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2021-02-01

農夫と画家は、木と森なのか

最近、野中郁次郎を読んでいる。暗黙知と形式知のSECIモデルは一応知ってはいたものの、それを著した1995年の「知識創造企業」、25年とんで続編として出された2020年の「ワイズカンパニー」には、図だけでは語り尽くせないあれこれが詰まっているのだろう。ということで、日々の実践に追い立てられつつ、遅ればせながらナレッジマネジメントの知識を下地づくりしている2021年…。

それはそれとして、その最近出たほうの「ワイズカンパニー」の中ほどに「木と森を見る」という一節があり、ここで、んん?と立ち止まってしまった。

そこに至るまでの文脈は、こんな感じだ。

リーダーは本質をつかむのが大事であり、「木と森を同時にみようとすること」も、本質をつかむ訓練になるよと。

それで、まず「木」の部分の重要性を示す事例がある。セブン-イレブン・ジャパンが一店舗ごと&一品ごとの在庫管理を重視している話。

その後、一方で「全体像も同じぐらい重要である」と続いて、次の決めゼリフがある。

どういう「木」を植えるかは、店員の判断で決められるが、どういう「森」(全体像)を育てるかは、本社の経営陣が決めなくてはならない。

と来れば、その直後に続いている「本田宗一郎の話」は、「森」も大事だって話の事例なんだろう。そう予想しながら、私は先を読み進めた。

本田宗一郎は「木を見ることと森を見ることの違い」を説明するとき、よくこの若い農夫と画家の話を引き合いに出していたと紹介の上で、ホンダの社内報(1966年4月)に掲載された「正しいものの見方」と題する文章が引用してある(本田氏ご自身の経験に基づく文章だそう)。

この文章前半のエピソード部分は、いくらかはしょって要約すると、

(本田宗一郎が)ある農村へ行って、「牛の耳はどこにあるのか?」と青年に聞くと、農夫は答えられなかった。実は、角(つの)の後ろにあって、角でちゃんと耳を保護しているのだが、毎日牛を見て暮らしている人間が答えられない。それが東京へ出てきて、友人のある画家に同じ質問をしたら、その人は「ああ、それは角の後ろだよ」と見事に答えた。

そこまではエピソードとして、私もふむふむと読んだのだ。問題はその先なので、それに続く後半の文章は、本文をそのまま引用したい。

年に一回も牛を見ない東京の画家にすぐわかって、毎日牛を飼っているお百姓さんが、わからない。お百姓さんには牛の耳がどこにあろうが、要はよく働いてくれて、高く売れればいいんです。だから、耳なんか、ない方がいいくらいに思っている。ところが、画家の方は、常にものを見る眼ができている。ただ、表面を見るだけでなく、観察をしている。動物の生態を苦労して、観察している

どうだろう、私はこれって「木を見ることと森を見ることの違い」を説明するときの、さらには「森の重要性を示す」例として適切なのか?と首をひねってしまった。重箱の隅をつつきたいとかじゃない、私、何か読み方おかしいのかと自分の読解に疑いをもって、あれれ?と立ち止まってしまったのだ。

本田宗一郎の文章そのものには「木と森」「細部と全体像」といった言葉は含んでいない。なので、画家の「表面を見るだけでなく、生態をも観察する眼をもつ」大切さを説いている文章と読むぶんには、素直になるほどと思う。

が、上に書いたような文脈できて、著者がこの文章を引き合いに出したということは、

●農夫が「細部」を見ている

●画家が「全体像」を見ている

●画家がもつ「全体像を見る」眼を育むことが大事

っていう話になっていないと文脈上おかしいよな?と思うのだけど。

でも、どうも私には、ここで画家が発揮したのは「細部を見る」観察眼だったように思われて、んん?と迷子になった。

農夫は細部(耳の位置)は把握していないものの、画家よりずっと総体というか1個体としての牛のことや、牛の生態に詳しいということもあったりなかったりしない?と想像がめぐってしまって、なんか腑に落ちないままだ。

当時の時代背景をもって汲むべき観点があるのかもしれないけど、でもこの文章を引用している本の出版年は昨年だしなぁ。

どこかで私の読解のほうがズレちゃったのか、どうなのか。これは、あれか、青いドレスが金のドレスに見えちゃった、あれ的な私の曇りメガネのせいか…。

その一方で、木と森ってけっこう反転させてみて、自分が木と思いこんでいるものを森として、森と思いこんでいるものを木として捉え直してみると、なんか発見があるのかもなぁとも思いめぐらせた。

例えば「話し方より、話の内容こそが本質だろう」と言われると、ふんふん、もっともだと思う。それでいうと話し方が細部で、話の内容が全体像っぽいけれど、そこでいう「本質」というのが、相手を実際に動かすメッセージとして働くのはどっちだ、どちらのほうが相手の感情をふるわすかという指標で測られるとしたら、果たしてどうなんだろうなぁと揺らいできたりして。まぁ「本質」と「全体像」じゃ、ちょっと話がずれているけれども。

私は、人類学者の川田順造さんの「聲(こえ)」という本の書き出しにある一文がお気に入りで。

声は人間の生理の、深くやわらかな部分に直結しているらしい

声の影響力というのはほんと、自分が自覚しているよりもずっとずっとパワフルなものなんだよなぁと思っている。が、どれくらいかってなかなか、相変わらずわからない。

人間一個人の認識なんてずっと揺らぎの中にあるものなぁ、自分が自覚できていない、認識違いをしていることに揺さぶりをかけるのは大事。

と、話が大幅にずれてきたところで筆をおく。一人で考えてもすっきりせずじまいなので、とりあえずここに書いておいて、どこかで誰かと話せたら聞いてみようと思うけれど、果たしてこれにつきあってくれる人がいるかどうか…。

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