませてしまうところがあったけれども、最後のほうに出てきた "Nothing ever really dies, if you look at it right." を「何ごとも見かた一つだもの」と訳しているところ、実に味わいぶかかった。英語が母国語の人と共通した物語を受け取っているのかはよくわからないけれど、rightは多様であり、人は物ごとに多様な意味解釈を与えられる。

人の解釈は多様で、物ごとにも出来事にも多義的な意味を与えられるところにこそ、私は人の尊さの最たるを感じる。私はいろんな意味を与えることができる。私の出会いに、私の出来事に。だから大丈夫なのだ。

2本の作品は、そのことを痛切に訴えてくる。無慈悲な出来事も起こる。理不尽なこと、不条理なことも起こる。だけど、それに対して、どうにか正気を取り戻して、別の解釈を与えて、肯定的な意味を切り拓くことが、人にはできることを届けてくれる。素晴らしき哉、人生!

2021-12-23

この世界に「歪み」を感じたときの宇宙

ここ2ヶ月の間にクローズドな場に書いた文章、おいおい消えてしまうので、多少編集を加えて、こちらにも残しておきたい祭り。この時期に自分が考えたことの記録として。

宇宙(人)視点で見れば、そもそも地球という惑星の存続などどうでもいいことで、惑星は生まれていずれ滅びるもの、SDGsの活動をけなそうと推奨しようと、それも地球に生きる生物の一種があーだこーだ言っているだけのことで、地球内の環境変化を人為的な作用か自然現象かで二分して捉えるのも、人間が人間だから人間の内・外に一線ひいてみているだけで、宇宙視点でみたら人のなすことだって自然現象のうち、まるっとひとくくりで捉えられるんじゃないかと個人的には思っている。

人が現代社会に「歪み」を検知するとき、「歪んでいる」という表現には問題意識が混入していて、それはそう見立てる人の価値観が根底にあっての捉え方だろうと思う。もちろん、それは全く悪いことじゃないし、ごく自然のことだ。あるいは、それぞれの人がもつ尊い美意識とも言える。

でも、どんなに聡明な人が「歪んでいる」と捉え警鐘を鳴らす事象も、宇宙視点で「歪み」と定義づけられるわけではない。

「誰かが、何かを視野に入れていないことによって、無意識に何かを盲信している」という状態を認めたとき、そこに「無意識を認める」ことは確かにできるけれども、イコール「問題を認める」ことはできない。

そこに問題を認めることは、常に人がなすことであって、対人支援者である他者が「問題に感じられるようなこと」も、当人にとって「問題ではないこと」というのが少なからずあることについて、対人支援者は極めて慎重である必要があると思う。

暴走すると、私からは歪んでいるように見える、歪んでいる社会に生きている人たちは認識違いをしている、無知蒙昧だ、意識化すべきだ、改めさせるべきだ、救い出さなくては。あるいは、歪んでいる社会に問題意識をもたず安穏と暮らしている人間は低次元だ、相手にしていられない、自分の力量の半分でやろう、そんな考えに陥りかねない。

そう思っているような人の支援など受けたくないし、そうとしか社会や人を捉えられない、関われなくなってしまったら、それこそ対人支援者側が一つの物差しで価値づけしている偏狭さこそ問題に感じる。

神の存在を信じない人が、神の存在を信じている人に対して、そういう認識は改めたほうがいいと介入することに、どんな価値が見出せるのか。大きなお世話だよなぁって感じがする。

対人支援者は、支援相手が生きる世界の意義を、その世界の内側からも感受するスタンスが大切だし、この案件は自分の30%で当たろうという特定の理論ドリブンではなく、私の100%でこの人にどう関われるかという対人支援の役割に立脚した働き方に努めるのが、自分の基本スタンスだ。

また、そうは言っても、「いやぁ全然いまつきあっているクライアントは、自分の肌にあわないんだわ…」ということは起こりうると思う。それが常態化してきたときはやっぱり、支援する相手(職場)を変えることも検討する必要があるのかなぁと思うのだ。そのほうが健康に仕事を楽しめそう。美意識は尊いもの、しかしそれはあくまで自分の美意識であるという認識をもって外化することが肝要だ、そんなことを考えた。

2021-12-14

多重知能理論、「多元的知能の世界」のメモ

ハワード・ガードナーの「多元的知能の世界」*を、ちょっとだけ週末に読み進めたメモ。

人の秀でた特徴を、8項目に分類したものがある。それぞれを説明しだすと文章が長くなるので、とりあえず雰囲気で、次の8つを「この人は、◯◯的に優れている」と入れて、具体的な人物をイメージしてみてほしい。すると確かに、それぞれ独立性をもった特徴のように見えてこないだろうか。

言語的
論理・数学的
身体・運動的
人間関係的(対人的とも)
博物的
内省的
空間的
音楽的

この8項目のうち、いわゆる「知能」としてイメージするのは、1つ目の「言語的に」と2つ目の「論理・数学的に」優れている、くらいかもしれない。あとは知能というより、才能、センス、資質、性格、人柄といったイメージが先に立つかもしれない。

これに疑問を呈してガードナー氏が研究発表したのが多重知能理論(先ほど挙げた本では7つとなっているが、後に「博物的」を加えて8つになった)。この8つ全部を同格に並べて「知能」と呼んでみせたのだ。

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IQだけが知能じゃない。人間の知能は単一のものではなく多元的だとして、その知能を8つに分類した。

1)8つはある程度の独立性をもって、それぞれ機能している
2)スキルの量や組み合わせは、一人ひとり異なる
3)知能は統合的に働き、諸々の問題を解決したり、職業や趣味などを通じてパフォーマンスを発揮する

ギリシャ時代には、こうした知能がほぼ等しく尊重されていたが、1905年にアルフレッド・ビネーらがIQテストを作って以来、知能のとらえ方に多元性が失われていったという話。

「地頭でポテンシャル採用」「人柄採用」「論理的思考力が高い人」「コミュニケーション能力が高い人」などなど、人材採用の現場にも募集要項にも、要件を示しているような、ほとんど何も定義できていないような言葉があふれているが、もう一歩踏み込んで、本当に自社の募集ポジションで力を発揮する人、発揮してほしい能力は、どう落とし込めるのか問い直してみると、「IQ高そうな人」を一斉に他社と取り合う競争環境を打破できるかもしれない。

「自分の会社の、ここの部署で、こういう役割をしてくれる人」を多元的に解釈し直して、言葉で再定義してみたら、もっともっと個々人がもつ多様な能力が、うまく社会の役割につながっていくんじゃないか。IQに偏らず、多様な能力が適切に評価される世の中になっていくんじゃないか。そんな期待をもっている。一見すると「性格」とか「人柄」と見えるものも、IQと同等の価値が認められていくといい。

*Howard Gardner (著), 黒上 晴夫 (監訳)「多元的知能の世界―MI理論の活用と可能性」(日本文教出版)

2021-12-12

知覚できる情報の複雑さが増すほど、課される明晰さが増す

クローズドなところでは相変わらず書き書きしているのだけど、自分のすみかで書くのがおろそかになってしまった。ここらで、ひと息。あと1週間くらいしたらマイペースを取り戻せるだろう、、か。ぼそぼそと、またここで書いていこう、そうしよう、そうしたい。今回は他所に書いたものから1つ取り出して、ここにメモっておきたい。

自分が「知覚できる情報の複雑さ」が増すほど、自分に「課される明晰さ」が増すの図。

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ある専門分野で知識や経験を積んでいくと、何か事にあたるときに考慮する観点、目の行き届くコンテキストの量や厚みも増していく。自分が知覚(認識)できる複雑性が増していくほど、表層的なところだけ見て対処法をぽっと結論することはできなくなるし、それについて一言で分かりやすく第三者に伝えることも難しくなる。自分に課す明晰さの難易度が高まる。

単純に狭い了見で見ていれば、表層的に一言で言い切れてしまうものが、より広域に階層的に見えるようになった人ほど、そう簡単にはものを言えなくなってしまう。

相手によって、今言うべきことと言わないでおくことを選ぶ明晰さを、自分に課すようになる。そのときの状況によって、今なすべきこととなすべきでないことを、明晰さをもって分別し、対策アプローチを構造立てて動く必要を自分に課さざるをえなくなる。

何か目の前で問題が起きたとき、初心者なら表層的に要因を一つ二つ思い浮かべ、対処法としてはこれとマニュアル通りに動くぶん、アクションが早いこともあるかもしれない。これが、見える領域が広がり、状況が階層的に見えるようになると、そう単純には結論できなくなる。初心者から「初動が遅い」とみられることもあるかもしれない。

今この問題が起きている要因は一つではない、あれもこれも要因の一つであり、間接的にはあれも関係しているかもしれない。短期的にこれで手を打つとして、中長期でみるとあそこにも手をまわさないと根本解決にならないだろう。さて、今ここで短期的な策を講じたとして、中長期的な策に影響はないだろうか、ここで関係を悪くすると中長期策が講じにくくなってしまうかもしれないなどと、あれやこれや考えごとが増える。

いっときを経ると、初動は早くとりつつ、第2、第3の手を別に講じて、パラレルに動かすというやり方を取れるようになったりもして、そうやって熟練のパフォーマンスを段階的に高めていく。

講座や研修を作る際は、講師を実務エキスパートにお願いして一緒にカリキュラムを組み上げていくが、ここでも大いに明晰さが求められる。

講師が自身の実務ノウハウや、それをこなす上で前提としている知識を体系立てて伝授しようとなると、「これを教えるには、こういう例外ケース、こういうリスクを抱え込むこともセットで伝える必要がある」「これをわかってもらうためには、前提知識としてこれも伝えなくては」「こういう応用もできる」と、どんどん内容が膨らんでいく。

しかし研修時間は限られているし、全部を一度に詰め込んだところで、それが受講者の中にすっかりインストールされるものでもない。講座は講師のための舞台ではない。

その時々の受講者の課題や業務環境、既有能力やキャパシティ、持ち時間や学習環境といった変数を総合的にみて、内容を削ぎ落とし、分かりやすく順序立て、今回の相手に最重要の観点を押さえて、記憶に残りやすく、現場のパフォーマンスを向上させる一歩を踏むための具体例、実践アプローチを能率よく伝える工夫を練り上げる必要がある。

これに限らず、私が支援相手とするクリエイティブ職の間では業界コミュニティの勉強会が活発で、老若男女フラットにスピーカー役となって自身のノウハウを共有するカルチャーがあり、話し手はたいてい「受講者以上に、自分が勉強になった」と言う。自分の話すテーマを決めて準備する段階が、明晰さを磨くトレーニングにもなっているのだろうと思う。そういう場面にも意識的に介入してサポートすることで、話し手側の学習支援にももっと役立てるかもな、とも。一つひとつ、できることをやっていこう。

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