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2021-11-25

「Web系キャリア探訪」第35回、自分の配置・配役を再定義する

インタビュアを担当しているWeb担当者Forum連載「Web系キャリア探訪」第35回が公開されました。今回は、ビジネス・アーキテクツ等でWebサイト構築のプロジェクトマネージャーとしてキャリアを積んだ後、現在はふるさと納税総合サイト「ふるさとチョイス」を運営するトラストバンクで取締役、事業本部長を務める和田正弘さんを取材しました。

自分の適性を模索した20代。「ものづくり」で切り開かれたキャリア

今回は、1年半ぶりのリアル取材。訪れたのは渋谷スクランブルスクエア内のWeWork。エレベーターで高層階に上がると、通常の2~3倍はあろうかという高い天井、そのてっぺんから足元まで全面ガラス張りの窓に囲まれ、遠くの遠くまで夕景が見渡せ、フロアを行き交う人たちが全員ラグジュアリーに見える空間が広がっていました。フロアに立った私の脳内にはなぜか「金持ちの空中庭園や〜」という彦摩呂の声が響きました。

それはそれとして今回は、インタビュアとしてご一緒している森田さんの前職時代の後輩がゲストで、お二人は旧知の仲。久々のリアル取材も相まって、とりわけわいわい楽しい取材となりました(写真がわいわいを物語ってくれている)。直接会ってお話しできるって素晴らしい。

大学生の頃は「輸入盤レコードを扱うレコード屋の店長とかやってゆっくり暮らしたい」と思っていた。そこから、Webサイト構築のプロジェクトマネージャー、ふるさと納税総合サイト運営会社の取締役、事業本部長を務めるまで。どういう経緯をたどって、何を考えてキャリア選択してこられたのか。そこには、2004年の新潟県中越地震、2011年の東日本大震災の体験が大きく関わっています。その体験をどう咀嚼し、ご自身のキャリア選択に組み込んで舵をきってこられたのか。

お話を伺っていると、「自分をどこに配置して、どう配役しようか」という目線をもって節目節目で自分の社会との関わり方を再定義してこられたように感じられました。自分を客体としても主体としてもバランスよく語られる話し方が印象的で、個人的に共鳴するところも多く、刺激的な取材でした。「ものづくり」出自の人たちが、あるようなないような隔たりを突破してビジネスを動かしていく活動も応援したい。ぜひお時間の良いときに読んでみてくださいませ。

2021-11-11

受講者20名と50名では、場の生態系が変わる

クライアントに社員研修を提供する仕事をしていると、最初に相談を受けたときには受講者10~20名くらいだった話が、提案を通して実施準備をしている段で、40~50名とか100~300名とかに膨れ上がっていることがある。オンラインだと、会場キャパシティを気にしなくていいため、こうしたことは一層起こりやすくなっているかもしれない。

会場が手配できるならOK、入れるだけ入れよう、そのほうが一人当たりの受講料が安くなるし、今回のメイン対象じゃない社員だって聴いて無駄な話じゃない、何かしら得るものはあるはずだ。メイン対象は必須参加、サブ対象には告知して任意参加にすればいい。そういう展開は、よくあるんじゃなかろうか。

1社の社員研修ではなく、業界コミュニティのイベントや勉強会においても、「できるだけ多くの人に」「申し込んでくれた人は全員受け入れたい」との思いから、当初の想定より大幅に定員数を広げるケースは少なくない。

また有料で講座を開いている教育機関の場合、受講者が多いほど受講料が入るわけで、1回の開催で多くの受講者を受け入れたほうが売上も増し、利益率も高くなる。

そんなわけで、当初20名定員を想定していたところ、50名、100名を受け入れて講座を実施するという風景は、さまざまなところで見かける。

もちろんそれこそが適切な判断というケースもあるだろう。主催者がその認知拡大・見込み客獲得こそ狙いとするセミナーイベントだったり、ネットワーキングが主目的の業界コミュニティのイベントなど。

しかし、参加者の能力開発を主目的としている場合は、いったん踏みとどまって考えたい観点がある。大幅の増枠によって損なわれるものはないか、当初目的の達成から遠のく施策に転じることはないか。「会場に入るかぎり受け入れるが良し」と、すぐ結論せずに。というのは、受講者人数というのは、その場の生態系に多大な影響を与えると考えるからだ。

最初から1対多の講演形式を想定していて、教え手から学び手に一方的に話を聴かせるという話であれば、さして気にしなくていいだろうが、それでは期待できる学習効果も限定的で不確かなものになる。

最近だと、もっと教え手と学び手のインタラクティブ性を組み込んだ講座展開が多いと思うが、その場合、参加者が20名なのか50名なのか100名なのかは、受講者心理に大いなる影響を与える。20名なら挙がる質問や意見が、50名集まっている講座では出てこないということが起こる。そんなの受講者が悪いんだよ、やる気の問題だよ、知ったこっちゃないとするのは簡単だけど、1回かぎりの学習の場を、より効果的で創発的な環境にしようと企てるなら、主催するなり講師する側として、受け入れ人数には一考の価値があると思う。

その場の環境・状況をみて、自分がどうふるまうべきか計算を無意識にも働かせるというのは、人として自然のふるまいだ。日本で教育を受けてきた受け身態度を自ら意識的に脱せよという提言ももちろんわかるのだが、とはいえ20人の教室、50人の教室、100人の教室に入ったとき、その参加の仕方が変わるのは人として当然、自然じゃないかとも思う。

20名だったら、ちょっと今回のテーマと合っているかわからないけど訊いてみようかなと質問したり、自分の意見を表明するハードルも低いが、50名、100名だと、この場を有効な場にするためには、この手の質問・意見表明はちょっとそぐわないかな、過度な脱線を許容する場じゃないよなと発言を躊躇する。そういう判断が働く人は少なくないと思う。

私は1受講者として、オンラインの講座を画面ごしに自室で一人で受けていても、この講座には50人参加しているんだな、300人のイベントなんだなっていうのは念頭において受けている。20人なら、比較的小ぶりな貸会議室に人が集まっているようなイメージをもって参加しているし、50名になるとそこそこ大きなセミナールームで、前に先生の席、それと向き合うようにして受講者全員が前を向いて着席しているような構図が浮かぶ。300名ともなれば大学の大講堂なり、大きな映画館にシアター形式の椅子が並んでいて、その1席に自分が腰かけているようなイメージをもつ。オンラインでそんなイメージをもっている人なんて稀だよ…という話かもしれないが、1例あれば軽く5万人くらいはそういう人がいるだろう。

そんなわけで、あくまでメインの受講者の能力開発を狙った研修の場合、またその場をファシリテーターと参加者の創発的な場にしたいといった場合は、「せっかくだから、できるだけ多くの人に」を一旦踏みとどまって、当初目的を実現するための適正サイズを見定める一考を組み込んでみると良いと思う。今回は参加者をメイン対象者だけに絞ろうとか、2回に分けて実施しようとか、1回の定員を維持する選択肢も考えてみる。

一線を超えた増員は、当初想定していた学習の場の構造を解体し、その場の生態系を質的に変えてしまうことがある。そんなことを折に触れて思うので、脳内整理がてら書いてみた。生態系は、うん、使ってみたかっただけ感ある、否めない。

2021-11-08

思索ブログの原体験は「班日記」かも

中学生のとき、班日記というのがあった。あれは全国的にやられているものなんだろうか。クラスで席の近いもの同士5~6人ごとくくられて、学期ごとに席替えして班を組みかえ、その中で日記帳をまわす。小学生のときもあった気がするが、もはや記憶が定かでない。

学期始めに1冊のキャンパスノートが配られ、班の中で書く順番を決める。番がまわってくると家に持ち帰って日記を書き、翌朝に担任の先生に提出する。休み時間のうちに先生が全班の日記に目を通して(今思えば毎日大変だったんだな)赤ペンでコメントを入れ、「帰りの会」のときに本人に返す。生徒は、赤ペンで書かれた先生のコメントを読んだ後、次の子にまわすんだったかな。

数日持ってこないで止めちゃう子もいたし、他の子の日記を読むか読まないかも人それぞれだっただろう。男子の文章はたいてい短く、他の子の日記にも関心ないそぶりをしていた印象があるけれど、実際はいろいろだったろう。そりゃ班日記なんて面倒くさいだけの女子もいれば、好んで読み書きする男子もいると考えたほうが自然だ、今振り返ればそう思う。

中学2〜3年のときの担任の先生は、班日記の熱の入れようがすごかった。40代くらいの教育熱心な女性教師で、かなり頻繁に、その日の班日記でよかったものの抜粋を手書きでしたためてB4サイズの学級日誌みたいなのを作っては、わら半紙に印刷して、帰りの会で配っていた。

私はそれに取り上げられることが多く、いわば常連だった。当時の私に、それに掲載されたいという気持ちは特になかった気がするが、地でものを書いていると、よく取り上げられたのだ。どんなことを書いていたのかさっぱり覚えていないが、たぶん真面目に当たり前のことを書いていたから、中学教師として生徒に「真面目に当たり前のこと」を教えるのにちょうどよかったのではないか。先生が言いたいことを皆に伝えるのにちょうどよく使える文章を書いていたんだろう。

私はただの中坊であり、与えられた場所に、ただ率直に自分の思ったこと、考えていることを書いていた。自己洞察や思索・表現手段として文章が一番自分に合うなぁなんてことは意識にのぼっていなかったと思うし、私は文章を書くのが好きなようだという認識すらなかった気がする。「国語はわりに得意だ」という意識は、通知表で他の教科と見比べて思っていたかもしれないが、本を読むのには当時から苦手意識があったから、文章への向き合い方は本当にぼんやりしたものだった。

しかし、ふと、半年くらい前か、ついつい最近になって、中学時代の班日記がもしかすると、大人になってからブログを書きつづったり、自分の頭の中のことをとりあえず文字にして批判的にみたり、別の角度からみたり、転がしてみたり、吟味するようになった原体験かもしれないなと思いついた。

自由テーマで自分が考えたことを文章に起こし、それが他人の目にさらされ、読んだ他者が何かしらフィードバックを返してくる(なり、何もフィードバックがないのもフィードバックのうち)というのは、なかなか尊い人の営みである。

別に多くの人に読まれる文章じゃないが、SNSでつながっている人や、何かのキーワードでぐぐってやってきた縁のある人が一編だけ読んでいったり、時々コメントをもらえたりするブログ。ブログにあげている文章は、自分が書き留めているもののほんの一部に過ぎないのではあるが。

こんなくだらない文章を人に見せるなんて信じられないと蔑視されてしょげたこともないではないのだけど、まぁ等身大の文章なので、それは受け入れるほか仕方ないし、それも一つのフィードバックである。そこを盛っても意味がないし、ブログを書いているのは、読んでもらうことは二番で、自分が書くことが一番なんだ。もちろん私にとっては、ということだが、そういうことを、ここ20年を振り返って最近認識を鮮明にした次第。

というのは、実際に他人が読むか読まないかに関わらず、他人が目を通せる場所におくことにして文章を推敲していく過程で、自分の思いや考えていることを客体化してとらえようとする視点が明らかに存在感を増し、そういう書き時間こそが今の自分を形成してきた面が多分にあるのではないかと思い至ったからだ。

文章に書き起こさなければ、あるいはすべてを手元の閉じたメモに留めておいたなら、自分の中のもやっとはもやっとのままだった。それをいくらかでも「他者の目」の触れるところにおく前提で文章として推敲してみるすったもんだを通して、私はいろんなことを考えたし、いろんな思いをもった。その時間に、深いところにもおりていったし、遠くへも迷い道した。結局それでブログにはのせなかった文章もごまんとあるわけだけど、それもまた私の過ごした人生の時間なのだ。

書いていない20年、書いた20年、前者を過ごした私が今ここにいるとしたらって考えると、まぁ想像しがたいわけだが、ともかく私は今の私にはなっていなかっただろう。ということには確信めいたものを感じる。だから、人さまから見れば恥さらしみたいな文章だったとしても、私にとっては必要不可欠な活動だったし、それで今の自分があるのだ。それだけで十分だ。

20年といったって、毎日書き続けてきたわけじゃない。かといって、ひと月に一度も書かなかったこともほぼない。概ね週1回ペースくらいで書いてきたが、ひと月近く書かないこともあったし、連日のように書き連ねたこともあった。書きたくなったとき、そこに書く場所があったから同じところに書き続けてきたという感じで、つかず離れずずっと身近にあって、20年連れ添ってきた。書く場所がここにあって、ここにあり続けてくれて、助かっている。20年間、一度もこういう節目を意識することなくやってきた気がするけれども、今回はなんとなく、この場に感謝を表明したくなった。

2021-11-06

ブログの置き場、その終わりの想定

このブログは2001年11月から書き始めたので、そろそろ20年になる。始めた当初はホームページという体裁だったけれど、ほとんど写真も絵も入れず飾り気のない文章をただただ書きつけるスタイルは、当時から変わらない。あれから20年、20歳も歳をとったわけだ。

少し前「終わり」ということについてよく考えていた時期に、このブログについても「これって終わりはどうなるんだ」というのを考えた。

いっときは、21世紀初頭の市井の人が考えていたこととして、未来の人類学者の情報源の一つに役立つかもしれないじゃないのとざっくり思っていた。「2005年に◯◯を話題にしている人は、Googleトレンド上で何人(件)確認されます」みたいなのの1件にカウントされるくらいの感じで。

でも、よく考えてみたら、私はココログというニフティのサービスを使っていて、広告表示が出ないように一応毎月770円ニフティに支払う有料会員になっているので、私がこの世からさよならすると(そうでなくても私が支払いを止めるなり契約を解除したタイミングで)、このブログはなくなることになるんだなと思い至った。

無料のところに書きつけているブログというのは、書き手の死後も残り続けたりするのだろうけれど、ココログの有料会員の文章というのは契約解除とともになくなるんだろう。なるほど、ネット上のどこに何を書き残すかというのは、そういう観点から選択するという見方もあるんだなぁと、その時ふむふむ思ったのだった。

それで改めて考えてみるに、私がブログに書いている内容は、まずは自分の思索日記であり、欲張ってもせいぜい同じ時代を生きる日本語読む人に最近書いたものをシェアできれば十分であり、後世まで残すべきようなことは特に書いていないので、ネット上からなくなるタイミングとしては、自分とともに消えてなくなるくらいが頃合いとしてはちょうどいいのではないかと。書き出しの20代半ばごろなど「恵比寿の歯科医の入った雑居ビルの某所で外から鍵しめられて閉じ込められ、電池切れる寸前のPHSで110番に電話して助けてもらったよー、はぁこわかったぁ」みたいな話を書いていて、んなの後世に残してどうするんだという話である。そんなわけで相変わらずココログにのらりくらり書き続けている。

他の(一般の)人は、どんな按配でこの辺のことを考えているのだろう。Twitterなんかは無料で利用しているから、アカウントを消して去らないかぎり、ずっとあり続けるのか、Twitterがあるかぎり。あるいはTwitterがなくなっても何らかの引き継ぎがなされて、こういう情報資産は大事に残されていく慣習のようなものが、この先数十年のうちに定着するものだろうか。なんか、いろいろ出てきそうではある。これで梅酒三杯はいけそうだ。

2021-11-01

昭和20年代後半の父の思い出探訪

コロナウイルスが一旦落ち着いた隙をついて、父娘で気晴らし旅行に出た。今回の行き先は、岐阜の長良川温泉。長良川といえば70年近く前、小学生だった父がおぼれて、長良川ホテルのおじさんがふんどし姿で川にとびこんで助けてくれたという。救出された父は堤防で大の字になって寝かされ、意識を取り戻して薄目をあけると、大勢の人が自分を取り囲んでいて恥ずかしいなぁと思っていたところに、家から裸足で飛び出してきたお母さん(私の祖母)が駆け寄ってきて、父をおんぶして帰ってくれた。

よくその話は聞いていて、その時のおばあちゃんの背中はさぞあったかかっただろうと、私も心温まる思い出話だった(祖母は私が生まれたその月にこの世を去ったので、私は一度も会えずじまい)。それに、そのホテルのおじさんが助けてくれなければ、うちの一家はなかったわけである。

そんな縁を感じて、今回の旅先の候補の一つに長良川を挙げてみると、父があれやこれや電話口で話しだした。いくつからいくつまでなんとか町に住んでいて、川の向こうになんとか小学校があって…と、ばんばん地名を挙げてくる。「川の向こう」と言うからには、父の脳内には「川の手前」側から見た地図が開かれているのだろうと思われ、そういう自分地図をもつ土地を70年近くぶりに訪れるというのは、なかなか乙なものではないかと思った。それに声の調子から察するに、ずいぶん懐かしそうで、行けるものなら行きたそうな雰囲気が感じ取れる。そんなわけで、じゃあ長良川で諸々手配するわねと言って、電話をきったのだった。

そのままあてをつけておいた宿を手配し、周辺の観光情報をざざっと確認し、旅程の見通しをつけると、あとはまぁ天気次第でもあるし、父の行きたいところもあろうかと、当日任せに。老舗旅館の温泉と食事、長良川と金華山と岐阜城があれば申し分ない、十分である。

結果3日間ずっと、すばらしい天気に恵まれて、ありがたいことこの上なし。秋のぽかぽか陽気の中、昔住んでいた家はどこだどこだと住宅地を歩き回り、陽光を浴びてきらきら水面光る長良川沿いをのんびり散策し、大空を舞う鳥を「鳶かー」と見上げ、河原にすっと立つ鳥を「鷺か、鵜かー」と見惚れ。ちなみに長良川ホテルは鵜飼ミュージアムになっていた。

写真リンク:父がぐんぐんいろんな所を訪ね歩くので、Googleマップは閉じて父任せに散策をたのしむ。

2日目は、これまた晴れ渡る空のもと金華山に登った。もちろんロープウェーのお世話になったのだけど、ロープウェーをおりた後、山のてっぺんの岐阜城のてっぺんまであがって織田信長の気分で天下を見渡すには、そこそこ老体に鞭打って石段を登らねばならなかった。しかしまぁ、本当に見事な景色を堪能して満足。岐阜公園、歴史博物館、大仏(正法寺)、柳ケ瀬(祖母が父を連れて買い物に足を運んだ商店街)なども周って、夕方には宿に戻ってゆったり温泉と、おいしい料理。

というわけで3日目は、図書館を訪れた。いわゆる観光地っぽいところは2日目までに周れてしまって、3日目はどうしようかと思案していたところ、その土地の図書館に行けば、当時の町の地図が見られるかもしれない!と思いつき、岐阜県立図書館へ足をのばしたのだ。

ものすごく立派な建物で、すごいすごいときょろきょろしていると、警備員さんが「景気のいいときに建てたもんでしょう」と笑って迎え入れてくださった。2階が岐阜ならではの資料の専用フロアになっている。おぉ!とテンションがあがり、父が新聞を読んでいる間に、私は地図カウンターというところへずんずん、司書さんを訪ねて事情を話すと、1956年(昭和31年)の地図があると言う。

見せてもらうと、一軒一軒、誰々さんち、誰々さんちと名前の入った、まさに町の地図がそこに。父に見せると、老眼鏡をかけて食い入るように見始めた。そして、ついに、自分が住んでいた所(らしきところ)を、ここだ!と突き止めた。父は地図の時点の1年くらい前には引っ越しているのだけど、そこには「アキチ」とカタカナで書かれていて、向かいの家の名字は記憶と合致する何々さんである。町や通りの名前も一致するし、小学校や長良川との位置関係、父親(私の祖父)と一緒に訪れていた近所の神社との位置関係も記憶と合ったようだ。

父の頭の中で、当時の思い出と、おととい歩いた今の町なみと、目の前の古い地図の3つが重なり合って咀嚼されているさまを見て、勝手に自己満足。司書さんに「ほんっとうに嬉しいです」と満面の笑みでお礼を言って、肝となる数枚を複写させてもらって旅のおみやげにした。

1956年の岐阜市の地図

旅先で図書館を訪ねたのは初めてだったけれど、派手さはないものの心踊る体験ができて楽しかった。変わるものもあれば、変わらぬものもある、そんな話をあれこれ父と話したのも、良き旅の思い出に。

*地図の出典元:「岐阜市縦横明細地図 1956年の岐阜市」(日本地図編集社)表紙、目次(分区図)、P3-4、7-8

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