物語に埋め込まれた、もの語りの役目
8月は熱心に、村上春樹の「1Q84」(*1)を読んだ。3冊あわせて1,600ページに及ぶ長編小説。出版された直後にBOOK1、2は読んでいたのだけど、BOOK3が出るまで期間があいたので、そこで止まってしまっていたのを今回まとめて一気読みした。といっても、私は本を読むのが遅いので、読み終わるまでけっこうな日数をかけたけれど、毎日飽くことなく続きを読んでいるうち終わりに到達した。
立ち止まって、ここのところを読み返してみると、これは村上春樹が「1Q84」という物語において、1Q84とは何か、空気さなぎとは何か、リトル・ピープルとは何かについて説明的な結論をつけず、読者をミステリアスな疑問符のプールに浮かばせたまま小説を終えたことと重ねて読める気もしてくる。
それは作家の怠慢か。もしかして読者の怠慢なのでは?とも思われてくるのだった。作家が読者に期待するところとも、言い換えられるかもしれない。残された疑問符を引き取って、それをどうするもしないも、それは読者の役目なのではないかと(私の勝手な解釈だが)。
また別の箇所には、「物語の役目」を率直に示す文も出てくる。
物語の役目は、おおまかな言い方をすれば、ひとつの問題をべつのかたちに置き換えることである。そしてその移動の質や方向性によって、解答のあり方が物語的に示唆される。天吾はその示唆を手に、現実の世界に戻ってくる。それは理解できない呪文が書かれた紙片のようなものだ。時として整合性を欠いており、すぐに実際的な役には立たない。しかしそれは可能性を含んでいる。いつか自分はその呪文を解くことができるかもしれない。そんな可能性が彼の心を、奥の方からじんわりと温めてくれる。
天吾を読者に読みかえれば、「読者はその示唆を手に、現実の世界に戻ってくる」と、私ごとにすることもできる。物語に埋め込まれた可能性を読み取り、心温め、自分で呪文を解く力に転換していって自分の現実世界で生きるのが、読者の役目とも思える。
天吾は、数学を得意とし、小説家を志す30歳の男性。数学の世界と物語の世界に通じる彼は、「数学」と対比する形で「物語」の、脆弱な整合性と、強みとなりうる可能性をとらえる。
数学と対比して、もの語り(ナラティヴ)の意義を解く文章は、別のところでも最近読んだ。やまだようこ氏の「ナラティブ研究 語りの共同生成」(*2)に書いてあったことが、これと符合するように思い出された。
この本によれば、心理学者のヴィゴツキー氏は次のような問いを立てたという。
「なぜ、芸術家は、出来事の単純な年代順の配列に満足しないのだろうか?なぜ、もの語りの直線的展開を避けて、二点の最短距離を進むかわりに曲線を好むのだろうか?」
なかなか色っぽい問いの立て方をするなぁと感服しながら読んだのだ。「1Q84」の中でも、時間について、人は「便宜的にそれを直線として認識」しているだけで、あるいは「ねじりドーナツみたいなかたちをしているのかもしれない」という話が出てきたことを思い出す。
ヴィゴツキーの問いを引き合いに出して、やまだようこ氏は「数学」と「もの語り」を比べてみせる。
数学的には、年代順に並べ、最短距離をむすぶほうが効率がよいでしょう。(中略)しかし、人間は数学的に生きているよりは、もの語り的な意味の世界に生きています。もの語りとして意味をもつ「連結」「構成」のルールは、数学的合理性をもつとは限りませんが、もの語り的合理性はあるはずです。
やまだようこ氏は、もの語りを「二つ以上の出来事を結びつけて筋立てる行為」と定義して、「事実は変えられないが、もの語りの意味は変えられる」と解く。
人間は、ナラティヴによって個々の行動を選択し、構成し、経験として組織し、出来事を意味づけている。個々の出来事や要素が同じでも、それをどのように関連づけ、組織立て、筋立て、編集するかによって、人生の意味は大きく変化する。また、もの語りは、完成品ではなく、たえず語り直しがなされ、構成と再構成を続けるとみなされる。
一つの出来事に続ける文が「〜ということがあった。だから自分は(ネガティブな見解)だ」とするのも、「〜ということがあった。だから自分は(ポジティブな見解)だ」とするのも自由。同じ出来事に、いろんな解釈を続ける自由があるし、一度どちらかに方向づけた解釈も結論も、別のかたちに変化させる自由と可能性を誰しも持っている。接続詞を「だから〜」から「それでも〜」とか「だが、しかし〜」に順接・逆説を行き来させることだって自在だし、「〜ということがあった」という出来事をどれくらい重視するか軽視するかだって変えられる。その変幻自在性を発揮できることこそ、人間の営みの最たる魅力の一つだよなぁと思う。
自分の生業として、私はこの可能性にかかわっていきたいんだよな。人の話を聴くのがおもしろいのも、人とじっくり話しこむ中で別の解釈が出てきたり、意味が深まったり広がったりポジティブに転じていくのも有意義。そういうところで仕事をしていきたいし、そういう底力を鍛錬していくのに小説を読むことはすごくよく作用するんだよな、とも思う。
*1: 村上春樹「1Q84」(新潮社)
*2: やまだようこ「ナラティブ研究 語りの共同生成」(新曜社)
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