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2021-09-17

完全を求める愚かと不自然

村上春樹の長編小説「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を読んだ。昭和60年(1985年)の作品なのだけど、なんだか機会を逸してずっと読んでいなかったので最近読んでみた。いやぁ、良かったなぁ。

もっと前に読んでおけば良かったと一瞬思ったけれど、いや今が1回目でちょうどいいくらいじゃないか、おまえさんには…と思い直した。村上春樹の作品を読みだした20年くらい前に読んでも、こんなふうに物語に埋め込まれたものを読み取ることはできなかっただろうし、こんなふうに主人公に共鳴したり境遇を重ね合わせて心を鷲づかみにされる感情体験は得られなかっただろう。

そう考えれば、自分がこの20年で負ったさまざまな心の痛みも、今もひりひりして時々すりすりしている思いも、意味のあるものに感じられてくる。ここにあるものなくして、この物語をこんなふうに味わうことは叶わなかったのだと思えば、曲がり角であちこち傷つくってきた経験こそ、私が人生で得た収穫とも解釈可能になるのだ。物語の力ってすごい。やっぱり人は、事実単体ではなくて、それをエッセンスに取り入れた物語を通して人生を生き、解釈し、味わっているのだと痛感する。

今回読み終えた後に、自分が折り目をつけたページを読み直してみると、「世界の終り」の章で「影」が僕に説いていることと、「ハードボイルド・ワンダーランド」の章で「老博士」が私に説いていること、ふたりが同じことを話しているのに気づいた。そして同じことを話している両方に、自分が感じいって折り目をつけていることに気づいた。

人は、過去の記憶を失おうが、自発的に何かする気力を損ねていようが、「自然とこうする、こうはしない」という行動原理を皆もっている。そして、それは人によって違う。この思考システムの独自性がアイデンティティーであり、もっと平易に言えば心のことだ。

世界の終りで、影は僕にこう言う。

心というものはそれ自体が行動原理を持っている。それがすなわち自己さ。

ハードボイルド・ワンダーランドで、老博士は私にこう言う。

人間ひとりひとりはそれぞれの原理に基づいて行動をしておるです。誰一人として同じ人間はおらん。なんというか、要するにアイデンティティーの問題ですな。アイデンティティーとは何か? 一人ひとりの人間の過去の体験の記憶の集積によってもたらされた思考システムの独自性のことです。もっと簡単に心と呼んでもよろしい。人それぞれ同じ心というのはひとつとしてない。

一方で人間は、その自分の思考システムのほとんどを把握していない。把握していなくても無意識にそうしている、という行動がたくさんある。多くの行動は、自分の意識のコントロール下になく無意識に選ばれている。

老博士は、こう続ける。

しかし人間はその自分の思考システムの殆んどを把握してはおらんです。私もそうだし、あんたもしかり。我々がそれらについてきちんと把握しているーーあるいは把握していると推察される部分は全体の十五分の一から二十分の一というあたりにすぎんのです。これでは氷山の一角とすら呼べん。

そこで私は、こう切り返す。

話の筋はわかります。しかしですね、行動の様式を現実的で表層的な行為の決定にまで敷衍(ふえん)することはできない。たとえば朝起きてパンと一緒にミルクを飲むかコーヒーを飲むか紅茶を飲むか、これは気分しだいではないのですか?

これに老博士は「実にまったく」と応じる。人の行動様式は、人の行動すべてを決定づけるものではない。その時どきで、ある行動を選んだり、別の行動を選んだり、何もしなかったりと行為を変化させる。

人は日々いろんなことを体験して行動様式を変化させていくし、さほど固定した行動様式をもたない、その時どきの気分や状況次第で行動を変える事柄もある。意識的にそうすることもあれば、無意識にしていることもある。

人の心、人の行動とは、そういうものなんだという前提は、きわめて重要なことだ。自分であれ、他人であれ、これを一つに固定してみるとか、ずっと変わらないものと決めつけてかかるとか、自分が多くを把握していてコントロールできるとみるのは、きわめて浅はかなことだ。

それは、「不完全さ」にも通じているように思う。

完全さというのはこの世には存在しない

と、影が僕に言う。私たちは不完全で、不完全な世界に生きている。だから変化のしようがある。変化する可能性をもつ。

不完全な世界に完全さを求めれば、必ず死角が生まれる。完全な世界を作ろうとすれば、そこには不完全なものを追い出す「壁」が必要になる。壁を作って、その中に完全な「街」を作る。そこに住み、その環境の維持に努めれば、その中では穏やかな安定が確保できるかもしれない。

でも「壁を作って、その中に街を作る」と、必ず「街の外」ができる。作らなくても、できる。その二項対立の関係からは、決して逃れられない。

だから、それが嫌な場合、街の中の人は「街の外」を見ないことにする、認めないことにする、無視する、排除するといったことを、やらざるをえなくなる。意識的であれ無意識であれ。そして心は変化を拒み、固定的に物事をとらえて、可能性を切り捨てるようになる。死角が生まれ、誤認が増え、「不完全さの中に成り立つ完全さ」という構図が見えなくなる。

私は、そういうのがダメだ。まったく受けつけないのだ。不自然なものがダメなのだ。そして決定的にダメなのは、その街の中では心が存在しえないことだ。私は心の生き物だ。穏やかな安定の中で心が不活性化して、いずれなくなり、心が通うということもなくなってしまうというのが、もうどうしたってダメだ。ということを、この物語を読みながら痛切に思った。

誰も傷つけあわないし、誰も憎みあわないし、欲望を持たない。みんな充ち足りて、平和に暮している。何故だと思う?それは心というものを持たないからだよ。(略)この街の完全さは心を失くすことで成立しているんだ

街の外は、心通ったり通わなかったりする、ずきずきしたり、ひりひりしたりすることも多いけれど、その混沌とした不完全を前提とした世界を私は自然に思うし、私は自分が自然と思う場所で生きていきたい。不完全で不穏な世界の中にこそ変化の可能性があり、その動きの中にこそ心の活性があるのだから、それを大事に生きていくほかない。そして閉じた街に迷い込んだときには体がびくっと反応して不自然さを覚え、街の外に出られる野生の感覚を持ち続けていたい。

戦いや憎しみや欲望がないということはつまりその逆のものがないということでもある。それは喜びであり、至福であり、愛情だ。絶望があり幻滅があり哀しみがあればこそ、そこに喜びが生まれるんだ。絶望のない至福なんてものはどこにもない。それが俺の言う自然ということさ

*村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」(新潮社)

2021-09-05

滞在2時間の帰省

夏期休暇3日目を、また単発でぽつりと取って、9月頭に実家へ帰省した。といっても滞在2時間ほど。万が一、自分がコロナでも父にうつすことなく帰れるように、アルコールティッシュで手を拭き拭きしてから門に手をかけ、玄関をあけて「ただいまー」と父に軽く挨拶すると、洗面所に直行して手洗い。仏壇で母に手をあわせている間も、居間であーだこーだ父としゃべっている間も、ずっとマスク着用。

ちなみに、行きは昼間に移動して下りに、帰りは夜に移動して上りの電車に乗るようにして混雑を避け、車中はずっと腰かけずに窓に向かって立っている。そういうことで、東京からの江戸川越えを勘弁してほしいところ。年単位ともなると、心配るところはコロナだけじゃなく、いろいろあるのだ。

父と直接会って対面で話をする、時間と空間をともにするということが、大事なんである。帰省して滞在2時間というと、なんとまぁ短いという感じだけど、会議とか打ち合わせのシーンに差し替えて考えれば、2時間1対1で話しこむというのは相当なものである。対面で受け取る情報は多様で密度も濃いし、交換できるものは他で替えがきかない。動物だもの…。

話題は、最近観た映画や読んだ本に始まり、親戚の話、日常の細々としたこと、最近のお悩み解決、ワクチン接種のこと、政治のこと、社会問題のこと、いろいろだ。出来事だけじゃなく、それについてどう思う、自分はどう考える、おまえの周りではどういう意見を聞くのかなど、いろいろに展開する。

「夜に帰る」とだけざっくり言っておくと、2時間とかいう前提もなく、仕切りもポケットもないトートバックになんでもかんでも突っ込んでいくように、思いついた順にあれこれ話せる自由さがあって良い。今回はテレビのBGMもなく、ひたすら居間でしゃべり続けていた。

そういえばスマホで「パ」はどう入力するのか、このあいだ困ってたじゃない?と言って、私がスマホで「パ」を打つやり方を教えようとすると、いや「パ」はいいんだけど、それよりこれが使えなくなっちゃって困っているんだと、父がスマホを手にとって別の困りごとを持ち出してくる。

なになにと話を訊き、どれどれと操作を試みる。ふむ解決できそうだとなると最初の設定いじりは一通りやってしまって、日常的に使う部分だけ操作を模範演技して見せる。対面で指示語使いまくりの説明は、最強である。「ここをこうやって、こうすると、こうなるじゃん、ほら、これでできた」と、簡単さを印象づける。

「お、ほんとだ!」と向こうも乗ってきたら、「じゃあちょっと演ってみてよ」と、今私がやったのを自分で操作してもらう。途中でつまずけば、すぐフォローする。できたら、よかったよかったと祝う。やって見せて「へぇなるほど、よかった、ありがとう」で満足して終わらせてはいけない。

それから、自分が最初に手元でいじったのも、何を意図してどういじったか簡単な説明を添えておく。「お父さんがチェックしたいっていう5つを今ここで登録して、ここを押したらすぐ見られるようにしたんだよ」など。聞き流されているようでも、ここは律儀に添えておきたい。

それからまた、あーだこーだおしゃべりをして1時間ほどしたところで、買っておいてくれたという冷蔵庫の梨を食べようかと持ちかける。「むいてくれたら食べるよ」というので、台所に立って皮をむいて一口サイズにして皿に並べる。それを一緒に食べる。「果物ってなかなか食べなくなっちゃったんだよな」「私は、りんごはよく食べるよ。でも梨は久しぶり、名産ね」なんて、おしゃべりしながら。時間と空間をともにするというのは、そういうことだと思う。

うちの父はものすごいしゃべるので、2時間のあいだに健康チェックも。「もう認知症やから」が口癖の父だけど、べらべらしゃべっている中で「あー、あれは懲役ちゃうわ、禁錮やな」とか、いま自分がしゃべったことの言い間違いを、速攻で自分で突っ込んで訂正入れたりしているのに、ひそかに安堵したりもして。

自分が仕事していて、あぁ父譲りだなぁと思うところを話したりすると、父はちょっと恥ずかしそうにして「おまえたちを育てたのは、お母さんだ」と返してくる。私が「このおうちを新しく建て替えたのだって、お父さんが頑張って働いて建てたんでしょう」と言い返すと、「家のことだって全部、彼女がやってくれた、最期まで働いて」と譲らない。まぁそんなやりとりを何度となく繰り返しているんだけど、私は私でお父さんのおかげで今の自分があることを、ちょいちょい帰っては言い添え続けるのだ。

ちなみに「パ」の入力方法も教えて帰ってきた。短い時間だったけれど、帰って良かったな。

2021-09-02

「Web系キャリア探訪」第33回、社会の”当たり前”をアップデートする仕事

インタビュアを担当しているWeb担当者Forum連載「Web系キャリア探訪」第33回が公開されました。今回は、生まれつき全盲の辻勝利さんが中学時代にコンピュータを使い始め、1995年にインターネットにつながって、Webのアクセシビリティエンジニアとしてキャリアを積み、ミツエーリンクス、コンセントなど経て、今月からクラウド人事労務ソフトの「SmartHR」に参画するまでの道のりを取材しました。

障害者に「やさしい」は不要。アクセシブルが当たり前の世の中に変えたい!

いち早くコンピュータを使って「点字ではなく、文字で」読み書きコミュニケーションする手段を取り入れ、いち早くスクリーンリーダーを介して「文字を聴く」情報のインプット手段を取り入れてこられた辻さん。

コンピュータやインターネットが普及する以前から今日に至るまで、さまざまな制約に直面してこられた。けれど、その課題に対して受け身をとるというのではなくて、Webアクセシビリティエンジニアとしての職業的専門性を磨き上げ、真っ向から挑んできたことに敬服します。

視覚障害による制約って、視覚障害の側に問題をおくのではなく、それが制約になる社会環境のほうに問題をおいてとらえたほうが、いろんな人が課題解決に参画しやすいと思っていて。前者だと、どうしても医学とかに素人発想で偏っちゃうんだけど、後者の社会環境のほうなら、いろんな立場の人がいろんな切り口で、いろんな階層で手をくわえていって、大小さまざまの問題を軽くしたり無くしたりできるイメージを持っています。

また、例えば視力が低い人ってことで考えると、眼鏡やコンタクトなしで外に出歩くのは危険すぎるって人が現代はたくさんいると思うけれど、それでも大きな支障なく生活したり仕事したりできているわけで。技術って、その進化をうまく取り入れて社会をアップデートしていけるのがいいよなという思いがあります。

それがまた、コンピュータ、インターネット、Webっていうお膳立てあるところで仕事している職業に就いているんだったら、その「アクセシブルな社会を実現できる」って原点的な3種の強み、3層の厚みを生かさない手はないというか、封じ込めるのはナンセンスだよなと、そんなふうな思いがあって。そういう思いを、それぞれの持ち場で職能を磨いて、きちんと社会に実装していけるといい。

辻さんはその先頭で、奮闘している。クライアント案件にとどまらず、官民共同の研究会活動やオープンソースプロジェクトなど、活動領域も多岐にわたり、今月初めにはSmartHRに転職。受託サイドから事業会社に身を移して、自社プロダクトを普及させて「社内システムはアクセシブルが当たり前の社会を作っていく」というミッションを掲げています。

もはやコンピュータ、インターネット、Webを使うのが当たり前になった世の中で、視覚障害ある後輩たちが、当たり前に単独で人事労務の諸手続きや確認ができ、本業に集中できる環境づくりに邁進。ぜひお時間の良いときに読んでみてくださいませ。

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