中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円
昨年は4冊か5冊か村上春樹の作品を読んだ。けっこう前に出たもの、最近のもの織り交ぜて。そのときに書き留めたメモが出てきたのを、ちょっとこちらにも残しておきたい。
「一人称単数」は昨年の夏に出た新作、8作からなる短編小説集だ。そうとは言わないけれど、なんとなく全編、主人公のボクは村上春樹本人なんだろうなと思わせる雰囲気が漂う。「一人称単数」とも言っているし。
その中に「クリーム」というタイトルの物語があって、「中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円」というのが出てくる。老人がボクに尋ねる。「中心がいくつもあって、ときとして無数にある、しかも外周を持たない円を、きみは思い浮かべられるか?」
これは、難しい問いとして設えられている。そりゃ、そうだ。円とは「中心をひとつだけ持ち、そこから等距離にある点を繋いだ、曲線の外周を持つ図形」なのだから。
だけど数学だか算数おんちの私には、わりと一読した最初から自然に、いけるんじゃない?という感覚があった。原理とか自然法則に対する向きあい方みたいなのが生来テキトーだからだろう。
言い方を変えると、そういう言葉の言い回しをもってして老人が伝えたいことは何なのかを汲み取ることのほうに傾斜した言葉の受け取り方をするというか、数学より国語のほうが(相対的に)得意ですというか。
つまり脳内で作られているメタファー的な円であれば、外周などというのは自分の力でいくらでも融かすことができるということ。と同時に押さえておかなきゃいけないのは、私たちは円を無意識に形づくってしまうし、その外周の枠組みにとらわれてしまいやすい生き物だということだろう。
加えて、一つの中心(つまり自分の視点)からものを見るのを基本としていて、他の視点からものをみるというのは、そのやり方と筋力を鍛えないとうまくできないし、身につけたとしても余裕をなくすとうまくできなくなってしまう、危い生き物でもある。
ただ、私たちには確かに想像力というパワフルな才能があって、他の中心に移動したかのように、いろんな中心からものごとを見られる。これはものすごく尊い能力で、生かさない手はないと折りに触れて思う。
私たちは無意識に円を作ってしまうけれど、円を融かすことだってできるし、今は世の中も融かす時期、私も融かす時期。だからごくごく自然なことに受け取れた。
今日久しぶりに、このメモに目を通しているとき、なんで「円」を持ち出したのだろうなという問いが浮かんだ。円の原理にそぐわないものを円といったら混乱するじゃない?(まぁ混乱させてなんぼなわけだが、それはおいといて)
例えば「点」でいいんじゃないか。点がたくさんあって、それが散らばっているだけなら、点はいくつあってもいいし、外周を持たなくて問題ない、言葉とイメージが矛盾なく成立させられるのでは、と。
そうやって考えてみると、私たちは円ならざるをえない個人なんだなということを表しているのかなと思う。私たちは、一個人が点だとすれば、円という360度の広がりをもって環境と関わらずしては生きられない。矛盾が生じる世の中を生きることを避けられない。それを環境(円)として、切り離れずに人(点)は生きていくのだと、そんなことをイメージした。
この物語の最後のほうで、主人公は「原理とか意図とか、そういうのはそこではさして重要な問題ではなかったような気がするんだ」と言う。
それはおそらく具体的な図形としての円ではなく、人の意識の中にのみ存在する円なのだろう。たとえば心から人を愛したり、何かに深い憐れみを感じたり、この世界のあり方についての理想を抱いたり、信仰(あるいは信仰に似たもの)を見いだしたりするとき、ぼくらはとても当たり前にその円のありようを理解し、受け容れることになるのではないかーそれはあくまでぼくの漠然とした推論に過ぎないわけだけれど。
なんとなく、通じているのかなぁと。あくまで私の漠然と受け取ったイメージに過ぎないわけだけれど。
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