« 2021年4月 | トップページ | 2021年6月 »

2021-05-27

地球の温暖化と、哲学の起こり

いま読んでいる出口治明さんの「哲学と宗教全史」が、実におもしろい。出口さんはライフネット生命保険の創業者、現在は立命館アジア太平洋大学の学長。「哲学史の研究者」然とした文章ではなく、哲学にも造詣が深い実業家の長老が語り聞かせてくれる物語のように読めて、ずっと哲学入門者な普通の企業人である私には、たいそう読みやすく意味深い一冊。

450ページくらいある分厚い本で、まだ4分の1しか読んでいないのだけど、哲学史の中でもとりわけ「紀元前」が好きな私は、今ちょうど楽しい真っただ中にいる。

この本は、西洋も東洋もひっくるめて書いてあるのが、ありがたい。「全史」といったって西洋哲学と東洋思想は分けて扱われたりするものだけど、この本は「ソクラテスよりも孔子のほうが80歳ちょい上の年長」みたいな話もあって、洋の東西を横断して哲学がどう起こってきたのか語り聞かせてくれるところが魅力的だ。

また哲学、宗教、当時の政治情勢もくみながら、どういう時代背景にあって、それがどう当時の哲学者や思想家に影響を与えたかに思いをはせ、想像を巡らせながら、読み解いていく文章も楽しい。

紀元前5世紀の前後というのは、著者いわく「草木が一斉に芽吹くように」知が爆誕した時期。それまでは長く、神話や伝説でとらえていた世界の成り立ちを、んなことあるかいな!と言ったかどうかはしらないが、この世界ってなんなんだろう、世界は何でできているのだろう?と、当時の人が論理的に考え出した。

それも洋の東西を問わず、ギリシャに始まって、ほぼ同じ時期にインドでも、中国でも、この動きがみられる。

アフリカから人類が世界各地に散らばって何万年も経ったところで、いっせいのせい!って声かけたみたいに、古代ギリシャでタレスが、インドでブッダが、中国で孔子が同時代に生まれて、紀元前5世紀あたりに集中して知を爆誕させる。

それがなんでかって、地球の温暖化に関係するという。紀元前5世紀の頃、地球の温暖化が始まる。あわせて、この頃までにちょうど鉄器が、世界中に普及していたのだという。鉄器というのは、つまり鉄製の農機具を手にしたということ。

この鉄製の農機具と、地球温暖化による太陽の恵みを受けて、このころ一気に

1. 農業の生産性が高まる
2. 人口が増える
3. 階級分化が激しくなって、貧富の差が拡がる
4. 金持ちは、使用人に農作業をやらせるようになる
5. 金持ちの家は、学者や芸術家のような人たちに食事を与えて遊ばせておくようになる
6. 知識人や芸術家が登場する

こうした流れが、紀元前5世紀の頃に、ギリシャでも中国でも「知の爆発」を起こしたという話だ。一大スペクタクル!

で実際、この紀元前5世紀のあたりにいろんな哲学者、思想家が確認されるので、気になる人たちをざっくり一覧にしてみた。以前から西洋と東洋を丸ごと並べて、生没年をグラフで見られる一覧が欲しかったのだ。没年齢もざっくり出してみた。

Photo_20210529130701

この表、せっせと数字を埋めて作っていくと、「デモクリトス、90歳ってあなた、いくらなんでも長生きしすぎじゃない?」とか、「っていうか、紀元前にして、この人たちの平均年齢71歳っていったい…」とか、いろいろ楽しい。

ちなみに、この表では一列10年単位でざっくり区切っちゃっているのだけど、同著によればプラトンはソクラテスが42歳のときに生まれ、アリストテレスはプラトンの43歳年下、こういう感覚をもてると、「ちょい上」の先輩って感じじゃないんだなぁとか、よりリアルに2者間の人間関係をイメージできて、これまた楽しい。

ヘーゲルが「弁証法」と名づけるよりずっと前、万物の根源は何だ?水か、火か、と言っている古代ギリシャで、エンペドクレスが「万物の根源は1つじゃなくて、火、空気、水、土の4元素からなる」とか弁証法やってのけているくだりとか、もう最高である。

シチリア島の彼が、「この4元素を愛が結合させ、憎が分離させる働きによって4元素は集合と離散を繰り返す」と言うのと、ほとんど時を同じくして、インドでアジタ・ケーサカンバリンが「地、水、火、風の4要素の離合集散によって説明する四元素還元説」を説き、中国でも「陰陽の交わりによって木・火・土・金・水の5元素が生まれ、この構成要素が同調・反撥しながら世界を循環させていく」とする陰陽五行説が台頭する。 一大スペクタクル!

科学はここから現代にいたるまでに目覚ましい発展をしてきているわけだけど、人が生きる上で大事な心のもちようについては、紀元前のうちに彼ら賢者が言葉を作って言い尽くしてくれていると思われてならない私には、実に味わい深い物語が詰まっている本。久しぶりにとっぷりとつかって読みたい。

*出口治明「哲学と宗教全史」(ダイヤモンド社)

2021-05-26

カミュの「正義より母の命」、村上春樹の「壁と卵」

Amazonのサイトをうろうろしているとき、なんとなく流れ着いて週末の晩に観た「アルベール・カミュ」の映画。アルジェリア出身、フランスの小説家、劇作家、哲学者とも言われるカミュの生涯をえがいた作品。

窮地に立たされたとき、何に価値をおく人間かがあぶり出される。その価値のために闘うか、手放すか。

言葉の表現者だけに、セリフの一つひとつからカミュの苦悩、意思、志すものが伝わってくる。

分裂じゃなく一致を求めている。道徳は政治を上回る。この世界の破壊を防ぐこと。

ノーベル文学賞を受賞したときの講演会場で、カミュはアルジェリアの記者に非難されたとき、「君がしていることが正義なら、私は正義より母の命を重んじる」という返すシーンには、村上春樹がエルサレム賞の授賞式に出向いて講演した「壁と卵」の話が浮かんで重なった。

もし、硬くて高い壁と、そこに叩きつけられている卵があったなら、私は常に卵の側に立つ。そう、いかに壁が正しく卵が間違っていたとしても、私は卵の側に立ちます。何が正しくて何が間違っているのか、それは他の誰かが決めなければならないことかもしれないし、恐らくは時間とか歴史といったものが決めるものでしょう。しかし、いかなる理由であれ、壁の側に立つような作家の作品にどのような価値があるのでしょうか。*

カミュの作品は、まだ「ペスト」しか読んだことがないのだけど、もういくつか人気のものを読んでみたくなった。作品を通して、彼のえがく「不条理」を読み取ってみたい。不条理について、そろそろ腰をすえて考える年頃なのかもしれない。

彼は、自分を非難して罵声を浴びせたアルジェリアの記者のことを、彼の中にあるのは自分への「憎しみじゃない、絶望だ」と静かに述べていた。

*: 村上春樹エルサレム受賞スピーチ│書き起こし.com より

2021-05-20

「Web系キャリア探訪」第30回、開放的に自己認識を塗りかえていく

インタビュアを担当しているWeb担当者Forumの連載「Web系キャリア探訪」第30回が公開されました。今回は、クラウド会計ソフトで躍進するfreeeのUXデザイナー、伊原力也さんを取材しました。

アクセシビリティでの成功事例を作りたい! 自ら手を挙げて切り拓いてきたキャリア観

伊原さんとは、彼の前職ビジネス・アーキテクツ時代から10年来の知り合いなのですが、高校生の頃から今日までの歩み、転職の背景、行動指針の変化など、今回ほどじっくり伺うのは初めてのこと。いつも密度の濃いぃ話を聴かせてくれる伊原さんですが、今回の取材ではそれを堪能できました。

「自分のことを暗に、~と規定していたのかもしれない」とか、「~としてはバリューを出せなかった」とか、自分のことを内省的に、別の言い方をすれば開放的にとらえている発言がちりばめられていて、こういう自分へのまなざしをもっていることで、人って大きくなっていけるんだなって思いました。

一連のお話を通して、「自分とはどういう人間か」という自己認識を、いろんな人と出会い、いろんな経験を積みながら塗りかえてこられたことが、すごく伝わってきたんですよね。

自分が何に向くのか、自分はこれが得意、これは苦手、これをやりたい、これはやりたくないという枠組みについて、健全な懐疑心が働いていて、勝手な思い込みで、へたに自分の可能性を閉じてしまわないように開放的に生きている感じが素敵だなと思いました。

そうしてリデザインが必要と認めたときには、自分の居場所を変え、役割を変えてこられた。その決断力や行動力にも頭が下がります。ご興味ある方は、ぜひお時間のあるときに読んでみてくださいませ。

2021-05-19

YouTube「キャリアデザイン講座」第14回を公開(プロティアン・キャリア)

勤め先のYouTube公式チャンネルで「キャリアデザイン講座」第14回を公開しました。今回が最終回。変化に富んだ時代、変わり続けることが大切とダグラス・ティム・ホール教授が説く「プロティアン・キャリア」をテーマに。ご興味ありましたら、覗いてみてくださいませ。

【クリエイターのためのキャリアデザイン講座14】(プロティアン・キャリア)

予告編も含めると全15本。昨年9月から週2ペースで、10分動画を作ってはのせ作ってはのせしてきて、なんというか、いや、すみませんでした…というか。かなり細っこい体制でせっせこやってきて、動画コンテンツ作成という面ではなかなか「回ごとに良くなっていくね!」みたいなことなく今日に至ってしまったというか、私の心臓だけいくらか強くなってここまで来てしまった感が否めませんが…。

この間、とても良い内容なので会社の研修の参考にさせてもらってもよいかってメッセージくれた方がいて、どれだけ救われたことか…。無意味ではなかった、、と自分をなんとか許せる助け舟。ありがたすぎた。

今後は、長くネットの片隅に置いておくことで偶然にも誰かの目に触れ、万が一にも誰かの何かの良いきっかけに働くことがあればと願ってやみません。

この先はもう少し具体性が高いテーマにフォーカスをあてて、社内のメンバーに役立ててもらえるナレッジマネジメント推進、求職者・求人企業が使えるコンテンツ作りに、縁の下の力持ちとして貢献していければと思っています。今後ともどうぞよろしくお願いします。

2021-05-18

元号、西暦より、その人の年齢で歴史を読む

昨日は、ひさびさに会社に出勤した。だだっ広い部屋をとって5人で2時間ミーティング。べらべらしゃべって話し合って、直接コミュニケーションとれるこぎみよさを満喫しつつ、声がかすれず最後までもったことにほっとしつつ。

その後も、あれこれの打合せやら、お久しぶりですーやら、べらべらしゃべって4時間くらいしゃべり続けていたが、夕刻まで声がもったことに感動すら覚えて帰途についた。

ここしばらく出勤もしていなかったし、私はオンラインミーティングも少ないので、発声する機会がほとんどなく、声帯がだいぶ弱っている感じ。店のレジとかで、ちょっと「ありがとうございます」と言おうとしても声がかすれてしまうとか、ラジオを聞いていて思わず声立てて笑いそうになるも声にならず、みたいな…。

それで、このままだとまずいなぁと思い、手元の本を声に出して読んでみることに。たまたま今読んでいるのが堀田善衞の「方丈記私記」*で、鴨長明の「方丈記」の引用も多いので、現代文と古文を行ったり来たりするのが変化に富んで好ましい。が、文庫本1ページも読むと声がかすれてくるのだった…。

この本、作家の堀田善衞が1971年に出した初エッセイで、著者が四半世紀前に体験した1945年3月10日の東京大空襲の日のことを、「方丈記」と重ね味わうように書いているもの。

鴨長明は、25歳で京都の大火災、28歳で大風、福原遷都、29~30歳のときに養和の大飢饉・悪疫流行、33歳で3か月にわたる連続大地震を経験し、この様子を58歳のときに「方丈記」としてまとめている。60歳目前というところで、自分がアラサーの頃に立て続けに体験した大事件の数々を思い起こし、ていねいに描写しているわけだ。

安元3年、治承4年、養和元年などと言われても、なかなかイメージが定まらず漠としてしまうんだけれど(歴史に弱いので…)、私のような「人」に関心が向く人間はとりわけ、元号や西暦ではなく、この人が何歳のときに、こういう事件を起きたのを、何歳のときどうとらえてそれを描写したのか、何を見出したのかという目線で書物を読むと、おもしろみが変わってくるものだなと思う。

もっと若い時分に気づいていればよかったのだけど、私はいい大人になってから、これに思い至った。紀元前の人物となると、なかなか年齢まではわからないところがあるけれど(実在した人物かどうかすら…)、年齢がわかっているかぎりは、この人はこれを言っているとき何歳なんだ?うぉー、私よりずっと年下じゃないか、とか、年齢を目盛りにして読むと、親近感が増して味わい深くなるのだった。

著者も、そのようなことを述べている。

おそらく私は鴨長明という人を、別して歴史的人物、歴史上の人物ーに違いもないのだがーと思っていない、あるいは歴史的人物として扱っていないということを意味するであろう。彼は、要するにいまも私に近く存在している作家である。私はそう思っている。

“歴史上の人物”とひとくくりにする紐をほどいて、現代にもごく身近に似たような人がいるかもしれないなどと思いめぐらせながら、その人を一人の人間として性格やら志しやら眼差しやら想像していくと、とても豊かに読める。

著者は、“歴史上の書物”めいた「方丈記」も、ルポルタージュのようだと言っている。

意外に精確にして徹底的な観察に基づいた、事実認識においてもプラグマティクなまでに卓抜な文章、ルポルタージュとしてもきわめて傑出したものであることに、思いあたった

また鴨長明を、こう評している。

この人は、何かがあると、ともあれ自分で見に出掛けて行く人である。いわば、きわめてプラクティカルな、観念性とは縁遠い人であり

京の大火事も、ある書物には数万人、「平家物語」には数千人の死者が出たと書いてあるが、鴨長明は数十人と書いていて、こちらのほうがきちんと現地取材をして冷静に述べている感がある、などと言っている。どの時代にも物語をつくる人もいれば、ルポルタージュをつくる人もいるとみたほうが自然である。

と、まだ読み途中なのに、なんとなくここまで走り書いてしまった。しばらくの間、これを読みながら5つの時代を行ったり来たりして、自分をほぐしたい。声帯も筋トレしたい…。

▼12世紀:鴨長明が「方丈記」に書く立て続けの災禍
1177年4月28日:京都の大火災[鴨長明25歳]
1180年4月:大風、6月の福原遷都[鴨長明28歳]
1181-1182年:養和の大飢饉・悪疫流行[鴨長明29-30歳]
1185年:3ヶ月にわたる連続大地震[鴨長明33歳]

▼1210年頃:鴨長明が「方丈記」を書く
1212年:四半世紀前を振り返り「方丈記」を書く[鴨長明58歳]

▼1945年:堀田善衞が「方丈記私記」に書く戦時下
1945年3月10日東京大空襲[堀田善衞27歳]

▼1970年頃:堀田善衞が「方丈記私記」を書く
1971年:四半世紀前を振り返り「方丈記私記」を書く[堀田善衞53歳?]

▼2021年:私が「方丈記私記」を読んでいるコロナ禍
2021年5月:「方丈記私記」を手にして読んでいる[私45歳]

*堀田善衞「方丈記私記」(ちくま文庫)

2021-05-12

中学の「日本史」教科書の2020-2040を書く遊び

2050年に使われている中学の「日本史」教科書に書かれている2020年から2040年くらいまでに起きた日本の変化を無責任に書いてみるという遊びを思いついた。

書いた内容を、みんなでシェアしたら面白いかもしれない。参加する人に応じて、【1】のように自由に書いてもらうも良し、【2】のような書き出しガイドをつけるも良し。

【1】自由記述パターン:自由に書いてください。

【2】書き出しガイドパターン:次の書き出しで、文章を続けてください。

2020年から翌年にかけては、世界的に新型コロナウイルスが大流行した。この影響を受けて日本では、~

もう少し書き出しガイドを書きこんで、テーマを絞りこんでシェアするのも楽しいかもな。

【3】テーマ絞るパターン:次の書き出しで、○○をテーマに文章を続けてください。

2020年から翌年にかけては、世界的に新型コロナウイルスが大流行した。この影響を受けて日本でも、人々の暮らしは大きく制限された。自粛期間を経てアフターコロナを迎えた日本では、草食系だった男女が一気に肉食系に転じ、少子高齢化に歯止めがかかった。これを見越した新進気鋭の法律学者兼SF作家の鈴木まるお氏が、ウィズコロナの間に選択的夫婦別姓制度や、シングルでも子育てしやすい法整備・環境づくりを働きかけ、2025年~2040年の間に日本は大改革を成し遂げた。というのは、一つに…云々

って、これじゃ教科書じゃなくて大衆紙か…。上の文章は適当すぎるが(朝に思いつきを書いただけなので容赦願いたい)まぁ教科書じゃなくてもいいのかもしれないし、テーマも真面目なものからくだけたものまで、どこにでも変えていったら良く。

そもそも2050年に教科書という名のものがあるのか、中学というものがあるのかもわからない。何メディアか、誰ターゲットか、何テーマにするか、西暦何年の設定にするか、そのあたりはいかようにもチューニングすればよいことで。いずれにせよ書き出しの文章が下手っぴだと参加者が乗れないけれど、もっと巧く書ける人が書いたら楽しい遊びになるかも。

2021-05-07

尾身さんが何を考えているか

思慮ぶかく事に当たり続けている尾身さんが、何を思い、何を考えているのかを垣間見られる、ノンフィクション作家の河合香織さんが著した「分水嶺 ドキュメント コロナ対策専門家会議」*を読んだ。

いまだコロナまっただ中だけど、昨年(2020年)2月3日から7月3日まで5か月の激動が、(尾身茂さんに限らず)専門家や行政側の視点を中心にして描かれている。丁寧な取材、巧緻な筆致からは、立場を異にする登場人物らの葛藤、誰もがそれぞれの立場で必死に事に当たっていることを伝えんとする著者の思いが、しんしんと伝わってきた。

なかでも尾身さんの、鋼の精神力、多様なプロフェッショナルを率いて関係者との協調を図るリーダーシップ、脱帽するしかない剣士の人格には恐れ入った。会社でリーダーを務めている人、まずまずうまくやれているかなと思っている人は、ぜひともこれを読むと、さらなる高みがどんなものなのか、自分の伸びしろ、さらなる上の目指し方を具体的にイメージできるんじゃないかと思ったりした。

尾身さんの信念は固い、窮地でもぶれない。

「なぜこのことをやっているかといえば、自分の正しさを証明するためじゃない。弁論大会でも学会でもないんだ。人の命が関わっていることだから、結果を出すべきだ」

結果を出すためには、専門家として正しいことを分析して提言すればいいだけじゃない。「公衆衛生のマネジメントとして」は、医学、サイエンスの問題を超えて、わからないことがある中でも判断していく必要がある。政府、厚労省、専門家、知事、自治体、そして国民、全員の声が一致をみない前提で、実効性のある策、メッセージを作り出して、人を動かし、結果を出していく必要がある。

「100パーセント完璧だったら、会見は必要ないかもしれない。しかし、感染症ではエビデンスが出揃う前の状態から対策を打たなければ間に合わない。だから、ここはわかっていない、ここは悩んでいます、ここは間違いかもしれないけれど確かそうだから、という部分を説明する必要があります。複雑でも、率直なリアリティを伝えることが重要です。政府は感染者数を発表していたが、その数にどんな意味があるのかを伝えなければいけない。この数は心配するようなものなのか、どんどん上がるのか、下方に向かうのか。信用できる数字なのか。他の指標がないのか。これだけで全体を評価できるのか。そういった説明をすることが信頼につながっていく」

尾身さんの中には、専門家としての責任感とともに、きちんと伝えればきっとわかってくれるという国民への信頼・期待がある。だから、首相の記者会見への同席・発言を、今なお続けているんだろう。批判を浴び、殺害脅迫を受けても、「家族が強い恐怖心や不安を抱いたのは間違いない。私自身は今の社会全体が抱える不安感を考えれば、これを事実として受け入れるしかないと思った」と腹をくくって、これを引き受け続けている。

私がこの本を読んで得られた収穫の一つは、尾身さんはこの先も絶対に嘘は言わないだろうという信頼の気持ちだ。最終的に得たい結果を踏まえて、会見などの場で「言わない」ことや「表現を丸める」ことはあるかもしれない。けれど、決して嘘は言わないし、言うべきだと信念をもって思うことはどうにかして国民に伝えようとしてくれるだろう。それを私は私で、進んで汲み取りたいと思う。

実効性ある策を講じる上で、尾身さんの都度都度の判断は難解をきわめる。政府とケンカしてしまっては専門的見地からの提案すら、ままならなくなってしまう。現場の声を無視して強行突破すれば、自治体と専門家の信頼関係が崩れてしまう。国民の納得感が得られなければ、やはり実効性ある対策は実現ならない。もちろん専門家として重要な提言は譲れない。身の危険にもさらされながら関わる専門家らが矜持をもって健全に力を発揮し続けられる環境づくり、メンタルケアも欠かせない。

「事実を伝えるには責任をとることまで考えるべきだという役所の論理と、事実はありのまま伝えるべきだという研究者の信念との間には大きな乖離が存在」する中で、首相官邸や厚労省、知事や自治体と協調して、結果を目指す苦悩も細やかに描かれている。

「サイエンスというのは失敗が前提。新しい知見が出てくれば、前のものは間違っていたということになる。そういう積み重ねが科学であり、さらに公衆衛生はエビデンスが出揃う前に経験や直感、論理で動かざるをえない部分がある。一方で役所は間違わない、間違いたくないという気持ちが強かった」

また一方で、専門家と政府の板挟みにもなる。政府は、分析結果を早く出せとせっつく。専門家は、検証が済んでいない分析結果は出せないと言う。そんな中、尾身さんは「市民にわかってもらうためにはデータが必要だ」と専門家に働きかけ、政府の要望に応えようとする。その背景を、尾身さんはこう述べる。

「それは政府の要望ということよりは、私自身の考えの表れだった。専門家会議の役割は、科学的根拠をもって政府に対しとるべき対策を提案することだ。その際、100パーセントの正確なエビデンスがない場合も当然ある。しかし、そうした場合でも今までの経験、感染症の常識、直感である程度方向性については示さなければならない。エビデンスが全部そろったものしか言えないとなると、国は何も判断できなくなる。そうなると困るのは市民だ」

「何も判断できなくなる」というのには、政府が判断の機を逸するだけでなく、誤った判断をして暴走するリスクも含んでのことだろう。市民のための最適解を出すという軸は、尾身さんの中で一切ぶれることがない。

尾身さんは、ことば通り「命をかけて」闘い続けている。2020年3月のこと、専門家会議のメンバーは全員、諮問委員会にも入ってほしいと要請があったが、メンバーの一人が「少数意見が記録に記載されないのであれば諮問委員会に入らない」と内閣官房に断りの返信をした。これを受けて、尾身さんは専門家会議の勉強会の時に皆の前で強く、こう言った。

「国にも意見があるのは当然で、我々にも意見はある。この違いをどうマネージするかが極めて重要なんだ。国と何かをやるとあちらの方向に誘導されるのではないかと言うけれど、でも抜けてしまえば何もできなくなる。諮問委員会は国からの諮問に意見を言う立場だけれど、絶対に言わなければいけないこと、どうしても譲れないことがあれば、脇田さんも私も命をかけて闘うから、一緒にやりましょう」尾身は言葉を続けた。「専門家会議内部の人間関係だって同じだ。激論になるのはいいけれど、人間関係がぎすぎすするのだけはやめてくれ。これからチームでウイルスに対峙しようとしているのに、そういうことは本末転倒だろう。我々は何のためにやっているのかをよく考えてほしい」

「尾身さんの気迫に圧倒され、誰一人として専門家会議や諮問委員会を抜けることはなかった」と著者は、この章をしめくくっている。自分は、私たちは、尾身さんに命がけで守られているのだなと思った。

「人間は不完全な存在だ。誰だって自分が他の人より物事をよく理解している、正しいと思ってしまう。私にだってそういうところはある。だけど、100パーセント正しい人もいないのと同様に、100パーセント間違っている人もいない」

そう言って、尾身さんはいろんな人の思いをおおらかに受け止めていく。矢面に立たされ、いろんな人がどかんどかんぶつかってくる中でも、自身の本来の任務に腰をすえて取り組んでいる姿には、首を垂れるほかない。

尾身さんは、著者がこの本の元となる文章(『世界』の連載)を本にまとめたいと打診したとき、こう言葉を寄せてくれたという。

「時の経過に耐える作品が残ることを期待しています」

一読者として、一市民として私は、自分がどう思慮深くおおらかに人と関わっていくかの手本にしたいと思う。

*河合香織「分水嶺 ドキュメント コロナ対策専門家会議」(岩波書店)

2021-05-06

高慢と正直

ゴールデンウィーク中に、ジェイン・オースティンの「高慢と偏見」を読んだ。200年も前に書かれた作品だけど、読みやすくて、おもしろくて、一気読みだったなぁ。前から読んでみようと思っていたわりに前知識を全然いれていなくて、タイトル名に気圧されて身構えつつ読み始めたのだけど、拍子抜けするほどポップであった。

訳者のおかげも大きいかもしれない。訳者選び(出版社選び)には慎重にあたった。しろうとが気取った選書をしても、ろくなことがないという教訓が体験的にあって、とにかく読みやすさを重視。原著に忠実な訳か?気にしない気にしない。Amazonのレビューを読んだり、Twitterで「翻訳者の読み比べをしてしまうほど熱心」という猛者の声を参考にして、中野康司さん訳のちくま文庫を選んだ。

「ねえ、お姉さま、コリンズさんはうぬぼれ屋で、尊大で、心が狭くて、そのうえひどい馬鹿よ」って身も蓋もないセリフもあれば、その数行あとに「利己主義を思慮分別と思ったり、危険にたいする鈍感さを、幸福の保証だと思ったりしてはいけないわ」なんて本で読まなきゃ流してしまいそうなセリフも。人のこころの一喜一憂も思慮深さも、人間の愚かさもおかしみも尊さも詰まっていて起伏が豊か。

ダーシーは、下巻では「ぼくは自己中心的な高慢な人間」だったというふうに過去の自分を振り返るんだけど、上巻では自分のことをそうは見ていない。高慢なのではなく、正しいこと、理にかなったことを大事に価値判断してきた、言動や行動を取捨選択してきた。自分が価値をおかないこと、そうだと思っていないことを、へんに人に気を遣って謙遜したり、むやみやたらと相手に調子をあわせることを選んでこなかった。

それは、自分に対して正直に生きているってことじゃないかなぁと思う。また自分が正直に向き合いたい人に対して、率直にもの言って自分のことを伝えようとする姿勢でもある。相手にそれを受け取る度量がないと、高慢ちきと思われることもあるわけだけど、そういうふうに生きる上巻のダーシーを、私はそれはそれで筋が通っていると思うし、その魅力を正面から受け止めたいんだよな。そういう意味では、私はけっこう上巻の(改まる前の)ダーシーの発言が好きだ。

「謙遜ほど欺瞞的なものはないね」と言う。「人の意見を無視しているか、間接的な自慢か、どちらかだ」とダーシー。いやいや、そんなそんなーと言って、相手の言葉をスルーする。あるいは、いやぁ、ただ~なだけですよ!と返して、実は自慢とか。なるほどなと。全員が全員こういうタイプだと大変な世の中だろうけれど、こういうタイプもあっていいのでは、いろんなタイプが交じり合って認め合っているコミュニティのほうが健全だしタフなのではと。

エリザベスも、上巻のセリフが光っている。

うぬぼれのない人なんてめったにいないわ。ほんとに、人間共通の弱点なのよ。でも、高慢は自尊心が強すぎるということだけど、自尊心と虚栄心は別よ。これはよく混同されるけど、まったく別よ。自尊心が強くても、虚栄心が強いとは限らない。自尊心は、自分で自分のことを偉いと思うことだけど、虚栄心は、他人から偉いと思われたいということよ

健全な自尊心か、不健康な虚栄心かは、それを評価している主体が自分か他人かで考えてみると、わりと判断が出しやすいかもしれない。

もうさ、ほんとさ、人の生き方において大事なことはだいたい紀元前のうちに哲学的に言葉になっていて、それをどう解釈して今の自分に展開するのかって命題も200年前には文学的に物語られていて、現代の命題といったら、じゃあその巨人の肩の上で、今の時代に自分はどう生きるのかってことしかないよなぁって。一般市民として生きる身としては、それが難しいんだけど、それを楽しんでこそなんだろうなぁって改めて思った次第。

ジェイン オースティン (著), Jane Austen (原著), 中野 康司 (翻訳)「高慢と偏見」(ちくま文庫)

2021-05-04

今どき高校生のネットリテラシーを読む

昨日のラジオで、今どき高校生のネットリテラシーを話題にしていた。日本学校保健会が、全国の高校生を対象に「メディア・リテラシーと健康行動に関する調査」を行った。調査時期は2020年1〜2月(コロナ感染拡大の直前)、調査対象者は当時の高校2年生8千人あまりで、今ちょうど高校を卒業したばかりの人たちになる。

調査結果のトピックスをいくつか紹介していたのだけど、まず健康に関する情報をどこで入手するか。

●最もよく利用するのは「インターネット」が半数(49.4%)を占めた。「テレビ・ラジオ・新聞」は17%程
●ネットで多く利用されているのは、まとめサイトやSNS。「国、自治体などのサイトは使わない」との回答が半数にのぼった

続いて、メディアで情報をみるときに確認すべき項目を確認しているか。

●いつ作られた情報かを確認するかは、「いつもする」が14.4%、「しない」が1/4を占めた
●情報源を確認するかは、「いつもする」が14.5%、「しない」が1/4を占めた
●情報は科学的な事実なのか、あるいは誰かの意見かを確認するかは、上とほぼ同様だった

とのこと。おしゃべりの中で紹介していたので、結果の全容を把握できるものではないけれど。放送から1週間は聞き逃し配信をネットで聴けるので、よろしければ下のリンク先から。

「ヘルスリテラシーを考える」 三宅民夫のマイあさ!「深よみ」丨NHKラジオ第一(5月3日7:20放送、5月10日7:40配信終了)

メディア側も、健康情報などテーマによっては、ページをデザインするときに「いつ作られた記事か」「何が情報源か」をもっと分かりやすく目に入ってくるように工夫するとか、やりようがあるのかもなぁなどと思いながら聴いていた。Twitterなどで時おり、10年前の記事とか、ちょうど1年前の今ごろという記事が流れてきて、少なくない人が昨日今日の記事と誤解しているふうな状況を見かけるし。

さて調査結果に興味を覚えて、情報源だという日本学校保健会のサイトを見に行ってみた。上に書いた内容は無料で見られなかったのだけど、調査結果レポートの一部が電子ブックで覗けた。

メディアリテラシーと健康行動に関する調査委員会報告書<令和3年3月発行>

この資料では、そもそも今どき高校生のネット利用状況がレポートされていた。不思議に思ったのが、なんでゲームの利用時間だけ、こんなに男女間で差が出るのかなということ。平日「約1時間」以上やるのが、男子は7割、女子は3割強で、はっきりとした違いが認められる。

「インターネットの利用時間」も、「勉強・学習のための情報検索のためのネット利用時間」「勉強・学習以外のネットサーフィン・情報検索」「動画・音楽・電子書籍の視聴」「ネットショッピング」のためのネット利用時間は似たりよったりなのに。ゲームは男の子が好むものという周囲の認識による環境要因なのか、もっと恒久的な生物的?な男女差の好みによる違いなのか。この先20〜30年の間に変化が出てくるのか(男女に違いがなくなってくるのか)、ちょっと興味がある。

ゲームほどのインパクトはなかったけれど、コミュニケーションのための利用時間については、女子は「1時間以上」が6割超、男子は過半数(53.0%)が「30分未満」で立場逆転、こちらもけっこうはっきりした違いが出ている。ほぅ。同じアプリを使っているんだけど、男の子はゲームしていると認識していて、女の子はコミュニケーションしていると認識しているとかはなかろうか、などとも思いつつ。こちらも、この先20〜30年で違いが維持されるか減っていくか、どうだろう。

それと些末なことだけれど、「ネットサーフィング」って言っているのが気になった。いつからネットサーフィンじゃなくなったんだ…。

2021-05-02

自分の大事なものには影響を受けたい

「自分が変わる」ということについて、このところ折りにふれ思い巡らせていた。

きっかけの一つは、先月に読んだ古賀史健さんの「取材・執筆・推敲 書く人の教科書」*。ライター向けの教科書ながら、「書く」ことを通して「つくる」ことが多い私には、生涯の教科書といえるほど良書だった。その始めのほうに、こんな一節があったのだ(著者は「ライターとは取材者であり、執筆とは取材の翻訳」と説く)。

自分を更新するつもりのない取材者は、どれほどおもしろい情報に触れても「へえー、なるほど」で終わってしまう。情報を、他人ごととして処理してしまう。自分のこころを動かさないまま、自分ごとにしないまま、情報としての原稿を書いてしまう。そんな原稿など、おもしろくなるはずがない。いい取材者であるために、自分を変える勇気を持とう。自分を守らず、対象に染まり、何度でも自分を更新していく勇気を持とう。

(実に豊かな文章の連なりをぶった切って部分を引用してしまっているので心苦しいのだけど)中高年になると、なかなか若い頃のように一冊の本を読んで自分の価値観ががらりと変わるようなことってなくなっていくのでは。そんな話から展開される上の一節を読んで、どきりとした。自分が「へえー、なるほど」の後、何も変化していない経験をふんだんにもっていると思いあたったからだ。

その一方で、時間の使い方、生活、仕事への向き合い方、生き方について、変わったこと、変えたこともある。どういう心もちからかと言えば、自分が大事だと思えた出来事、本、大事な人との出会いを、時の流れの行き過ぎるままに、自分の中で何も刻まず、何事もなかったかのように無意味に終わらせていっていいのだろうかと思ったからだ。私はそのこと、もの、ひとと出会えたこと、交わせたやりとりを無に帰さず、自分の中に取り入れたいと思った。

私は量を追えるタイプではない。本を読むのも遅いし、日ごろ摂取している情報も周囲の人たちに比べて狭く乏しい。人との交流も少ない。そこはまぁ、なかなか変えようも難しい。本はじっくり読みたいし、処理能力が高くない(速く回転できない)ところに無理に量を突っ込んでも仕方ない。今さらパーティーピーポーにキャラ変できるわけでもないし、したい欲もない。

しかし、だ。一つひとつの出来事、見聞きするお話、もの・ことに触れる体験、一冊の本、人との出会い、ともに過ごす時間、生まれるやりとり、それによって私の中で起こる思いや考えを丁寧に咀嚼することも、自分に取り入れることも、自分を変えていくことも、それはできるし、やりたいのだった。

真にやりたいことは、やったほうがいいんだけど、真にやりたいくせに、怠けてしまってできないことがある、続かないことがある。

多くのことは、するすると自分の目の前からなくなってしまう。それと出会い、相対せているのは、人生の中でごくわずかな時間の偶然に過ぎない。そのまま放っておくと、跡形もなく自分の中からも消えていってしまう。

自分の位置が次の時、次の時へとずるずる先へ進んでいってしまう中で、自分が何を失ったのか、何は手元に残り、それを種として何を育てていきたいのか。そういう思いや考えを柱にして丁寧にやっていけたら、ある意味失うものはないという解釈もできるし、心強いし、あったかな感謝の気持ちに満たされるし、きっと豊かに健やかに暮らしていけるだろう、という希望的観測。

*古賀史健「取材・執筆・推敲 書く人の教科書」(ダイヤモンド社)

« 2021年4月 | トップページ | 2021年6月 »