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2021-03-07

りこさんのポッドキャスト番組「よかった探し」にゲスト出演(番外編)

友人のりこさんのポッドキャスト番組「よかった探し」にお邪魔した件、先日こちらにも書きましたが、実際は話に花が咲いて2時間くらいくっちゃべっていまして、本編と関係ない、主にTBSラジオ愛聴にまつわるおしゃべりを30分ちょいの番外編として編集くださったものが、このほど公開されました。

番外編丨よかった探し by Rico Sengan

まず最初にお詫びしておきたいのは、わたくし「黒柳徹子さんは83歳」と明言していますが、後で不安になって調べてみたら87歳でした。87歳って、さらにすごかった!あと一休さんに出てくるのは殿様じゃなくて将軍様でした。失礼しました。

自分の話の下手さかげんをいったん戸棚にしまって、話している内容を聴き返してみるに、私はやっぱり「多面性」とか「多層性」が好きなんだなぁという思いを新たにしました。何かと相対したときに、多様な解釈をする、多面的に観る、多層的に味わうというのが好きなんだよなぁと。

逆に言うと、人でも作品でも、(自分が)一面的なものしか受け取れないとき不自然さを感じてしまう。

一面的に見える「作品」というのは、見方(言い方)を変えると、一本筋が通ってコンセプトが立ったキレきれの表現ってことになるのだろうか?と考えてみたけれど、いや、そうじゃない気がするよなぁ。

コンセプチュアルに一本筋が通って成立している作品において、多面的な表現、多層的な構造を内包することはできるのだと思うし、それを両立させられたものが上質ってやつなのかもなぁ。でも両立させるのは難しい仕事で、だから「多面的だけど散漫に過ぎる」、あるいは「コンセプトは立っているけど一面的」なところどまりの作品も少なくないってことなのかもなぁとか。

「人」から一面的なものしか受け取れなかったときは、違和感とともに、さびしさか、心配かを胸に抱く。

本人が意識的に一面的なものを出しているのだとすれば、一面しかこちらに見せる気がないんだなぁというさびしさがわくし(勝手な話だが)。

あるいは、その一面性が本人も無意識のうちってことであれば、その人はその場で固定的な役割を演じることに徹していて、そのことに無自覚であるというわけだから、無理が出ないといいなぁと心配になる(余計なお世話だが)。

いずれにせよ、人は多面的な生き物だと思っているので、あまり画一的なパーソナリティでふるまわれると、不自然さを感じ取らざるをえず。受け手としてどうも落ち着かない。逆に、その人の多面性、その作品の多層性を感じ取れたときには、すごく嬉しく豊かな気分になる。それが受け取れる人間でありたいし、自分自身も一面化しないように、いきたいもの。

と、そんなことを一人でぶちぶち書き起こしているぶんには人に迷惑もかけないわけだけど、「書き」でもこのレベルでしか言語化できないので、「しゃべり」なんて自分の中にもやもやーっとあるものの1億分の1も表せられない。

それは自分ももどかしいのだけど、聴く側にはお聞き苦しく相済みませんとしか言いようがなく。でも聴くだけコンテンツって、受け取った側の想像力でいろいろ煮たり焼いたり、お手元で自由自在にっていうのが魅力だったりもするので、その素材としてなにがしかの使い物になればと願うばかりです。

それにしても、自分の話の下手さかげんには呆れた。ふだん、いらいらするそぶりを見せずに私のおしゃべりにつきあってくれている数少ない友人などは、相当に寛容な人なんだろうと改めて感謝した…。そして改めて、いつもラジオで話をしているプロフェッショナルたちの安定した語り力に脱帽。自分でやってみると、ほんと素晴らしさが身に染みる。今後は一層の感謝とありがたみをもってラジオを愛聴したいと思いました。

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