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2021-07-27

部外者の仕事

1年半続くコロナ禍、いよいよ東京オリンピック開幕の東京ど真ん中にいる。日に日に息苦しさが増していく中で、自分というものの空っぽさが際立って見えて青息吐息。

水泳とジョギングで、心身の健康を維持している。夏の夕景はすばらしく美しい。汗を流すと体が励ましてくれる。まぁまぁなんとか、走って泳げる健康があるんだもの、「足るを知る」ですよ、頑張りましょうと。

そして本とラジオに、救われている。なんだ、いつも通りじゃないかって感じだけれど。

出口治明さんの著した「哲学と宗教全史」は、締めも良かった。レヴィ=ストロースの

社会の構造が人間の意識をつくる。完全に自由な人間なんていない

という一節は、何ものにも代えがたい。このわさわさとしたときに与えてくれた心の森閑、思考の開放。

問題の原因を「一人の人間のせい」にして早期に事態を収拾させようとする人のさがに途方に暮れそうになるとき、この一節もまた人が遺してくれたものなのだと、ありがたく読む。

別に、誰かの行いに対して問題視するなと言っているわけじゃない。自分だって問題だと思っている。だけど「その人のせい」だけで済ませようとするのは問題の矮小化に思えるんだ。当事者じゃない人間こそ、その問題を引いてみて、その人個人のせいじゃないところにどういう間接要因があったかに思いをはせたいんだ。そちらからも問題解消の道筋を企てたいんだよ。そう叫んでいる人が、糾弾されているのを見て、自分は糾弾される立場なのかと言葉をなくす。

問題が起きた要因が、ひとつ、ひとり以外にまったく考えられないなんてことは、ちょっと想像できない。問題の要因はたいてい複数挙げられるものだ。その問題発生に影響を及ぼした、当事者を取り巻く環境、時代背景にも目を向けてみる。できるだけ複眼的に、できるだけ多層的に、さまざまな複合的要因をとらえてみようとしたい。

その問題に直接巻き込まれた人間がそれをするのは大変だからこそ、直接関わっていない部外者が、この役割をかってでるべきなんじゃないかと思う。そこから問題に対する合理的なアプローチをとって問題の解消にあたりたい、知恵をしぼりたい。

その活動は小さく、小さく、とても小さい。それまた途方にくれるネタだ。だけど、そのスタンスを手放すこともできない。静かに、大事に、その道を模索していくしかない。

それぞれの時代の、それぞれの社会構造が、人間の意識を形づくる。それは少なからずあって、私はこれを無視できない。もちろん、そこで生きる一人ひとりの個性が形作る意識も、ある。人も世の中も、バランスの中にある。ものごとの成り立ちを一つの要因に決め込んで単純化してみては、負けなのだ。私の勝負は、そこにある気がした。

いろんな影響を受けて人は成り、複合的な要因をもって事は起こる。そう見るからこそ解決アプローチも数を挙げられるし、あの手この手を企てられる。問題の責任も、人ひとりが請け負いきれるとみるのは人のことを頑丈に見立てすぎているように思う。人はもっと、もろいものだ。部外者の仕事、支援者の仕事を、自分なりに担っていきたい。

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