完全を求める愚かと不自然
村上春樹の長編小説「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を読んだ。昭和60年(1985年)の作品なのだけど、なんだか機会を逸してずっと読んでいなかったので最近読んでみた。いやぁ、良かったなぁ。
もっと前に読んでおけば良かったと一瞬思ったけれど、いや今が1回目でちょうどいいくらいじゃないか、おまえさんには…と思い直した。村上春樹の作品を読みだした20年くらい前に読んでも、こんなふうに物語に埋め込まれたものを読み取ることはできなかっただろうし、こんなふうに主人公に共鳴したり境遇を重ね合わせて心を鷲づかみにされる感情体験は得られなかっただろう。
そう考えれば、自分がこの20年で負ったさまざまな心の痛みも、今もひりひりして時々すりすりしている思いも、意味のあるものに感じられてくる。ここにあるものなくして、この物語をこんなふうに味わうことは叶わなかったのだと思えば、曲がり角であちこち傷つくってきた経験こそ、私が人生で得た収穫とも解釈可能になるのだ。物語の力ってすごい。やっぱり人は、事実単体ではなくて、それをエッセンスに取り入れた物語を通して人生を生き、解釈し、味わっているのだと痛感する。
今回読み終えた後に、自分が折り目をつけたページを読み直してみると、「世界の終り」の章で「影」が僕に説いていることと、「ハードボイルド・ワンダーランド」の章で「老博士」が私に説いていること、ふたりが同じことを話しているのに気づいた。そして同じことを話している両方に、自分が感じいって折り目をつけていることに気づいた。
人は、過去の記憶を失おうが、自発的に何かする気力を損ねていようが、「自然とこうする、こうはしない」という行動原理を皆もっている。そして、それは人によって違う。この思考システムの独自性がアイデンティティーであり、もっと平易に言えば心のことだ。
世界の終りで、影は僕にこう言う。
心というものはそれ自体が行動原理を持っている。それがすなわち自己さ。
ハードボイルド・ワンダーランドで、老博士は私にこう言う。
人間ひとりひとりはそれぞれの原理に基づいて行動をしておるです。誰一人として同じ人間はおらん。なんというか、要するにアイデンティティーの問題ですな。アイデンティティーとは何か? 一人ひとりの人間の過去の体験の記憶の集積によってもたらされた思考システムの独自性のことです。もっと簡単に心と呼んでもよろしい。人それぞれ同じ心というのはひとつとしてない。
一方で人間は、その自分の思考システムのほとんどを把握していない。把握していなくても無意識にそうしている、という行動がたくさんある。多くの行動は、自分の意識のコントロール下になく無意識に選ばれている。
老博士は、こう続ける。
しかし人間はその自分の思考システムの殆んどを把握してはおらんです。私もそうだし、あんたもしかり。我々がそれらについてきちんと把握しているーーあるいは把握していると推察される部分は全体の十五分の一から二十分の一というあたりにすぎんのです。これでは氷山の一角とすら呼べん。
そこで私は、こう切り返す。
話の筋はわかります。しかしですね、行動の様式を現実的で表層的な行為の決定にまで敷衍(ふえん)することはできない。たとえば朝起きてパンと一緒にミルクを飲むかコーヒーを飲むか紅茶を飲むか、これは気分しだいではないのですか?
これに老博士は「実にまったく」と応じる。人の行動様式は、人の行動すべてを決定づけるものではない。その時どきで、ある行動を選んだり、別の行動を選んだり、何もしなかったりと行為を変化させる。
人は日々いろんなことを体験して行動様式を変化させていくし、さほど固定した行動様式をもたない、その時どきの気分や状況次第で行動を変える事柄もある。意識的にそうすることもあれば、無意識にしていることもある。
人の心、人の行動とは、そういうものなんだという前提は、きわめて重要なことだ。自分であれ、他人であれ、これを一つに固定してみるとか、ずっと変わらないものと決めつけてかかるとか、自分が多くを把握していてコントロールできるとみるのは、きわめて浅はかなことだ。
それは、「不完全さ」にも通じているように思う。
完全さというのはこの世には存在しない
と、影が僕に言う。私たちは不完全で、不完全な世界に生きている。だから変化のしようがある。変化する可能性をもつ。
不完全な世界に完全さを求めれば、必ず死角が生まれる。完全な世界を作ろうとすれば、そこには不完全なものを追い出す「壁」が必要になる。壁を作って、その中に完全な「街」を作る。そこに住み、その環境の維持に努めれば、その中では穏やかな安定が確保できるかもしれない。
でも「壁を作って、その中に街を作る」と、必ず「街の外」ができる。作らなくても、できる。その二項対立の関係からは、決して逃れられない。
だから、それが嫌な場合、街の中の人は「街の外」を見ないことにする、認めないことにする、無視する、排除するといったことを、やらざるをえなくなる。意識的であれ無意識であれ。そして心は変化を拒み、固定的に物事をとらえて、可能性を切り捨てるようになる。死角が生まれ、誤認が増え、「不完全さの中に成り立つ完全さ」という構図が見えなくなる。
私は、そういうのがダメだ。まったく受けつけないのだ。不自然なものがダメなのだ。そして決定的にダメなのは、その街の中では心が存在しえないことだ。私は心の生き物だ。穏やかな安定の中で心が不活性化して、いずれなくなり、心が通うということもなくなってしまうというのが、もうどうしたってダメだ。ということを、この物語を読みながら痛切に思った。
誰も傷つけあわないし、誰も憎みあわないし、欲望を持たない。みんな充ち足りて、平和に暮している。何故だと思う?それは心というものを持たないからだよ。(略)この街の完全さは心を失くすことで成立しているんだ
街の外は、心通ったり通わなかったりする、ずきずきしたり、ひりひりしたりすることも多いけれど、その混沌とした不完全を前提とした世界を私は自然に思うし、私は自分が自然と思う場所で生きていきたい。不完全で不穏な世界の中にこそ変化の可能性があり、その動きの中にこそ心の活性があるのだから、それを大事に生きていくほかない。そして閉じた街に迷い込んだときには体がびくっと反応して不自然さを覚え、街の外に出られる野生の感覚を持ち続けていたい。
戦いや憎しみや欲望がないということはつまりその逆のものがないということでもある。それは喜びであり、至福であり、愛情だ。絶望があり幻滅があり哀しみがあればこそ、そこに喜びが生まれるんだ。絶望のない至福なんてものはどこにもない。それが俺の言う自然ということさ
*村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」(新潮社)
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