柳家小三治さんの「心の方針」
心をほぐすような一冊を…と、デスクの隅の積ん読本をしり目にジャケ買いしてしまったのは「どこからお話ししましょうか 柳家小三治自伝」*。名前のとおり、噺家の柳家小三治さんの自伝。表紙(Instagram)を見ているだけでも、ほっと一息。ここしばらく猛烈に忙しい日々なので、休日の隙間に一気に読んで、心ほぐしてもらった。
傘寿を迎えた小三治さんだけれど、自伝とあって若い頃のことから今までのことが200ページほどに凝縮して綴られている。なかでも二ツ目の頃の話には励まされた。
小三治さんは前座から二ツ目にあがるとき、ネタの数が少ないのを恥ずかしいと思っていた。二ツ目になるときには百くらい噺を知っている人もいるようだったし、同じ時期に入門した同期生2人も「3日あればひとつの噺をおぼえられる」と豪語していた。一方の自分は、ひと月たってもふた月たってもおぼえられない。稽古して練習してるんだけど、頭に入らない。
先へ行かないんです。これじゃあ違うな、こんな言い方ないなって。こういうときはこういう気分じゃなきゃダメだよなとか。ほんとに三歩進んで二歩下がっちゃう。
その頃から小三治さんは「落語をせりふでおぼえる、言葉でおぼえるっていうより、了見でおぼえていく。中の登場人物の気持ちになって、その人の発言としておぼえていく方法を取るようになった」と言う。
中の人の登場人物の心持ちに、すっかり沿えないと、せりふは出てこない。むなしいせりふは言えない。だから、遅々として進まない。仲間が3日後には全部すっとできるのを、ひと月もかかって半分も行かないと自分自身にいやになっちゃう、愛想が尽きる。「でも、しょうがねえから、また起き上がってムチくれてかけ出そうっていう、そういうジレンマ」を抱えながらやっていた。
時間はかかっても、表層ではなく奥をつかみにいく。形ではなく、中身を作る。中心をはずさず、まっすぐ向いて、まともにやっていく。そういう歩み方に、たいそう共鳴したし、励まされた。
私が普段たどる道のりは、回り道も多く、とろい。物事を咀嚼して、自分の中に編み込んでいって、自分で納得してから、何かに展開して、表に出していくまでにたどる道のりはややこしくて、人にばれれば何をやっとるのかと呆れられること請け合いだ。だから、どこを経由してそこにたどりついたのか、アウトプットまでの道のりを事細かに人に説明することはない。そこそこの時間内に、ほほぉというアウトプットを出せれば、誰も何も文句は言わないし、迷惑はかけない。いくらじたばたしても裏では時間がかかっていても、それはそれでいいことにした。
結局、私はそこをたどる以外の選択肢をもっていないのだ。何かをスキップして済ますのも性に合わなくて無理が出る。いったん割り切ってしまえれば、回り道も楽しめるし、自分の肥やしにもなる。時々自分の思考のとろさにやきもきしても、しゃーないと思って、あっちゃこっちゃ経由しながら丁寧にやっていく。選択肢をもたないなら、それを自分の道として楽しむ。
そうして鍛錬していく中で、小三治さんが目指す方角を切り替える、あるいは「自己を持つ」という舵をきる二ツ目時代の描写がある。
噺家になってこの世界に入ったときは、いつか文楽師匠のように完成された芸になりたいって思ってましたよ。文楽師匠は私の師匠の師匠ですし。でも、やってるうちに心の底から魂を揺さぶられるような芸になりたいって、まぁ、私の欲が出たんでしょうか。
単独での芸の完成形を目指さなくなる。ここには、噺を受け取る相手に対する期待とか信頼があると思うんだよな。自分が送り出したものを受け取った先で、相手が自分の中でそのイメージを立ち上がらせて、感情を揺らし、内容を咀嚼し、意味を作り出してくれるっていう受け手への期待とか信頼が前提にあって成り立つ話だ。
そういう想像のもとに、噺家の表現は、単独での完成を目指さなくなって、相手にどう届けるか、正解のない表現を目指して想像を巡らせ続けるようになる。それはいつでも誰でも完璧に届けられるという自分へのおごり、相手は受け取るだけという思い込みを排することでもある。相手先でどう転じるか、最後はわからない。
そういうところも自分の普段のコミュニケーションや編集業務に通じるところがあって、目指す先に共鳴するところが多分にあったんだよな。身のほど知らずって言われたら、それまでだけどもさ。
芸、芸術、人の生き方でもなんでも、いいんじゃないの、つまずいたって。その人がなにをしようとしているのか、目指していることが素敵だったら、拍手したいよね。また、拍手できる人間になりたいと思う。それにはまず自分の側を取り去ることしかない。
奥をつかみにいくっていうのは、そういうことでもあるんだよな。その人が今つまずいていることに目線をあわせて終わるんじゃなくて、その人が目指していることに目線を向けてみる。それが素敵だったら、拍手したい、応援したい、そこの目線あわせは、自分にかかっている。丁寧に、大事に、その人を見て、奥をつかみにいくのだ。奥っていうのは、先ってことにもなるのだ。
自分の大好き、自分の面白い、自分の良し、自分は何を目指して、何を素晴らしいと思い、何をみっともないと思うのか、小三治さんの心の方針がつづられていた本。
私はこれを受け取って、心の方針をもつって大事だよなって思ったし、自分の心の方針を大切にして生きるって大事だよなって思いを新たにした。私はそうやって生きていくんだ。
*柳家小三治「どこからお話ししましょうか 柳家小三治自伝」(岩波書店)
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