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2021-02-25

「Web系キャリア探訪」第28回、キャリア自律のお手本

インタビュアを担当しているWeb担当者Forumの連載「Web系キャリア探訪」第28回が公開されました。今回は1990年に日本航空に入社して勤続30年。JALのWebサイト・サービスを構想し、チームを作り、メンバーを率いて運営してこられた山名敏雄さんを取材しました。

新卒入社して30年。経営破綻を経験しても転職しなかった理由

総合職として入社して、ジョブローテーションで90年代には成田空港での接客業務も経験。ただ30年を振り返ると、確かにJALのWebサイト・サービスを形づくる中核人材として活躍してこられた骨太なキャリアが窺えます。

自分の仕事領域を自身で絞り込みすぎることなく、組織の意向と自分の意向をうまく重ね合わせながら歩んでこられたんだろうなぁと思います。

組織をへたに「自分のスキル獲得に使う場」という用途だけに矮小化して捉えてしまうと、広がる可能性も限定的になりかねない。

「自社のシステム開発を取り仕切るような仕事をしたかった」という思い、「JALという会社が好きだった」という思い、こういう気持ちをこそ大事に意思決定していくことで広がっていく自分の可能性って、あるんだろうって思います。

1社に30年勤務してこられたからこそ力強く伝わってくる、山名さんの自律的なキャリアの歩み。ご興味ある方は、ぜひ読んでみてくださいませ。

2021-02-24

YouTube「キャリアデザイン講座」第9回を公開(自分の仕事能力を分析)

勤め先のYouTube公式チャンネルで「キャリアデザイン講座」第9回を公開しました。今回のテーマは「自分の仕事能力を分析」。

【クリエイターのためのキャリアデザイン講座9】自分の仕事能力を分析

キャリアデザインの足場づくりとなる自己分析の中でも「自分がやりたいこと」と同等か、それ以上に要となるのが「自分ができること」、いわば自分の提供価値。

ということで、まずは能力を「基礎力」と「専門力」に大別して構造を把握。その後、とくに言葉にしにくい「基礎力」にフォーカスして、これのブレイクダウン(言語化)を試みる10分動画です。クリエイターのためのって言うんだったら「専門力」フォーカスなんじゃないの?って感もありますが、「基礎力」こそ死角になりやすいかなということで…。

ざっくりですが、一つでも能力を整理する言葉を拾って、アピールできる強み・克服したい弱点の整理に使ってもらえたら嬉しいです。

あと「予告編」含めて10回目にもなったので、今回は冒頭に、これまでどんな話をしてきたのかざっとおさらいを入れてから本編に入りました。興味ある回があれば、そちらも見てみていただければ幸いです。

「パワポで手作り」感がはんぱない家内制手工業で、こんな回数重ねてしまいましたが、見るだけでなく使ってもらえる動画づくりの努力は見受けられます、努力は。

あと冒頭の映像は、前回の反省を活かして首まわりがすっきりしたものにしたので、スッキリ感やや増しのプチ改善を果たしています。

なんだかもう長いこと、あれこれの仕事の締め切りを抱えて週末も祝日も関係なく8月最終週の小学生みたいな心もちで過ごしている気がしますが、そうこうしているうちに春がやってくるかなぁ。

中身はオーソドックスなキャリアデザインの基礎知識ですが、今の時代感をつかみながら、クリエイターの皆さんにできるだけ親しみやすく、1本10分程度で気軽に見られるものを念頭において作っています。2週間おきで更新していますので、どうぞ、ごひいきに。

2021-02-22

Webサイトをつくってきた人々の写真展「Era Web Architects」会期まぢか

3月9日、Webサイトをつくってきた人々の写真展「Era Web Architects」が始まるそうだ。その週末14日までの6日間。以前ここに書いたけれど、恵比寿のギャラリーに自分の写真が飾られるというのだから、それなりに長く生きていると、おかしなことが起こってくれるものだ。偶然にも会期初日は、自分の誕生日でもある。

会期:3月9日(火)〜14日(日)
時間:11:00~19:00(最終日のみ17時まで)
会場:HIROSHIGE GALLERY(弘重ギャラリー)

いまだになんで自分が混じっているのか理由はわかっていないのだけど、写真展の被写体になるなんて今回かぎりだろうから、とにかくありがたく、またプロの写真家の作品展として、私も会場に足を運んで観賞させてもらうつもり。

なのだけど実際問題、自分の写真がどうなっているのかは皆目見当がつかない。とりわけ、この写真が撮影された昨秋など、私が観る私は「色彩を持たない多崎つくる」の彼そのものだった気がして。

人々はみんな彼のもとにやってきて、やがて去っていく。彼らはつくるの中に何かを求めるのだが、それがうまく見つからず、あるいは見つかっても気に入らず、あきらめて(あるいは失望し、腹を立てて)立ち去っていくようだ。彼らはある日、出し抜けに姿を消してしまう。説明もなく、まともな別れの挨拶さえなく。温かい血の通っている、まだ静かに脈を打っている絆を、鋭い無音の大鉈(おおなた)ですっぱり断ち切るみたいに。

腕利きの写真家が、こんな彼を相手に撮影をしなければならなくなった場合、どう写そうとするのだろうかなと。終始おだやかに対応くださって、撮影は早々に終わったのだけど、実のところひどく困らせていたかもしれない。これをどうせぃというのだと。こういう写真展の場合、被写体を2〜3割増しに見せようというよりは、きっと実態をそのまま写しとろうとするんだろうかなぁという気もするし。

とすると、私の写真だけ壁が写っていたりして…などと妄想。それはそれで没個性を通り越して個性的な作品になれるかもしれない。タイトルは「空っぽ」。

まぁおそらく、足を運べばちゃんと自分の姿を認められるのだろう。ただ私は昔から芸術というものを観る眼がないので「自分が写っているな」としか思えず、その意味で自分の空虚を感じ取って帰途につくだろう現実的な予測はある…。ただ他の皆さんの写真は、人物そのもののオーラがものすごいので、私にも何か受け取れるものがありそうで、そこはちょっと期待してしまう。

あれから数ヶ月経ち、彼は「巡礼の年」を経て、確かさを確かめながら、前を向いて歩いている。

おれは内容のない空しい人間かもしれない、とつくるは思う。しかしこうして中身を欠いていればこそ、たとえ一時的であれ、そこに居場所を見いだしてくれた人々もいたのだ。夜に活動する孤独な鳥が、どこかの無人の屋根裏に、昼間の安全な休息場所を求めるように。鳥たちはおそらくその空っぽの、薄暗く静まりかえった空間を好ましいものとしたのだ。とすれば、つくるは自分が空虚であることをむしろ喜ぶべきなのかもしれない。

そろそろ45歳。これで生きていくしかないのだし、これとうまいことやっていくのだ。足るを知り、自分とともに過ごしてくれた人たちへの感謝と、あたたかい気持ちはずっと絶えない。この気持ちがここにあれば、こんなにあったかく、ここにあり続けてくれるなら、この先も豊かにやっていけるかなと思う。

どこまでも美しいかたちの入れ物になればいいんだ。誰かが思わず中に何かを入れたくなるような、しっかり好感の持てる容器に。

村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」、きっと読むべくして読んだんだろうな。

2021-02-13

中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円

昨年は4冊か5冊か村上春樹の作品を読んだ。けっこう前に出たもの、最近のもの織り交ぜて。そのときに書き留めたメモが出てきたのを、ちょっとこちらにも残しておきたい。

「一人称単数」は昨年の夏に出た新作、8作からなる短編小説集だ。そうとは言わないけれど、なんとなく全編、主人公のボクは村上春樹本人なんだろうなと思わせる雰囲気が漂う。「一人称単数」とも言っているし。

その中に「クリーム」というタイトルの物語があって、「中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円」というのが出てくる。老人がボクに尋ねる。「中心がいくつもあって、ときとして無数にある、しかも外周を持たない円を、きみは思い浮かべられるか?」

これは、難しい問いとして設えられている。そりゃ、そうだ。円とは「中心をひとつだけ持ち、そこから等距離にある点を繋いだ、曲線の外周を持つ図形」なのだから。

だけど数学だか算数おんちの私には、わりと一読した最初から自然に、いけるんじゃない?という感覚があった。原理とか自然法則に対する向きあい方みたいなのが生来テキトーだからだろう。

言い方を変えると、そういう言葉の言い回しをもってして老人が伝えたいことは何なのかを汲み取ることのほうに傾斜した言葉の受け取り方をするというか、数学より国語のほうが(相対的に)得意ですというか。

つまり脳内で作られているメタファー的な円であれば、外周などというのは自分の力でいくらでも融かすことができるということ。と同時に押さえておかなきゃいけないのは、私たちは円を無意識に形づくってしまうし、その外周の枠組みにとらわれてしまいやすい生き物だということだろう。

加えて、一つの中心(つまり自分の視点)からものを見るのを基本としていて、他の視点からものをみるというのは、そのやり方と筋力を鍛えないとうまくできないし、身につけたとしても余裕をなくすとうまくできなくなってしまう、危い生き物でもある。

ただ、私たちには確かに想像力というパワフルな才能があって、他の中心に移動したかのように、いろんな中心からものごとを見られる。これはものすごく尊い能力で、生かさない手はないと折りに触れて思う。

私たちは無意識に円を作ってしまうけれど、円を融かすことだってできるし、今は世の中も融かす時期、私も融かす時期。だからごくごく自然なことに受け取れた。

今日久しぶりに、このメモに目を通しているとき、なんで「円」を持ち出したのだろうなという問いが浮かんだ。円の原理にそぐわないものを円といったら混乱するじゃない?(まぁ混乱させてなんぼなわけだが、それはおいといて)

例えば「点」でいいんじゃないか。点がたくさんあって、それが散らばっているだけなら、点はいくつあってもいいし、外周を持たなくて問題ない、言葉とイメージが矛盾なく成立させられるのでは、と。

そうやって考えてみると、私たちは円ならざるをえない個人なんだなということを表しているのかなと思う。私たちは、一個人が点だとすれば、円という360度の広がりをもって環境と関わらずしては生きられない。矛盾が生じる世の中を生きることを避けられない。それを環境(円)として、切り離れずに人(点)は生きていくのだと、そんなことをイメージした。

この物語の最後のほうで、主人公は「原理とか意図とか、そういうのはそこではさして重要な問題ではなかったような気がするんだ」と言う。

それはおそらく具体的な図形としての円ではなく、人の意識の中にのみ存在する円なのだろう。たとえば心から人を愛したり、何かに深い憐れみを感じたり、この世界のあり方についての理想を抱いたり、信仰(あるいは信仰に似たもの)を見いだしたりするとき、ぼくらはとても当たり前にその円のありようを理解し、受け容れることになるのではないかーそれはあくまでぼくの漠然とした推論に過ぎないわけだけれど。

なんとなく、通じているのかなぁと。あくまで私の漠然と受け取ったイメージに過ぎないわけだけれど。

2021-02-10

YouTube「キャリアデザイン講座」第8回を公開(エキスパートへのキャリアパス)

勤め先のYouTube公式チャンネルで「キャリアデザイン講座」第8回を公開しました。今回は、すでに見習い期間を経て一人前として活動しているクリエイターの方に向けて「エキスパートへのキャリアパス」を3段階に分けてご紹介。各ステージの説明に照らし合わせながら自分の現在地を確認→次の目標を具体化する一助になれば…という試みです。

【クリエイターのためのキャリアデザイン講座8】エキスパートへのキャリアパス

やっぱり台本作りにうなりまくっている間に時が経ち、スライド作ってナレーション録ってアニメーションに仕立ててっていうところがどどどどーっとなってしまう。

一年ちょい前にここに書いた話の中で載せた「熟達レベルによって、適した学習アプローチって変わってくる」って図もスライド(というか動画)に入れ込もうかと思いつつ、あまり情報密度が過剰すぎてもいけないのかとも思い巡らせているうち待ったなしに、結局セリフ頼みにしてしまった。なかなか、いろいろ、難しい。

「クリエイターのための」が甘いのも相変わらずで、引き続きの課題。前回も今回も、一歩進んで二歩下がった感ということは、前々回から二歩下がってる?気がしないでもないけれども、とにかく、相変わらず、せっせと作っております。

中身はオーソドックスなキャリアデザインの基礎知識ですが、今の時代感をつかみながら、クリエイターの皆さんにできるだけ親しみやすく、1本10分程度で気軽に見られるものを念頭において作っています。2週間おきで更新していますので、どうぞ、ごひいきに。

2021-02-09

母が他界して10年になる

今は2021年だというから、あれから丸10年経ったということだ。寒い、寒い日だった。たしか小雪が舞っていた気がするんだけど、実際どうだったか、記憶があやしい。10年前の、明日のこと。母はお棺に入れられて、病院から家に、霊柩車に乗って帰ってきた。

私は病院でお棺の隣りに座って、なんという光景だと絶句しながら母のそばについて、霊柩車に乗って母と一緒に実家に帰ってきた。通りに面した実家の大きな窓が開け放たれて、母が横になっている棺が、葬儀屋さんによって家の中に運び込まれるのを、道につったって、見ていた。なんという光景だと絶句しながら。寒い、寒い日だった。私は寒くて、つらくて、悲しくて、ぐちゃぐちゃの理由に飲み込まれて、ふるえていた。その記憶は間違いない。

たくさん、いろんなことがあったんだよ。あれから。悲しいこともたくさんあったし、嬉しいこともあった。途中まではずいぶん空っぽで歩いていたんだけど、2014年頃からかなぁ、長く生きていたいなぁと思うようになって、それからも泣いたり笑ったりしながら、いろいろあったけれど、またここしばらくで少し強くなれたかもしれないよ。

今月に入って、命日の1週間前に、久しぶりに母が私の夢に登場した。きれいなブルーの、私より大きな背丈の、チューリップみたいな花を、私の夢の中で咲かせていった。催促かしら?と思って、今週のお墓参りには青い花をもっていこうかなと思っている。ありがとうって言いに行こう。

2021-02-01

農夫と画家は、木と森なのか

最近、野中郁次郎を読んでいる。暗黙知と形式知のSECIモデルは一応知ってはいたものの、それを著した1995年の「知識創造企業」、25年とんで続編として出された2020年の「ワイズカンパニー」には、図だけでは語り尽くせないあれこれが詰まっているのだろう。ということで、日々の実践に追い立てられつつ、遅ればせながらナレッジマネジメントの知識を下地づくりしている2021年…。

それはそれとして、その最近出たほうの「ワイズカンパニー」の中ほどに「木と森を見る」という一節があり、ここで、んん?と立ち止まってしまった。

そこに至るまでの文脈は、こんな感じだ。

リーダーは本質をつかむのが大事であり、「木と森を同時にみようとすること」も、本質をつかむ訓練になるよと。

それで、まず「木」の部分の重要性を示す事例がある。セブン-イレブン・ジャパンが一店舗ごと&一品ごとの在庫管理を重視している話。

その後、一方で「全体像も同じぐらい重要である」と続いて、次の決めゼリフがある。

どういう「木」を植えるかは、店員の判断で決められるが、どういう「森」(全体像)を育てるかは、本社の経営陣が決めなくてはならない。

と来れば、その直後に続いている「本田宗一郎の話」は、「森」も大事だって話の事例なんだろう。そう予想しながら、私は先を読み進めた。

本田宗一郎は「木を見ることと森を見ることの違い」を説明するとき、よくこの若い農夫と画家の話を引き合いに出していたと紹介の上で、ホンダの社内報(1966年4月)に掲載された「正しいものの見方」と題する文章が引用してある(本田氏ご自身の経験に基づく文章だそう)。

この文章前半のエピソード部分は、いくらかはしょって要約すると、

(本田宗一郎が)ある農村へ行って、「牛の耳はどこにあるのか?」と青年に聞くと、農夫は答えられなかった。実は、角(つの)の後ろにあって、角でちゃんと耳を保護しているのだが、毎日牛を見て暮らしている人間が答えられない。それが東京へ出てきて、友人のある画家に同じ質問をしたら、その人は「ああ、それは角の後ろだよ」と見事に答えた。

そこまではエピソードとして、私もふむふむと読んだのだ。問題はその先なので、それに続く後半の文章は、本文をそのまま引用したい。

年に一回も牛を見ない東京の画家にすぐわかって、毎日牛を飼っているお百姓さんが、わからない。お百姓さんには牛の耳がどこにあろうが、要はよく働いてくれて、高く売れればいいんです。だから、耳なんか、ない方がいいくらいに思っている。ところが、画家の方は、常にものを見る眼ができている。ただ、表面を見るだけでなく、観察をしている。動物の生態を苦労して、観察している

どうだろう、私はこれって「木を見ることと森を見ることの違い」を説明するときの、さらには「森の重要性を示す」例として適切なのか?と首をひねってしまった。重箱の隅をつつきたいとかじゃない、私、何か読み方おかしいのかと自分の読解に疑いをもって、あれれ?と立ち止まってしまったのだ。

本田宗一郎の文章そのものには「木と森」「細部と全体像」といった言葉は含んでいない。なので、画家の「表面を見るだけでなく、生態をも観察する眼をもつ」大切さを説いている文章と読むぶんには、素直になるほどと思う。

が、上に書いたような文脈できて、著者がこの文章を引き合いに出したということは、

●農夫が「細部」を見ている

●画家が「全体像」を見ている

●画家がもつ「全体像を見る」眼を育むことが大事

っていう話になっていないと文脈上おかしいよな?と思うのだけど。

でも、どうも私には、ここで画家が発揮したのは「細部を見る」観察眼だったように思われて、んん?と迷子になった。

農夫は細部(耳の位置)は把握していないものの、画家よりずっと総体というか1個体としての牛のことや、牛の生態に詳しいということもあったりなかったりしない?と想像がめぐってしまって、なんか腑に落ちないままだ。

当時の時代背景をもって汲むべき観点があるのかもしれないけど、でもこの文章を引用している本の出版年は昨年だしなぁ。

どこかで私の読解のほうがズレちゃったのか、どうなのか。これは、あれか、青いドレスが金のドレスに見えちゃった、あれ的な私の曇りメガネのせいか…。

その一方で、木と森ってけっこう反転させてみて、自分が木と思いこんでいるものを森として、森と思いこんでいるものを木として捉え直してみると、なんか発見があるのかもなぁとも思いめぐらせた。

例えば「話し方より、話の内容こそが本質だろう」と言われると、ふんふん、もっともだと思う。それでいうと話し方が細部で、話の内容が全体像っぽいけれど、そこでいう「本質」というのが、相手を実際に動かすメッセージとして働くのはどっちだ、どちらのほうが相手の感情をふるわすかという指標で測られるとしたら、果たしてどうなんだろうなぁと揺らいできたりして。まぁ「本質」と「全体像」じゃ、ちょっと話がずれているけれども。

私は、人類学者の川田順造さんの「聲(こえ)」という本の書き出しにある一文がお気に入りで。

声は人間の生理の、深くやわらかな部分に直結しているらしい

声の影響力というのはほんと、自分が自覚しているよりもずっとずっとパワフルなものなんだよなぁと思っている。が、どれくらいかってなかなか、相変わらずわからない。

人間一個人の認識なんてずっと揺らぎの中にあるものなぁ、自分が自覚できていない、認識違いをしていることに揺さぶりをかけるのは大事。

と、話が大幅にずれてきたところで筆をおく。一人で考えてもすっきりせずじまいなので、とりあえずここに書いておいて、どこかで誰かと話せたら聞いてみようと思うけれど、果たしてこれにつきあってくれる人がいるかどうか…。

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