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2021-08-31

「均衡を保つ」という大仕事

小説を読んでいると、何か思うより先に一筋の涙が頬をつたっていて、なぜ泣いた?と事後的に確認作業にあたることがある。もう一度その辺りを読み直してみて、意識より先に心奥が反応した場所を探りあてる。村上春樹の「1Q84」(*1)を読んでいて、それが起きたのはここだった。

「この世には絶対的な善もなければ、絶対的な悪もない」と男は言った。「善悪とは静止し固定されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ。ひとつの善は次の瞬間には悪に転換するかもしれない。逆もある。(中略)重要なのは、動き回る善と悪とのバランスを維持しておくことだ。どちらかに傾き過ぎると、現実のモラルを維持することがむずかしくなる。そう、均衡そのものが善なのだ。

気がついたら、泣いていた。自分は「均衡」に対する思い入れが強い。場の均衡を保つために、歯を食いしばって涙をのんだこともあれば、率先して人前で意見したことも。何が私を黙らせたのか、突き動かしたのか、もとをたどると「場の均衡を保つため」だったと思う例が少なくない。

均衡を保つというのは、実際やろうとすると、大変な大仕事である。全身全霊でやらないとできない。

そのことについて、あれこれもやもや考えたことを整理しようと試みつつメモったことを書き残すが、整理はまったくつかなかった…。

1)時間経過で、善悪は入れ替わる

まず、時間経過とともに善悪が転じうるとすれば、その転換が起きたとき、それに気づけないといけない。そのためには教養が必要になる。動き回る善と悪とのバランスが崩れ始めたとき、それに気づくためには、自分が物心ついてから何十年だか目の前で常識とされてきたことを絶対視しない状態をつくっておかないといけない。

山口周さんは、そこに教養をもつ意味があると、著書の中で説いていた。人は「目の前の常識を絶対的なものだと考えがち」であり、「厚い知識ストックを持つことで、目の前の常識を相対化できる」というようなことを書いていて、なるほどなと思ったメモが手元に残っている。これは、なにぶんこれまでの蓄えが少ないので、のんびり一生養っていくしかないけれど…。

ともかく、人は時間の経過から逃れられない。生きているかぎり、時間の進行にのっかって活動する。そこには必ず変化が加わる。時間も、時間経過による変化も、人には止められない。いくらかの抵抗はできても、完全に変化を静止して固定する力はもたない。人の体も脳も心も変わり続けるし、社会の構造も自然界のありようも変化する。それに気づいて適応できないといけない。

私は、道を歩いている間に雨がやんだら、それに気づいて傘を閉じたい。空を見上げて歩きたい。変化に気づいて、それに適応して生きていきたい。均衡を保つためには、変化に気づいて動的に適応できないといけない。話、つながっているかな(不安…)。

2)場所や立場の違いで、とらえ方は変わる

たとえ同じ時間の中にあっても、場所や立場によって、善悪のとらえ方は異なる。自分の側から見たそれと、あちら側から見たそれでは、見え方が違う。「1Q84」の中では、あゆみが青豆(主人公の一人)にかける、こんな言葉がある。

「世界というのはね、青豆さん、ひとつの記憶とその反対側の記憶との果てしない闘いなんだよ」

人は、一つの場所にしか存在できないし、一つの立場しかとれない。いろんな視点をもとうと努めることはできても、限界がある。物理的に自分がいられる場所は一箇所だ。たいてい、こちら側からみる景色のほうが鮮明で、向こう側からみる景色は想像の域。こちら側がおかれた環境には詳しく、向こう側がおかれた環境を十分に推し量ることは難しい。そこには当然、双方の闘いも生まれやすい。

一方で、人は複雑な環境の中で生きている。あることで加害者と被害者の立場に2人を分けてみても、また別の枠組みでみれば、加害者は何かの被害者でありうるし、一人の人間をそう簡単に1つのラベルづけで決着はできない。みんな、いろんな場所で、いろんな立場、背景、環境を複雑にからませて生きていて、結果責任を負っている。

こちらでは雨は止んでいても、向こうはまだ土砂降りかもしれない。こちらは雨あがれば万事OKでも、向こうでは川の氾濫や土砂崩れの心配がしばらく続くかもしれない。こちらは自分のことだけで済むかもしれないが、向こうは家族の世話、近所の見回り、仕事の特別なケアが必要かもしれない。話、つながっているのか(不安高まる)。

3)個性による価値判断の違いも

人の個性によっても、善悪の価値観、快・不快は違うし、信頼をおくもの、大事にしたいものには違いがある。自分とは違うものを他者がもっている、そのことを受け入れて、それはそれとして尊重する構えをとらないことには、世の中どうにも収拾がつかない。

やまだようこ氏の「ナラティブ研究 語りの共同生成」(*2)の言葉を引けば、

真実を一つとみなさないで、立場によって多様で多声的な見方があると考える

集約・到達・追求すべき「一つの善」があるという前提で世界を見だしたら行き詰まってしまう。いろいろあって、1つにはまとまらない前提で、均衡を保つこと。それが善を成り立たせる唯一の道のように思える。

傘さしっぱなしで何が悪い、むしろしばらく傘をさして雨の終わりを名残惜しんで歩きたい人もいて、それはそれで構わない。親切心で「雨やんでますよ」と声をかけるのが善か、かけないのが善か、答えは一つじゃない。もはや話が迷走しすぎて引き返す術もない(ので書き続ける)。

4)自然界にあふれる二項対立の概念

人間という生き物を含めた自然界には、二項対立した概念がある。二項対立というのは、「二つの概念が存在しており、それらが互いに矛盾や対立をしている一対の関係にあること」というのが辞書的な意味。

例えば陸と海。陸がなければ海という概念も成り立たない。1つだけでは、2つを区別する言葉は生起せず、そのコンセプトは成り立たない。そういうものが、自然界にはたくさんある。たくさんあるといえばいいのか、そういうものに対して人間が言葉を与えたといえばいいのか。

昼と夜、天と地、光と影、明と暗、運動と静止、生と死、白と黒、オスとメス、もっと人間社会に寄せると、善と悪、正と誤、自と他、愛と憎、表と裏、内と外、先と後、前と後ろ、右と左とか。

「1Q84」でいうと、先ほどの「男」が青豆に、こんな話をする。

「光があるところには影がなくてはならないし、影のあるところには光がなくてはならない。光のない影はなく、また影のない光はない。カール・ユングはある本の中でこのようなことを語っている。『影は、我々人間が前向きな存在であるのと同じくらい、よこしまな存在である。我々が善良で優れた完璧な人間になろうと努めれば努めるほど、影は暗くよこしまで破壊的になろうとする意思を明確にしていく。人が自らの容量を超えて完全になろうとするとき、影は地獄に降りて悪魔となる。なぜならばこの自然界において、人が自分自身以上のものになることは、自分自身以下のものになるのと同じくらい罪深いことであるからだ』

5)二項対立する概念の間には、補償関係が働いている

大事なことは、二項対立する概念の間に、補償関係があること。そのようにして、均衡は維持されるようにできている。

しかし大事なのは、彼らが善であれ悪であれ、光であれ影であれ、その力がふるわれようとする時、そこには必ず補償作用が生まれるということだ。(中略)そのようにして均衡が維持された。

自然界も、人も、2者の一方だけを追求しているとどこかで無理がくる。そして、均衡を維持する作用が働く。みんな、光も影ももっている。明のときもあれば、暗のときもある。一貫してずっと光の中にはいられない。無視していれば、いずれ影が勝手に暴れだす。一方で、影しかもたない人もいなくて、影を裏返してみれば、そこにはその人の光を探り当てることができる。

私はそういう前提で、人のサポートという仕事に関わりたい。必要ないときに、支援などいらない。でも入用なタイミングがあれば、そのときに働きたい。暗い中に光を探したいし、強い人の脆さを認めたいし、完璧じゃないところにゴールをつくり出したい。話がずいぶん混迷をきわめてきたな。なんで、こんなことを考えるんだろうな。やれやれだなぁ。まぁ、とりあえずメモできたからいいや。

*1: 村上春樹「1Q84」(新潮社)
*2: やまだようこ「ナラティブ研究 語りの共同生成」(新曜社)

2021-08-29

物語に埋め込まれた、もの語りの役目

8月は熱心に、村上春樹の「1Q84」(*1)を読んだ。3冊あわせて1,600ページに及ぶ長編小説。出版された直後にBOOK1、2は読んでいたのだけど、BOOK3が出るまで期間があいたので、そこで止まってしまっていたのを今回まとめて一気読みした。といっても、私は本を読むのが遅いので、読み終わるまでけっこうな日数をかけたけれど、毎日飽くことなく続きを読んでいるうち終わりに到達した。

読み進めながら改めて思ったのは、私が村上春樹の小説から読み取っているのは、ストーリーの行方というより、物語の文中に村上春樹が何を埋め込んでいるかなんだなということ。ゆえに結論BOOK3でどうなるか、どう話が着地するのかにさほど重きはなく、3冊の中のあちらこちらに埋め込まれた示唆に立ち止まっては、拾い集め、自分の中の何かに結びつけて咀嚼する、そこにこそ読み応えを感じているようなのだった。

「1Q84」の中には、この点でも考えさせられるところがあった。この小説の中には『空気さなぎ』という小説が出てくるのだけど、この作品を批評家の一人が、こう書評する一節がある。

「物語としてはとても面白くできているし、最後までぐいぐいと読者を牽引していくのだが、空気さなぎとは何か、リトル・ピープルとは何かということになると、我々は最後までミステリアスな疑問符のプールの中に取り残されたままになる。あるいはそれこそが著者の意図したことなのかもしれないが、そのような姿勢を<作家の怠慢>と受け取る読者は決して少なくないはずだ。(略)」

これを読んだ天吾(主人公の一人)は首をひねる。

「物語としてはとても面白くできているし、最後までぐいぐいと読者を牽引していく」ことに作家がもし成功しているとしたら、その作家を怠慢と呼ぶことは誰にもできないのではないか。

立ち止まって、ここのところを読み返してみると、これは村上春樹が「1Q84」という物語において、1Q84とは何か、空気さなぎとは何か、リトル・ピープルとは何かについて説明的な結論をつけず、読者をミステリアスな疑問符のプールに浮かばせたまま小説を終えたことと重ねて読める気もしてくる。

それは作家の怠慢か。もしかして読者の怠慢なのでは?とも思われてくるのだった。作家が読者に期待するところとも、言い換えられるかもしれない。残された疑問符を引き取って、それをどうするもしないも、それは読者の役目なのではないかと(私の勝手な解釈だが)。

また別の箇所には、「物語の役目」を率直に示す文も出てくる。

物語の役目は、おおまかな言い方をすれば、ひとつの問題をべつのかたちに置き換えることである。そしてその移動の質や方向性によって、解答のあり方が物語的に示唆される。天吾はその示唆を手に、現実の世界に戻ってくる。それは理解できない呪文が書かれた紙片のようなものだ。時として整合性を欠いており、すぐに実際的な役には立たない。しかしそれは可能性を含んでいる。いつか自分はその呪文を解くことができるかもしれない。そんな可能性が彼の心を、奥の方からじんわりと温めてくれる。

天吾を読者に読みかえれば、「読者はその示唆を手に、現実の世界に戻ってくる」と、私ごとにすることもできる。物語に埋め込まれた可能性を読み取り、心温め、自分で呪文を解く力に転換していって自分の現実世界で生きるのが、読者の役目とも思える。

天吾は、数学を得意とし、小説家を志す30歳の男性。数学の世界と物語の世界に通じる彼は、「数学」と対比する形で「物語」の、脆弱な整合性と、強みとなりうる可能性をとらえる。

数学と対比して、もの語り(ナラティヴ)の意義を解く文章は、別のところでも最近読んだ。やまだようこ氏の「ナラティブ研究 語りの共同生成」(*2)に書いてあったことが、これと符合するように思い出された。

この本によれば、心理学者のヴィゴツキー氏は次のような問いを立てたという。

「なぜ、芸術家は、出来事の単純な年代順の配列に満足しないのだろうか?なぜ、もの語りの直線的展開を避けて、二点の最短距離を進むかわりに曲線を好むのだろうか?」

なかなか色っぽい問いの立て方をするなぁと感服しながら読んだのだ。「1Q84」の中でも、時間について、人は「便宜的にそれを直線として認識」しているだけで、あるいは「ねじりドーナツみたいなかたちをしているのかもしれない」という話が出てきたことを思い出す。

ヴィゴツキーの問いを引き合いに出して、やまだようこ氏は「数学」と「もの語り」を比べてみせる。

数学的には、年代順に並べ、最短距離をむすぶほうが効率がよいでしょう。(中略)しかし、人間は数学的に生きているよりは、もの語り的な意味の世界に生きています。もの語りとして意味をもつ「連結」「構成」のルールは、数学的合理性をもつとは限りませんが、もの語り的合理性はあるはずです。

やまだようこ氏は、もの語りを「二つ以上の出来事を結びつけて筋立てる行為」と定義して、「事実は変えられないが、もの語りの意味は変えられる」と解く。

人間は、ナラティヴによって個々の行動を選択し、構成し、経験として組織し、出来事を意味づけている。個々の出来事や要素が同じでも、それをどのように関連づけ、組織立て、筋立て、編集するかによって、人生の意味は大きく変化する。また、もの語りは、完成品ではなく、たえず語り直しがなされ、構成と再構成を続けるとみなされる。

一つの出来事に続ける文が「〜ということがあった。だから自分は(ネガティブな見解)だ」とするのも、「〜ということがあった。だから自分は(ポジティブな見解)だ」とするのも自由。同じ出来事に、いろんな解釈を続ける自由があるし、一度どちらかに方向づけた解釈も結論も、別のかたちに変化させる自由と可能性を誰しも持っている。接続詞を「だから〜」から「それでも〜」とか「だが、しかし〜」に順接・逆説を行き来させることだって自在だし、「〜ということがあった」という出来事をどれくらい重視するか軽視するかだって変えられる。その変幻自在性を発揮できることこそ、人間の営みの最たる魅力の一つだよなぁと思う。

自分の生業として、私はこの可能性にかかわっていきたいんだよな。人の話を聴くのがおもしろいのも、人とじっくり話しこむ中で別の解釈が出てきたり、意味が深まったり広がったりポジティブに転じていくのも有意義。そういうところで仕事をしていきたいし、そういう底力を鍛錬していくのに小説を読むことはすごくよく作用するんだよな、とも思う。

*1: 村上春樹「1Q84」(新潮社)
*2: やまだようこ「ナラティブ研究 語りの共同生成」(新曜社)

2021-08-28

浮世絵展「江戸の天気」で心涼む

何やらいろいろなことに揺さぶられている間に、8月も暮れ。まだ夏期休暇を1日しかとっておらず、その1日もワクチン接種の副反応で床に伏していたので、夏休みらしい記憶が一つもないまま今に至る。例年そんなものだろうという気もするが、それにしても今年は格別だ。

私の勤め先は6〜9月の間に各自業務の都合をつけて5日間の夏期休暇をとることになっているので、あとひと月の間に隙きをついて夏を入れたいところ。9月後半は休めなさそうな気がするので、このさき2週間ほどのうちにポツポツ休みを入れて、あと4日分コンプリートしたい。

というわけで昨日は、あれこれの気晴らしに2日目の夏休みをポツリと取った。とりあえず一息入れよう…というくらいの感じで、ひっそり取得。

夕方くらいになって、会期終了間際の「江戸の天気」の浮世絵展を観に行こうと思い立ち、とことこ表に出ていって鑑賞してきた。場所はラフォーレ原宿の裏手にある、浮世絵専門の太田記念美術館。一度足を運んでみたかったのだ。

人家としてみれば大きなお屋敷だが、美術館としてみれば小ぶりの一軒家で、黄昏どきに出かけていって一周りするにはちょうど良かったし、来館者も数人しかいなかったので、1枚1枚時間をかけて静かに堪能できた。1時間ちょっと滞在。

ここにある浮世絵は、五代 太田清藏が蒐集したコレクション約12,000点にも及ぶというが、いろんなテーマを設けて定期的に展示作品を入れ替えているので、1回で見られるのは50点くらいか。この週末までは「江戸の天気」。このテーマに惹かれて、ずっと気になっていたのだ。

入館してみると、来館者は1階に1〜2人、2階に1〜2人。館内は適温に保たれ、絵が遜色しないように照明は抑えられ、人の声も物音も一切なく、しーんと静まりかえっている。

200年も前に描かれた江戸の風景、市井の風俗、庶民の生活をあれこれ眺めていると、心が涼やかになった。

展示作品は、1800年代のものが中心。浮世絵は江戸時代初期に墨一色から始まったようだけど、工夫改良されるうちに見事な多色摺りに発展、展示されている多くは実に色鮮やか。明治になると化学系の絵具が輸入されて使われるようになったようだけど、幕末までは植物の花や木の皮からとったものを色料としていたそう。

雪が降る隅田川沿いの屋根船の女性3人は、それぞれの着物の色の美しさに目を見張った。歌川国貞の「玄徳風説訪孔明 見立」(1820年)。見立というのは「歴史や物語の一場面を踏まえながら、江戸時代の人物の姿に置き換えること」らしく、今でいうパロディ。これは「三国志」の英雄、劉備玄徳が、雪が降りしきる中、諸葛亮孔明を訪れる「三顧の礼」のパロディだそうで、孔明の家を訪れる劉備、関羽、張飛の3人が、江戸時代の美女3人に置き換えられて描かれている。

あと、すごい時間をかけて見入ってしまったのは、潮干狩りの様子を描いた歌川貞秀の汐干狩の図(1849-52)。手前のほうでは女性や子どもたちが貝や魚をもりもり獲っていて、その背景には蕎麦の屋台があったり、船の上に立って酒や肴を売る商人、子どものおもちゃを売る行商人がいる。ワイワイにぎやか。女性と子どもは裸足なんだけど、右手の忍者みたいなかっこうした男性たちは足駄(あしだ)とかいう高下駄をはいている。

この展覧会は天気をテーマにしていることもあって、雨降りの絵が多く展示されていたのだけど、雨の中を傘さして、ぬかるんだ土の上を高下駄はいて歩く人たちが多く描かれていて、高下駄は今の長靴みたいな役割で使っていたのかーなんて思い巡らせながら、いろんな人たちの足もとを注意して観たりした。

この夏は、同僚の訃報があったり、あれこれの出来事や物語に触れる中で、今自分が「もっている」と感じている、大事な人たちと過ごしたかけがえない思い出も、一言で語りえぬ複雑な感情も、自分がなぜだか情熱的にもっていて手放せない考えや信念も、今この世界で自分が意識しているもの根こそぎ無に帰すらしい、いずれやってくる死というものに、怯えと諦観のないまぜを覚えたひと時だった。

私は絵の技法にも歴史にもうといので、この時代の人たちはどんなふうに生きていたんだろうな、どんな風景を見ながら暮らしていたんだろうなというふわふわした関心だけで鑑賞したが、このお出かけは心を涼やかにしたし、いくらか救われた気もする。日本橋川の透き通った水面は美しく、至るところから富士山が望める様子は開放的で、隅田川のあたりから富士山の絶景を眺める人たちの様子なども、気持ちをほころばせてくれた。

2021-08-17

ワクチン接種2回目の副反応を脱す

先週末に新型コロナウイルスのワクチン接種2回目(モデルナ)を終えましたが、いやはや副反応がきつかったです。7月半ばに1回目、モデルナは4週間あけて8月半ばに2回目接種です。

1回目は発熱なし、腕の重たみと腫れのみ(遅発性と呼ばれる接種1週間後とかから遅れて出てくるやつ)で済んだのですが。

2回目が大変。発熱はピークで38度台前半(平熱は35度台後半)、それはそれとして、とにかく頭痛がひどかった。ズキーン、ズキーンと頭の左側に激痛が走るのが、ひどい時は20〜30秒に1回のペースでやってきて、読書どころではない、ラジオも音楽も聞く気になれず、ひたすら静かな部屋で床にふせっておりました。

接種から36時間経過したくらいで峠を越えました。汗だくになって目が覚めたとき、「あ、脱した」と思いました。激戦を終え、痩せた時だけなる「よく見ると二重」を手に入れました…。

そこからまた半日くらいは微熱(私の場合36度台後半)が続き、時々、例の頭痛が走るも頻度が明らかに減って、今朝は熱も35度台に戻り、ジョギングができるまでに快復(接種から2.5日後)。

いやぁブースター接種とか、勘弁してほしい…。「1を聞いて10を知る体なので大丈夫です。撃退法、会得しました!」と拒否したいほど、きつかった…。

走って泳いで小説を集中して読める健康って、すばらしい。またしばらく「足るを知る」をスローガンにして静かに頑張れそうです。

2回目のほうが概ね強い副反応を覚えるようですが、「熱は出るけど熱が出るだけ」という話も聞けば、2回目のほうが軽かったという人の話も聞きましたし、個人差がすごくあるなぁと思うのですが、これから2回目の方(特に一人暮らしの方)は、くれぐれも潤沢な水・食料・解熱剤など最低2日分は整えて、ご自愛ください。

こうやって後から振り返ってみると、想定範囲内に収まっているんじゃないのって感じなんだけども、只中にいるときはどう転ぶか先が見えないからナーバスにならざるを得ないんだよなぁ。今回ばかりは注射嫌いの私も、その瞬間の先端恐怖そっちのけで、その直後にしびれが走ったりしないか、打った15分とか30分以内に急な体調の異変におそわれたりしないか、この頭痛が癖づいていつまでも残り続けたりしないかと、なんやかんやおっかなびっくりな時間を過ごしました。はぁ、こわかった…。必死に闘ってくれた体の頑張りに心から感謝。接種に対応くださった方々にも感謝、感謝です。

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