浮世絵展「江戸の天気」で心涼む
何やらいろいろなことに揺さぶられている間に、8月も暮れ。まだ夏期休暇を1日しかとっておらず、その1日もワクチン接種の副反応で床に伏していたので、夏休みらしい記憶が一つもないまま今に至る。例年そんなものだろうという気もするが、それにしても今年は格別だ。
私の勤め先は6〜9月の間に各自業務の都合をつけて5日間の夏期休暇をとることになっているので、あとひと月の間に隙きをついて夏を入れたいところ。9月後半は休めなさそうな気がするので、このさき2週間ほどのうちにポツポツ休みを入れて、あと4日分コンプリートしたい。
というわけで昨日は、あれこれの気晴らしに2日目の夏休みをポツリと取った。とりあえず一息入れよう…というくらいの感じで、ひっそり取得。
夕方くらいになって、会期終了間際の「江戸の天気」の浮世絵展を観に行こうと思い立ち、とことこ表に出ていって鑑賞してきた。場所はラフォーレ原宿の裏手にある、浮世絵専門の太田記念美術館。一度足を運んでみたかったのだ。
人家としてみれば大きなお屋敷だが、美術館としてみれば小ぶりの一軒家で、黄昏どきに出かけていって一周りするにはちょうど良かったし、来館者も数人しかいなかったので、1枚1枚時間をかけて静かに堪能できた。1時間ちょっと滞在。
ここにある浮世絵は、五代 太田清藏が蒐集したコレクション約12,000点にも及ぶというが、いろんなテーマを設けて定期的に展示作品を入れ替えているので、1回で見られるのは50点くらいか。この週末までは「江戸の天気」。このテーマに惹かれて、ずっと気になっていたのだ。
入館してみると、来館者は1階に1〜2人、2階に1〜2人。館内は適温に保たれ、絵が遜色しないように照明は抑えられ、人の声も物音も一切なく、しーんと静まりかえっている。
200年も前に描かれた江戸の風景、市井の風俗、庶民の生活をあれこれ眺めていると、心が涼やかになった。
展示作品は、1800年代のものが中心。浮世絵は江戸時代初期に墨一色から始まったようだけど、工夫改良されるうちに見事な多色摺りに発展、展示されている多くは実に色鮮やか。明治になると化学系の絵具が輸入されて使われるようになったようだけど、幕末までは植物の花や木の皮からとったものを色料としていたそう。
雪が降る隅田川沿いの屋根船の女性3人は、それぞれの着物の色の美しさに目を見張った。歌川国貞の「玄徳風説訪孔明 見立」(1820年)。見立というのは「歴史や物語の一場面を踏まえながら、江戸時代の人物の姿に置き換えること」らしく、今でいうパロディ。これは「三国志」の英雄、劉備玄徳が、雪が降りしきる中、諸葛亮孔明を訪れる「三顧の礼」のパロディだそうで、孔明の家を訪れる劉備、関羽、張飛の3人が、江戸時代の美女3人に置き換えられて描かれている。
あと、すごい時間をかけて見入ってしまったのは、潮干狩りの様子を描いた歌川貞秀の汐干狩の図(1849-52)。手前のほうでは女性や子どもたちが貝や魚をもりもり獲っていて、その背景には蕎麦の屋台があったり、船の上に立って酒や肴を売る商人、子どものおもちゃを売る行商人がいる。ワイワイにぎやか。女性と子どもは裸足なんだけど、右手の忍者みたいなかっこうした男性たちは足駄(あしだ)とかいう高下駄をはいている。
この展覧会は天気をテーマにしていることもあって、雨降りの絵が多く展示されていたのだけど、雨の中を傘さして、ぬかるんだ土の上を高下駄はいて歩く人たちが多く描かれていて、高下駄は今の長靴みたいな役割で使っていたのかーなんて思い巡らせながら、いろんな人たちの足もとを注意して観たりした。
この夏は、同僚の訃報があったり、あれこれの出来事や物語に触れる中で、今自分が「もっている」と感じている、大事な人たちと過ごしたかけがえない思い出も、一言で語りえぬ複雑な感情も、自分がなぜだか情熱的にもっていて手放せない考えや信念も、今この世界で自分が意識しているもの根こそぎ無に帰すらしい、いずれやってくる死というものに、怯えと諦観のないまぜを覚えたひと時だった。
私は絵の技法にも歴史にもうといので、この時代の人たちはどんなふうに生きていたんだろうな、どんな風景を見ながら暮らしていたんだろうなというふわふわした関心だけで鑑賞したが、このお出かけは心を涼やかにしたし、いくらか救われた気もする。日本橋川の透き通った水面は美しく、至るところから富士山が望める様子は開放的で、隅田川のあたりから富士山の絶景を眺める人たちの様子なども、気持ちをほころばせてくれた。
« ワクチン接種2回目の副反応を脱す | トップページ | 物語に埋め込まれた、もの語りの役目 »
コメント