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2021-07-29

「Web系キャリア探訪」第32回、よそ者の価値創造

インタビュアを担当しているWeb担当者Forum連載「Web系キャリア探訪」第32回が公開されました。今回は、新卒で朝日広告社、その後ツナグ(さとなおさんの丁稚奉公)を経て、現在は都内マーケティング支援会社BICPと、岩手県住田町(すみたちょう)の地域おこし支援活動を掛け持つ伊藤美希子さんを取材しました。

「二足のワラジスト」岩手と東京でパラレルワークする理由

何はともあれ、リンク先にとんで「住田町の上空写真」を見ていただくと、うわーっという開放感に満たされます。住田町は林業の町。山があり、川が流れ、町がある。しかし「町」といったって、岩手県といえば北海道の次に大きな都道府県。「住田町」の面積を調べてみると、東京23区の半分くらいはある広大さです。そこに人口5,000人。鹿、熊、ちょっと人がいると言っていたような…。

二束わらじを始めた当初は東京と岩手を行き来していましたが、のちに岩手に移住。その上、今年6月にはBICPの住田オフィスも構えられました。確か、もとは魚屋さんだったところを住田町の方が改築してくださったのだとか。住田オフィスの写真からも、魚屋さんだった面影が感じられます(とくに奥のほう右手)。

住田町の皆さんも、伊藤さんご自身も、伊藤さんの「よそ者」というユニークさを健やかなまなざしで認めて、活かして、手を取り合って住田町の地域おこしに取り組んでいる様子が伝わってきました。

私も言わば「よそ者」、そばにいる支援者として、当事者の輪から一歩外に出たところにいながら、どう別の専門性をもちこんで部外者ならではの貢献ができるものか思案しながら仕事してきたので、個人的にも共鳴するところが多くありました。

学生時代から関心があったという社会活動に、伊藤さんがどういう経路をたどってたどりついたのか。自分が意味を見出すところに、通りの名前などついていなくても、いい意味で「行き当たりばったり」の直観を大事にして、自分で道を拓いてこられた自然体の歩み、ぜひお時間の良いときに読んでみてくださいませ。

2021-07-28

「もしかして灰田が消えたのは1995年3月!?」という迷走の一部始終

これはもう、村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を再読するしかなかろうという気分に追い込まれて、週末に読みふけった。主人公つくるの自己像は、自分のそれと重なるところが多いのだ。つくるの描写を通して自分をとらえ直せるところが多分にあって、私にはとっておきの小説である。

さて一気読みした後、せっかく再読したのだからと、泳いだり走ったりちょっとした時間に、この本の未解決事項に思いめぐらせてみた。この小説は、「結局どうなったの?」「で、どういうことだったの?」という事柄を多く含んだまま終わる。読者によっては「粗い」「完成度が低い」と評する声もあるけれど、その一方「推理小説じゃあるまいし、なんでもかんでも回収される、解明されると思うなよっ」という気もする。

彼の意識のキャビネットの「未決」の抽斗に深くしまい込まれている問題のひとつだ。

なんて、あえて「未決」という言葉を刻み込んでもいるし。再読してみて思うに、意図的な未決も、意図せぬ粗も、どっちも含んでいるってことなのかもなって個人的感想をもった。

が、とすると、だ。完成度が低いんじゃなくて、作者があえて曖昧なままに終わらせただろうところに関心が向くのが、しがない1読者として健全である。

じゃあ村上春樹が「それは皆さんのご想像にお任せします」と、意図的に書かなかった事の顛末があるとして、いちばん私が気になるのはなんだろうな。なんて思い巡らしていると、あれとこれがばさっと頭の中で関連づいて、身も心もばさっとベッドから飛び起きた。

私が気になる一番は、大学時代に主人公つくるの前から忽然と姿を消してしまった大学1年生の「灰田がその後どうなったか」だ。それと、改めて読んでみて違和感を覚えた、物語の終盤も終盤で、1995年3月に起きた地下鉄サリン事件のことを、唐突に持ち出してきたのは、どんな意味があるんだろう問題がリンクした。

もしそんな極端に混雑した駅や列車が、狂信的な組織的テロリストたちの攻撃の的にされたら、致命的な事態がもたらされることに疑いの余地はない。(中略)そしてその悪夢は一九九五年の春に東京で実際に起こったことなのだ。

確かに、主人公は駅を作る職業だし、物語を通して「駅」や「電車」は大事な存在として位置づけられている。けれど、あれほど物語の終盤になって、東京の混雑した駅の異常さについて行数を割いて語り、1995年春の事件に言及するのには、ちょっと唐突感を覚えた。相応のワケがないとおかしい。この一節は、つくるの物語世界と読者の現実世界をつなげるように、村上春樹が大事な意味をもってそこに置いたように読めた。

それが灰田の行方とつながって、仮説がひらめいた。もしかして、灰田がつくるの前から消えてしまったのは、この1995年3月の事件に巻き込まれたってことなのでは!?と。いや、巻き込まれたって断定はしない。しないけれども、あるいはそういうことが背景にあったかもしれない、なかったかもしれないという話なのでは?と。

そう思い立つと、いても立ってもいられず、関連するページを再びわわわーっとめくり直して確認した。

まず、大前提を置く。地下鉄サリン事件は1995年3月20日に起きた。

村上春樹はこの事件について、被害者など62人の関係者を訪ね、丹念なインタビュー取材をして、事件2年後の1997年3月に「アンダーグラウンド」というノンフィクション作品を出している。事件への思い入れは相当である。

では、物語のほうの時間軸と照合してみよう。

つくるが灰田と出会って親しくなったのは、つくるが大学3年生、灰田が大学1年生のとき。つくるが最後に灰田と会ったのは、その学年末の「2月末」とある。灰田は「2週間ばかり秋田に帰ってきます」と言い残して、そこから一切つくるの前に姿を見せなくなった。

これを、灰田が3月20日の事件に巻き込まれたという仮説に照らすと、2月末からは2週間というより3週間経っていて、ちょっとずれている感もありつつ、誤差の範囲とも言える。なにせ長い春休みだし、本文にあるように実家の雪かきが大変だったのかもしれない。では、一旦これを1995年2月末のことと置いてみよう。

つくるは留年も就職浪人もせず、1995年4月に大学4年生になって、1996年4月に「今」も勤務する鉄道会社に新卒入社している(とみるのが自然だ)。「今の会社に入社して14年経つ」と言っているので、この小説で描かれている「今」は、仮説に基づけば2010年ということになる。

「主人公つくるが灰田と出会って別れた大学3年生の年」と「今」の間は15年間あいている必要があり、この小説が出たのが2013年4月、この話を構想だてたのが2010年〜2012年頃とすれば、今を2010年と置き、灰田が消えた当時を1995年2月とみるのは、そう違和感ないのでは。

と、あーだこーだノートに書きつけながら一人で興奮していたのだけど、もういくらか読み足したところ急ブレーキ。

灰田は、「学年末の試験が終わった直後に自らの手で、捺印した休学届と退寮届の書類を出している」とある。学年末の試験が終わって、行方をくらますまでの間に、灰田はつくると会っているが、「休学のことをつくるには伏せていた」。もともと灰田は1〜2月のうちから学校を休学する気があって、つくるにはそれを言っていなかった。その理由は、この仮説では解けない…。

また、灰田が消えたのは「たまたまのことではない」「そうしなくてはならない明確な理由が彼にはあったのだ」と明記している。「灰田は自分の父親と同じ運命を繰り返している」「20歳前後で大学を休学し、行方をくらましている」とも意味ありげに書いてある。うーむ、そうするとやはり私の仮説は、浅はかな文学素人の思い込みにすぎないということになるか…。再び「未決」の抽斗ゆき、とほほ。

でも、この読後の迷走は、私がこの小説をみる奥行きを、より豊かなものに変えた。村上春樹がノンフィクション「アンダーグラウンド」の丹念なインタビュー取材を通じて、あの事件によってその後の人生を大きく狂わされた、その日たまたまその電車のその車両に乗ってしまった人たちの話を深く刻み込んで生きていることは、時系列的にみても間違いない。また「アンダーグラウンド」の中で村上春樹は、あの事件の被害者は「誰でもありえた」ということを強調していた。

それが私の中では、「灰田だったかもしれないし、そうではなかったかもしれない」と言いたいように読めたのだった。こんなふうに読後にもあれこれ思い巡らして、もしかして!といろいろ仮説立てて読み返したりして、読者が勝手に読みごたえを増幅させていけるのも小説の愉しみだよな。「未決」を含む小説も悪くないし、再読も独特の愉しさ。だからまぁ、この迷走も無駄じゃなかったってことでいいのだ、うんうん。

2021-07-27

部外者の仕事

1年半続くコロナ禍、いよいよ東京オリンピック開幕の東京ど真ん中にいる。日に日に息苦しさが増していく中で、自分というものの空っぽさが際立って見えて青息吐息。

水泳とジョギングで、心身の健康を維持している。夏の夕景はすばらしく美しい。汗を流すと体が励ましてくれる。まぁまぁなんとか、走って泳げる健康があるんだもの、「足るを知る」ですよ、頑張りましょうと。

そして本とラジオに、救われている。なんだ、いつも通りじゃないかって感じだけれど。

出口治明さんの著した「哲学と宗教全史」は、締めも良かった。レヴィ=ストロースの

社会の構造が人間の意識をつくる。完全に自由な人間なんていない

という一節は、何ものにも代えがたい。このわさわさとしたときに与えてくれた心の森閑、思考の開放。

問題の原因を「一人の人間のせい」にして早期に事態を収拾させようとする人のさがに途方に暮れそうになるとき、この一節もまた人が遺してくれたものなのだと、ありがたく読む。

別に、誰かの行いに対して問題視するなと言っているわけじゃない。自分だって問題だと思っている。だけど「その人のせい」だけで済ませようとするのは問題の矮小化に思えるんだ。当事者じゃない人間こそ、その問題を引いてみて、その人個人のせいじゃないところにどういう間接要因があったかに思いをはせたいんだ。そちらからも問題解消の道筋を企てたいんだよ。そう叫んでいる人が、糾弾されているのを見て、自分は糾弾される立場なのかと言葉をなくす。

問題が起きた要因が、ひとつ、ひとり以外にまったく考えられないなんてことは、ちょっと想像できない。問題の要因はたいてい複数挙げられるものだ。その問題発生に影響を及ぼした、当事者を取り巻く環境、時代背景にも目を向けてみる。できるだけ複眼的に、できるだけ多層的に、さまざまな複合的要因をとらえてみようとしたい。

その問題に直接巻き込まれた人間がそれをするのは大変だからこそ、直接関わっていない部外者が、この役割をかってでるべきなんじゃないかと思う。そこから問題に対する合理的なアプローチをとって問題の解消にあたりたい、知恵をしぼりたい。

その活動は小さく、小さく、とても小さい。それまた途方にくれるネタだ。だけど、そのスタンスを手放すこともできない。静かに、大事に、その道を模索していくしかない。

それぞれの時代の、それぞれの社会構造が、人間の意識を形づくる。それは少なからずあって、私はこれを無視できない。もちろん、そこで生きる一人ひとりの個性が形作る意識も、ある。人も世の中も、バランスの中にある。ものごとの成り立ちを一つの要因に決め込んで単純化してみては、負けなのだ。私の勝負は、そこにある気がした。

いろんな影響を受けて人は成り、複合的な要因をもって事は起こる。そう見るからこそ解決アプローチも数を挙げられるし、あの手この手を企てられる。問題の責任も、人ひとりが請け負いきれるとみるのは人のことを頑丈に見立てすぎているように思う。人はもっと、もろいものだ。部外者の仕事、支援者の仕事を、自分なりに担っていきたい。

2021-07-10

母の一声は何倍にも膨らむ

プールで泳いでいると、私がちょうど25メートルを泳ぎきって向き直り、折り返し始めるのとほぼ同時に、今プールにつかったばかりの人が泳ぎだすという場面に遭遇することがある。いや、そこ、ふつう待つでしょ!と思うんだけど、そういう常識で生きていない人もいるんだなぁと、わりとびっくりする。

じゃあ私はいつ、それを常識だと思うようになったのか?と、泳ぎながら原体験を探っていったところ、小学生の低学年の頃か、家族で初めてボウリングに行ったときの母の言葉に行き当たった。

何度かレーンにボールを転がして、とりあえずのやり方と面白さを覚えたところで、再び私の番。重たいボールをもってレーンのほうへ向かっていこうとすると、母が私を静かに呼びとめ、右のレーンの人が投げるところだから、それを待ってから行くのよと言葉をかけた。

確か右側のレーンの人を優先するのがマナーみたいな話だったと思うけれど、まぁ左であれ右であれ、隣りのレーンで今まさに投げようとしている人がいたら、その視界に後から入って集中を欠くのは野暮だという話である。

レーンにのって競技をするということでは、ボウリングも水泳も似たような光景であり、あの子どもの頃の学習からつながっているんではないか?と思い当たった。周囲を確認してから動く、周りの人に配慮して動く、そういうこと。

子どもの頃の、母のそういうさりげない教えについて、さらに思いめぐらしながら泳いでいると、電話の受け方に思い当たった。家の電話を最初に受けたときのことは憶えていないのだけど、物心ついたときには「はい、林です」と電話を受けていた。たぶん、これも小学生の低学年の頃に覚えたのだろう。

記憶にあるのは、中学にあがったときのこと。中学1年生になった春に母が、これからは「はい、林でございます」で受けるよう勧めてきたのだ。それは母のいつもの電話の受け方であり、つまりこれからは大人とまったく一緒のふるまいにアップデートするという話である。

兄はずっと「林です」で受けていたから、たぶん母は、私と妹には、中学にあがったらそういうふうに変えるように話そうって思っていたんだろう。

私はそこから「でございます」で家電を受けるようになった。それとあわせて、おそらくだけれど、言葉遣いというものに対して、わりと注意を払うというか、自分の言葉遣いを大事に選ぶという姿勢をもつようにもなった感がある。大人になってから振り返ってみて気づいたことだけど。

年相応のふるまいを覚えていくこと、自分のふるまいをアップデートして変えていくことの素地を養ったのは、たぶん母なんだろうなと思い至る。毎日、毎日を一緒に過ごす中でじわじわじわじわと、あるときは意識的に、あるときは無意識に私に注ぎこんでいってくれたものを私は大事にしている。彼女が私に遺していったもの。

私が「野郎言葉」のような表現を使わないのは母の影響としかいいようがなく、ほとんどプリインストールのような感覚で、自分の言葉遣いの中には母の言葉遣いが息づいている。母が、そういう言葉は使うんじゃありませんと私をとがめた記憶はなく、私はたぶん、母の丁寧な言葉遣いが好きだったんだろう、自然とそれにならって生きてきた。この先も大事に、大事にしていくだろう。

まぁ最近の、社内打ち合わせでのまくしたてるようにしゃべる話し方には自分で本当に辟易としていて、どうにかしたい、品がないと、打ち合わせが終わるたびに落ち込んでばかりなのだけど…。品のある生き方を心得るには、まだまだ先が長い。

2021-07-03

「研修で学んだことを仕事で活かす受講者は1〜2割」からの

研修で学んだことを仕事現場で活かす受講者は何%くらいいるのか?という疑問は、過去に多くの人たちが疑問を抱き、数々の研究結果が残されている。で、ざっくりまとめると10〜20%と言われている。

研修内容の職場実践度合いに関する先行研究をまとめると、従業員は研修で学んだ内容の10~20%程度しか職場で実践できていない(*1)

一例に、研修実施の1年後までを追ったカナダの企業258社を対象にした調査結果(Hugues, P. D. & Grant, M. 2007)とか。

研修直後には、受講者の47%が、研修で学んだ内容を職場で実践すると考えているが、半年後には12%、1年後には9%には減少していた(*2)

研修で学んだことが、ただ受講者が満足する(1.反応)にとどまらず、受講直後の段で学習目標に掲げた知識やスキルを学び取っている(2.学習)、仕事現場で定着し一般化され役立てられている(3.行動)、さらにはそれによる成果が出ている(4.成果)ことまでを射程に入れて研修を評価すべしというカークパトリックの4レベル研修評価モデルにのせてみると、次のグラフの通り(*3)。

「2.学習」から「3.行動」の間で急降下しているのが見て取れるが、この間の移行が最も難しい。

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人材育成の解決策なり、業績向上の介入策と見れば、研修は単発で効果を期待するものではなく、あくまで施策の1つとみて、研修の外側、現場とどう連携させて効果をあげるか考えるのが大事だという話。

ふつうに、冷静に考えると当たり前の話なのだけど、現実問題としてわりと研修だけに閉じて話をまとめちゃうケースは少なくない。とにかく何か策は講じねばならない。これこれはスタッフの能力不足に問題がある。能力不足への解決策は研修だ。研修受けるお膳立てしたら、あとは現場のメンバー次第だ。一つの施策で済ませたい。ありもので済ませたい。この研修パッケージでいいじゃないか。とりあえず現場の責任者として策を講じたことにはなる。他にもやらなきゃいけない課題は山積みなんである。これだけに関わっているわけにはいかない。

MITのピーター・センゲが、私たちは「問題に対して見慣れた解決策を当てはめることで対処しがち」といったようなことを「学習する組織」(*3)の中で書いていたが、組織の人材育成まわりを活動エリアにしていると、そういう場面に遭遇して、ふがふがすることは少なくない。それが社内であれ、社外であれ。

その場で瞬時に問題の構造から解決策まで枠組みだてて表現力豊かに相手と合意形成をはかっていくには、まだまだ力量不足を感じることばかりだけど、ぐぬぬっと引っかかって、根本どういう問題なんだ、これは…と立ち止まり、問題構造を整理して、解決策を自分できちんと考えて、相手と共有できるように形作って提案していこうという気概は自分にありそうなので、たとえ瞬時にはうまく立ち回れなくても、きちんと自分の時間を使って、現場の人間として働いていきたいと思う今日このごろ。現場責任者が預かる「他にもやらなきゃいけない山積みの課題」との相互関係を捉えながら、どう包括的にみて人材育成や組織作りからの有効策を打ち出せるかが肝だ。

*1と3: 中原淳(編)、関根雅泰・齊藤光弘(第13章著)「人材開発研究大全」(東京大学出版会)
*2: 中原淳「研修開発入門――会社で教える、競争優位をつくる」(ダイヤモンド社)
*4: ピーター M センゲ「学習する組織――システム思考で未来を創造する」(英治出版)

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