尾身さんが何を考えているか
思慮ぶかく事に当たり続けている尾身さんが、何を思い、何を考えているのかを垣間見られる、ノンフィクション作家の河合香織さんが著した「分水嶺 ドキュメント コロナ対策専門家会議」*を読んだ。
いまだコロナまっただ中だけど、昨年(2020年)2月3日から7月3日まで5か月の激動が、(尾身茂さんに限らず)専門家や行政側の視点を中心にして描かれている。丁寧な取材、巧緻な筆致からは、立場を異にする登場人物らの葛藤、誰もがそれぞれの立場で必死に事に当たっていることを伝えんとする著者の思いが、しんしんと伝わってきた。
なかでも尾身さんの、鋼の精神力、多様なプロフェッショナルを率いて関係者との協調を図るリーダーシップ、脱帽するしかない剣士の人格には恐れ入った。会社でリーダーを務めている人、まずまずうまくやれているかなと思っている人は、ぜひともこれを読むと、さらなる高みがどんなものなのか、自分の伸びしろ、さらなる上の目指し方を具体的にイメージできるんじゃないかと思ったりした。
尾身さんの信念は固い、窮地でもぶれない。
「なぜこのことをやっているかといえば、自分の正しさを証明するためじゃない。弁論大会でも学会でもないんだ。人の命が関わっていることだから、結果を出すべきだ」
結果を出すためには、専門家として正しいことを分析して提言すればいいだけじゃない。「公衆衛生のマネジメントとして」は、医学、サイエンスの問題を超えて、わからないことがある中でも判断していく必要がある。政府、厚労省、専門家、知事、自治体、そして国民、全員の声が一致をみない前提で、実効性のある策、メッセージを作り出して、人を動かし、結果を出していく必要がある。
「100パーセント完璧だったら、会見は必要ないかもしれない。しかし、感染症ではエビデンスが出揃う前の状態から対策を打たなければ間に合わない。だから、ここはわかっていない、ここは悩んでいます、ここは間違いかもしれないけれど確かそうだから、という部分を説明する必要があります。複雑でも、率直なリアリティを伝えることが重要です。政府は感染者数を発表していたが、その数にどんな意味があるのかを伝えなければいけない。この数は心配するようなものなのか、どんどん上がるのか、下方に向かうのか。信用できる数字なのか。他の指標がないのか。これだけで全体を評価できるのか。そういった説明をすることが信頼につながっていく」
尾身さんの中には、専門家としての責任感とともに、きちんと伝えればきっとわかってくれるという国民への信頼・期待がある。だから、首相の記者会見への同席・発言を、今なお続けているんだろう。批判を浴び、殺害脅迫を受けても、「家族が強い恐怖心や不安を抱いたのは間違いない。私自身は今の社会全体が抱える不安感を考えれば、これを事実として受け入れるしかないと思った」と腹をくくって、これを引き受け続けている。
私がこの本を読んで得られた収穫の一つは、尾身さんはこの先も絶対に嘘は言わないだろうという信頼の気持ちだ。最終的に得たい結果を踏まえて、会見などの場で「言わない」ことや「表現を丸める」ことはあるかもしれない。けれど、決して嘘は言わないし、言うべきだと信念をもって思うことはどうにかして国民に伝えようとしてくれるだろう。それを私は私で、進んで汲み取りたいと思う。
実効性ある策を講じる上で、尾身さんの都度都度の判断は難解をきわめる。政府とケンカしてしまっては専門的見地からの提案すら、ままならなくなってしまう。現場の声を無視して強行突破すれば、自治体と専門家の信頼関係が崩れてしまう。国民の納得感が得られなければ、やはり実効性ある対策は実現ならない。もちろん専門家として重要な提言は譲れない。身の危険にもさらされながら関わる専門家らが矜持をもって健全に力を発揮し続けられる環境づくり、メンタルケアも欠かせない。
「事実を伝えるには責任をとることまで考えるべきだという役所の論理と、事実はありのまま伝えるべきだという研究者の信念との間には大きな乖離が存在」する中で、首相官邸や厚労省、知事や自治体と協調して、結果を目指す苦悩も細やかに描かれている。
「サイエンスというのは失敗が前提。新しい知見が出てくれば、前のものは間違っていたということになる。そういう積み重ねが科学であり、さらに公衆衛生はエビデンスが出揃う前に経験や直感、論理で動かざるをえない部分がある。一方で役所は間違わない、間違いたくないという気持ちが強かった」
また一方で、専門家と政府の板挟みにもなる。政府は、分析結果を早く出せとせっつく。専門家は、検証が済んでいない分析結果は出せないと言う。そんな中、尾身さんは「市民にわかってもらうためにはデータが必要だ」と専門家に働きかけ、政府の要望に応えようとする。その背景を、尾身さんはこう述べる。
「それは政府の要望ということよりは、私自身の考えの表れだった。専門家会議の役割は、科学的根拠をもって政府に対しとるべき対策を提案することだ。その際、100パーセントの正確なエビデンスがない場合も当然ある。しかし、そうした場合でも今までの経験、感染症の常識、直感である程度方向性については示さなければならない。エビデンスが全部そろったものしか言えないとなると、国は何も判断できなくなる。そうなると困るのは市民だ」
「何も判断できなくなる」というのには、政府が判断の機を逸するだけでなく、誤った判断をして暴走するリスクも含んでのことだろう。市民のための最適解を出すという軸は、尾身さんの中で一切ぶれることがない。
尾身さんは、ことば通り「命をかけて」闘い続けている。2020年3月のこと、専門家会議のメンバーは全員、諮問委員会にも入ってほしいと要請があったが、メンバーの一人が「少数意見が記録に記載されないのであれば諮問委員会に入らない」と内閣官房に断りの返信をした。これを受けて、尾身さんは専門家会議の勉強会の時に皆の前で強く、こう言った。
「国にも意見があるのは当然で、我々にも意見はある。この違いをどうマネージするかが極めて重要なんだ。国と何かをやるとあちらの方向に誘導されるのではないかと言うけれど、でも抜けてしまえば何もできなくなる。諮問委員会は国からの諮問に意見を言う立場だけれど、絶対に言わなければいけないこと、どうしても譲れないことがあれば、脇田さんも私も命をかけて闘うから、一緒にやりましょう」尾身は言葉を続けた。「専門家会議内部の人間関係だって同じだ。激論になるのはいいけれど、人間関係がぎすぎすするのだけはやめてくれ。これからチームでウイルスに対峙しようとしているのに、そういうことは本末転倒だろう。我々は何のためにやっているのかをよく考えてほしい」
「尾身さんの気迫に圧倒され、誰一人として専門家会議や諮問委員会を抜けることはなかった」と著者は、この章をしめくくっている。自分は、私たちは、尾身さんに命がけで守られているのだなと思った。
「人間は不完全な存在だ。誰だって自分が他の人より物事をよく理解している、正しいと思ってしまう。私にだってそういうところはある。だけど、100パーセント正しい人もいないのと同様に、100パーセント間違っている人もいない」
そう言って、尾身さんはいろんな人の思いをおおらかに受け止めていく。矢面に立たされ、いろんな人がどかんどかんぶつかってくる中でも、自身の本来の任務に腰をすえて取り組んでいる姿には、首を垂れるほかない。
尾身さんは、著者がこの本の元となる文章(『世界』の連載)を本にまとめたいと打診したとき、こう言葉を寄せてくれたという。
「時の経過に耐える作品が残ることを期待しています」
一読者として、一市民として私は、自分がどう思慮深くおおらかに人と関わっていくかの手本にしたいと思う。
*河合香織「分水嶺 ドキュメント コロナ対策専門家会議」(岩波書店)
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