Webサイトをつくってきた人々の写真展「Era Web Architects」会期まぢか
3月9日、Webサイトをつくってきた人々の写真展「Era Web Architects」が始まるそうだ。その週末14日までの6日間。以前ここに書いたけれど、恵比寿のギャラリーに自分の写真が飾られるというのだから、それなりに長く生きていると、おかしなことが起こってくれるものだ。偶然にも会期初日は、自分の誕生日でもある。
会期:3月9日(火)〜14日(日)
時間:11:00~19:00(最終日のみ17時まで)
会場:HIROSHIGE GALLERY(弘重ギャラリー)
いまだになんで自分が混じっているのか理由はわかっていないのだけど、写真展の被写体になるなんて今回かぎりだろうから、とにかくありがたく、またプロの写真家の作品展として、私も会場に足を運んで観賞させてもらうつもり。
なのだけど実際問題、自分の写真がどうなっているのかは皆目見当がつかない。とりわけ、この写真が撮影された昨秋など、私が観る私は「色彩を持たない多崎つくる」の彼そのものだった気がして。
人々はみんな彼のもとにやってきて、やがて去っていく。彼らはつくるの中に何かを求めるのだが、それがうまく見つからず、あるいは見つかっても気に入らず、あきらめて(あるいは失望し、腹を立てて)立ち去っていくようだ。彼らはある日、出し抜けに姿を消してしまう。説明もなく、まともな別れの挨拶さえなく。温かい血の通っている、まだ静かに脈を打っている絆を、鋭い無音の大鉈(おおなた)ですっぱり断ち切るみたいに。
腕利きの写真家が、こんな彼を相手に撮影をしなければならなくなった場合、どう写そうとするのだろうかなと。終始おだやかに対応くださって、撮影は早々に終わったのだけど、実のところひどく困らせていたかもしれない。これをどうせぃというのだと。こういう写真展の場合、被写体を2〜3割増しに見せようというよりは、きっと実態をそのまま写しとろうとするんだろうかなぁという気もするし。
とすると、私の写真だけ壁が写っていたりして…などと妄想。それはそれで没個性を通り越して個性的な作品になれるかもしれない。タイトルは「空っぽ」。
まぁおそらく、足を運べばちゃんと自分の姿を認められるのだろう。ただ私は昔から芸術というものを観る眼がないので「自分が写っているな」としか思えず、その意味で自分の空虚を感じ取って帰途につくだろう現実的な予測はある…。ただ他の皆さんの写真は、人物そのもののオーラがものすごいので、私にも何か受け取れるものがありそうで、そこはちょっと期待してしまう。
あれから数ヶ月経ち、彼は「巡礼の年」を経て、確かさを確かめながら、前を向いて歩いている。
おれは内容のない空しい人間かもしれない、とつくるは思う。しかしこうして中身を欠いていればこそ、たとえ一時的であれ、そこに居場所を見いだしてくれた人々もいたのだ。夜に活動する孤独な鳥が、どこかの無人の屋根裏に、昼間の安全な休息場所を求めるように。鳥たちはおそらくその空っぽの、薄暗く静まりかえった空間を好ましいものとしたのだ。とすれば、つくるは自分が空虚であることをむしろ喜ぶべきなのかもしれない。
そろそろ45歳。これで生きていくしかないのだし、これとうまいことやっていくのだ。足るを知り、自分とともに過ごしてくれた人たちへの感謝と、あたたかい気持ちはずっと絶えない。この気持ちがここにあれば、こんなにあったかく、ここにあり続けてくれるなら、この先も豊かにやっていけるかなと思う。
どこまでも美しいかたちの入れ物になればいいんだ。誰かが思わず中に何かを入れたくなるような、しっかり好感の持てる容器に。
村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」、きっと読むべくして読んだんだろうな。
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