自分の大事なものには影響を受けたい
「自分が変わる」ということについて、このところ折りにふれ思い巡らせていた。
きっかけの一つは、先月に読んだ古賀史健さんの「取材・執筆・推敲 書く人の教科書」*。ライター向けの教科書ながら、「書く」ことを通して「つくる」ことが多い私には、生涯の教科書といえるほど良書だった。その始めのほうに、こんな一節があったのだ(著者は「ライターとは取材者であり、執筆とは取材の翻訳」と説く)。
自分を更新するつもりのない取材者は、どれほどおもしろい情報に触れても「へえー、なるほど」で終わってしまう。情報を、他人ごととして処理してしまう。自分のこころを動かさないまま、自分ごとにしないまま、情報としての原稿を書いてしまう。そんな原稿など、おもしろくなるはずがない。いい取材者であるために、自分を変える勇気を持とう。自分を守らず、対象に染まり、何度でも自分を更新していく勇気を持とう。
(実に豊かな文章の連なりをぶった切って部分を引用してしまっているので心苦しいのだけど)中高年になると、なかなか若い頃のように一冊の本を読んで自分の価値観ががらりと変わるようなことってなくなっていくのでは。そんな話から展開される上の一節を読んで、どきりとした。自分が「へえー、なるほど」の後、何も変化していない経験をふんだんにもっていると思いあたったからだ。
その一方で、時間の使い方、生活、仕事への向き合い方、生き方について、変わったこと、変えたこともある。どういう心もちからかと言えば、自分が大事だと思えた出来事、本、大事な人との出会いを、時の流れの行き過ぎるままに、自分の中で何も刻まず、何事もなかったかのように無意味に終わらせていっていいのだろうかと思ったからだ。私はそのこと、もの、ひとと出会えたこと、交わせたやりとりを無に帰さず、自分の中に取り入れたいと思った。
私は量を追えるタイプではない。本を読むのも遅いし、日ごろ摂取している情報も周囲の人たちに比べて狭く乏しい。人との交流も少ない。そこはまぁ、なかなか変えようも難しい。本はじっくり読みたいし、処理能力が高くない(速く回転できない)ところに無理に量を突っ込んでも仕方ない。今さらパーティーピーポーにキャラ変できるわけでもないし、したい欲もない。
しかし、だ。一つひとつの出来事、見聞きするお話、もの・ことに触れる体験、一冊の本、人との出会い、ともに過ごす時間、生まれるやりとり、それによって私の中で起こる思いや考えを丁寧に咀嚼することも、自分に取り入れることも、自分を変えていくことも、それはできるし、やりたいのだった。
真にやりたいことは、やったほうがいいんだけど、真にやりたいくせに、怠けてしまってできないことがある、続かないことがある。
多くのことは、するすると自分の目の前からなくなってしまう。それと出会い、相対せているのは、人生の中でごくわずかな時間の偶然に過ぎない。そのまま放っておくと、跡形もなく自分の中からも消えていってしまう。
自分の位置が次の時、次の時へとずるずる先へ進んでいってしまう中で、自分が何を失ったのか、何は手元に残り、それを種として何を育てていきたいのか。そういう思いや考えを柱にして丁寧にやっていけたら、ある意味失うものはないという解釈もできるし、心強いし、あったかな感謝の気持ちに満たされるし、きっと豊かに健やかに暮らしていけるだろう、という希望的観測。
*古賀史健「取材・執筆・推敲 書く人の教科書」(ダイヤモンド社)
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