低い自己評価
実際に何が影響して、いつからそうなったのか自分でも一言では言い切れないのだけど、私は自分の人生に対して、そう長い見通しというのをもたなくなり、それが過剰に前景化してしまっていた。
別段ひどく沈んだ状態で鬱々と過ごしていたわけではないし、楽しく人と過ごす時間もあれば、熱心に仕事に打ち込む時間ももってはきていたのだけど、いつからか「今を大事にするほかない」という刹那的な感覚が足元をひたすようになり、(過去自分比でいえば)自分の将来を志向する感覚から遠のいていた。
あと30年とか40年とか生きる想定で、自分の先々に具体的な期待をもって計画立てたり活動を仕掛けていくという自発的な生命力は、どこかの時点から手放してしまっていたような。悔いが残らないように頑張るというより、いつ終わってもさほど悔いがわかないように抑え込んできたような。
今あるものを、ありがたくいただく。今あるものに満足し、今ある立場に安住し、今いただける機会を活かして、その役割を果たせるように努める。いつか、どこかで、などと言っていても今しかないのだから。それは死生観によるところもあるし、無価値な自分をどう健全に受け止めて平静に生きていくか考えた末の苦肉の策でもあった。
常にニュートラルに自分を置いて、自然の巡りに身をゆだねる。それが私個人として快いこともあれば、不快なこともあるかもしれないが、いずれも自然現象として受け止め、外の世界の動きに身をゆだねる。上がった気分はゼロに戻し、下がった気分はゼロに引き上げる。そうやって、できるだけ淡々と毎日を、できるだけ丁寧に生きていく。そんな心もちに落ち着いていた。
それは静かで穏やかで、ある意味では平和だったが、一方で人間味を欠いていた。当然、ただの人間である、何も達観していない私には、いよいよちょっとつまらない、物足りないということになり、その無理が今頃ようやく、わかり出してきたということかもしれない。いや、もう少し主体的に生きたいのだと、私の中の小僧がうごめきだしたということなのか。
凡人、サポーター、脇役、裏方、下支え、無為自然、そういう言葉をかぶせにかぶせて、自分で自分の役どころを縛りつけ、役割を型にあてはめすぎてしまっていたような。
でも、人間も人生も、そんなに単純ではない。それは凡人だろうが変わらない。多面性をもつのが人間であり、人の生きる道なのに、何をやっているのか。定義することで、思考停止して楽をしたかったのだろうか。
今その紐をほどいて、とかしている。自然界に、人間界に、そんな縛りは別にないのだ。そんなのは自分で作ったただの紐に過ぎないじゃないか。自分の意識から消失させてしまえば、ただの野っ原である。そっち側の人とこっち側の人と分類する紐は、どこにも見当たらない。
世の中視点で自分が脇役スペックだろうとも、それはそれで。そうであっても自分の人生はとりあえず、自分を主人公に自分でとりまわすほかないのだし、それは逃れられない配役なのだ。遠のけても遠のけてもついてきて、逃げ腰ではつまらなくなってしまうのだ。
何者でもない無価値な自分というものの自己評価にくたびれて、くたくたになって、それを前向きに受け止めて健全な心もちで生きていけるように、いろんな自分の位置づけ方というのを頭の中で思考巡らし、たどりついたのが、これまでのスタンスだったのかもしれない。
が、それなら低くしか見積もれない自己評価そのものを手放してしまえば良かったのだ。自分ではなく、自分がやることに集中して、それが意味あるものになるように、そちらに焦点をあわせて、やっていったらいいのだ。やれやれ。
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